水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

1月15日

2013年01月14日 | 学年だよりなど

 学年だより「かけがえのない時」

 「高校時代という貴重な時間を大切にしてほしい」的な話を、入学式なんかで聞いたりするものだが、それを語る大人ほどには、みなさんは本気で感じてないと思う。
 でも、部活の試合で負けたあとの帰り道や、友達と馬鹿話してるだけの放課後の教室や、あまり接点のなかったクラスメイトと急に意気投合したときや、帰りに食べたラーメンがなぜかいつもよりおいしかった時や、文化祭のあと突然風が冷たく感じた瞬間やら、なんでもない具体的なその瞬間が、かけがえのないものに思えた時はないだろうか。
 ちなみに「かけがえのない」は「掛け替えのない」と書く。そこに掛けてあるものを失ったなら、他に掛けるものが見つからない、つまりかわりになるものが存在しないほど大切だという意味だ。
 別に高校時代だけが大事ってわけじゃないでしょ、とみなさんは思うかもしれない。
 しかし、何十年も生きたわれわれから見ると、わずか十数年しか生きていない今のみんなにとっての一年、一ヶ月、一週間、一日は、やはりまぶしいほど大切に見える。
 そのかけがえなさは、当事者には自覚しにくいのも事実だ。
 しかし、何かやりたいことを見つけたとき、やるべきことをやろうとしたとき、仮にそんなにやりたくないことであっても、それにのめり込み、打ち込んだ時には、費やした時間への愛おしさを感じることができるのだ。みなさんにもそんな時を過ごしてほしいと思う。


 ~ 私は、何ものにもなれない自分に苛立っていた。
 本当は何かを表現したいのに、その表現の方法が見つからない自分を持て余していた。
 もう少し勉強すれば、地域で一番の進学校にも行けたのに、通学の長さを理由に、行きやすいいまの学校を選んだ自分が嫌いだった。
 演劇は、そんな私が、やっと見つけた宝物だった。 (平田オリザ『幕が上がる』講談社) ~


 なんとか地区大会を勝ち抜き、県大会に臨むにあたり、さおりは、台本を書き換えた。
 映画やドラマで描かれる「高校生らしい高校生」なんて、現実にはいないと思ってた。
 いっしょに芝居に取り組んできた目の前の仲間達こそが現実の姿だとの思いをこめた。


 ~ 私たちは、舞台の上でなら、どこまでも行ける。どこまででも行ける切符をもっている。私たちの頭の中は、銀河と同じ大きさだ。 … どこまでも行けるから、だから私たちは不安なんだ。その不安だけが現実だ。誰か、他人が作ったちっぽけな「現実」なんて、私たちの現実じゃない。 ~


 書き換えた台詞、そこに込めた思いは客席に十分伝わっている思えた。
 県大会の舞台が終わる。幕が降りた瞬間、今まで聞いたことのないような拍手が聞こえてくる。
 反対側の袖でガッツポーズをする役者が見える。ユッコと中西さんが抱き合うのが見える。
 後輩の男子部員が、自分のとなりで泣いている。かけがえのない時間だった。

コメント
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