駿台教員研修会で霜栄先生の「センター現代文講座」を受けながら、そうか伊坂幸太郎の「死神」はポストモダンだったのかと思い立った。
日本人にとって死神といえば、長く「アジャラカモクレン、テケレッツのバア」だった(若い方は知らないかな、落語「死神」にでてくる死神退散の呪文で、「寿限無」の次ぐらいに有名な落語のセリフ)。
おじさんかおじいちゃんかわからないような貧相で暗い顔をしたおっさんが、死神がこの世の姿を現すときのビジュアルだった、ということを言いたいのです。
しかし、数年前にかわった。
「デスノート」のリュークは、人には見えない。化け物でもなく怪獣でもなく、あえて言えば西洋の悪魔のイメージに近く、羽のはえた姿は天使が悪い方へ変態するとこうなるのかと思わせる姿だった。
日本人の死神像は、数年前にやっと西欧化、つまり近代化したのだ。
お金に困って死のうとしている男に、「ちょっと助けてやろうか」という人間くさい死神が、落語の死神。
ノートに書かれた人間の命を容赦なくうばう「デスノート」の死神。
そして、今や、死神といえば「千葉」という時代が訪れた。
伊坂幸太郎『死神の浮力』があまりにおもしろかったので、文庫で『死神の精度』を読み直してみた。
おもしろい。純然たるエンターテインメント。
登場する死神たちは、そのつど状況に応じた人間の姿をともなって人間界に現れ、調査対象となった人間が「可」なのか「見送り」なのかを見極める。
死に対するウエットな感情をまったく持たない点で「近代的」死神のようであるが、時折人間の感情を自分なりに整理し「見送り」を申請して新しい人生を与える点で、「落語的」死神以上に人情があつい。
プレモダンでもなくモダンともいえない、ポストモダンとしての死神像がそこにある(無理矢理なこじつけにちょっとつかれた)。
『死神の精度』は、吹奏楽曲でいえば、のりのいいポップス曲。演奏会2部の楽しいステージのオープニングで鉄板の盛り上がりを約束する曲のイメージだ。
そして『死神の浮力』は、1部のメインにも2部のメインにもなり、コンクール全国大会で演奏されてもなんの問題もない大曲だ。そう、伊奈学園さんの「レミゼラブル」のように。
純文学とかエンタメとかの枠組みを超えている。
幼い子どもを事件で失った夫婦の悲しみ、そういう事件にまきこまれた人を世間はどう扱うかという現代社会の問題、さらに人はなぜ生きるのかという根本的な問題。
「死神」という荒唐無稽の存在をもちこむことで、かえって人間存在の不条理を浮き彫りにしながら、生きることへの一筋の希望を見いださせる展開。
ひとつひとつの言葉、様々な場面の描写のどれをとっても、今年書かれた日本語のなかで最も良質なものであることは間違いないと感じた。
良質なエンタメ作品としてしか評価できない人もいると思うけど、そんな次元ははるかに越えている。
ということで、今年読んだ小説ベスト3をあげておきたい。
辻村深月『島はぼくらと』。高校の先生でこれ読まないなんてありえない。
江國香織『はだかんぼうたち』。「本の雑誌」が上半期1位にしたのも納得できる。
伊坂孝太郎『死神の浮力』。日本の小説のポストモダンとしての形がやっと一つ示された。
あと、谷村志穂『空しか見えない』、木皿泉『昨日のカレー、明日のパン』、島田雅彦『ニッチを探して』も、金賞代表として推薦したい。