学年だより「自分を変える(2)」
自分こそが大切だとする考えは、他者の受け入れを拒むことにつながる。
成績がふるわない自分も、つい遊んでしまう自分も、理論上「こんなことではだめだ」と分析してみるものの、内心は皆そんな自分が大好きだ。
すると、大切な自分を認めてくれる人や、褒めてくれる言葉を求めてしまう。
自分を否定するような言葉には、なかなか素直に頷けない。
成績が「上がらない」人とは、無意識の中で「上げたくない」と思っている人なのだ。
~ 成績を《上げたくない》圧力のもと、自己を「賢い」方へと変位させる方法はただ一つ、自己の枠組みを取り払うことである。自己の壁を突き崩し、《他なるもの》の侵入を許す。自己への決めつけや、体験的知恵、先入観、個性、人格まですべてを括弧に入れる。別の見方をすれば、これは自己破壊、アイデンティティの喪失を意味する。《他なるもの》を取り入れるには、自己を破砕させなければならない。果たしてこんなことが可能なのだろうか。
この《他なるもの》の受け入れをいとも簡単にやってのけるのが、赤ん坊だ。赤ん坊にはだいいち自己の枠などなく、《受け入れる》ためだけに存在している。赤ん坊ほど《成績》が上がるものはいない。私も子育てをしているわけだが、幼年時代の受容能力ときたら、本当に驚異的だ。英語、フランス語、ドイツ語の発音も一瞬にしてできる。懸命に唇を見つめて真似をするのだ。自己の境界などなく、身体性がたおやかに伸び広がっているという感じだ。赤ん坊になることができれば、《成績》は上がる。しかし、それにはもう手遅れだ。
赤ん坊でない受験生としては、自己の枠組みを維持しつつ緩め、《他なるもの》を受け入れなければならない。自己を維持しつつ、打ち壊すという奇怪な(不幸な)行為が、《成績》を上げることなのである。自己にこだわると受け入れられないし、自己がないと受け入れても身につかない。底から抜け落ちる。《摩擦感をもった素直さ》とでも言おうか、そういう構えの人の成績が《上がり》やすい。これは経験的にも言えることで、爆発的に成績を伸ばす人は、イヤな言い方だが、《素直》な人なのである。 (柴田敬司『現代文 解法の新演習Ⅱ』桐原書店) ~
仮にどんなに自分を失わせても、自分というフィルターを通っているかぎり、個は失われない。
他者に対する違和感を抱いたとき、私達は自分の方を大事にしようとする。
しかし、それほど強固に守らねばならないほどの「自分」を確立している人はいない。
他人の言うことばかり聞いたために自分がなくなる、という事態にはめったにならないのだ。
~ これと対照的なのが、《イイとこ取り》をしようとする姑息な人。結局は、自己に固執し、他人を利用しようとするだけ。いつも楽なやり方だけを考え、自己の枠組みが変成しない。 ~
他者との接触から生まれた違和感を大事にすべきだ。
わからないこと、面倒くさいこと、むかついたことば、気に障る言葉など、どれも一度素直に受け止めてみることで、自分を変えるきっかけがつかめることが多い。