水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

NOBU(2)

2015年11月18日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「NOBU(2)」

 火事の後、時間の感覚さえ忘れるほど打ちひしがれてしまった松久さんだったが、ふと気づくと自分の周りにはいつもキャッキャッという子どもたちの笑い声があった。
 幼い娘たちは、父が仕事に行かず家にいるということがうれしかったのだ。
 もう、焦ってもしょうがない、一日一歩、一日1ミリでもいいから前に進もうという気持ちにさせたのは、この無邪気な笑い声と、そばにいてくれる妻の存在だった。


 ~ 今でも、このときのことを思い出すと体が震えます。けれど、二十代の終わりにどん底まで落ちる体験をしたことが、僕をシンプルな生き方に導いてくれたのかもしれないと思います。お店をたくさん出したいとか、お金持ちになりたいとかの目標ではなく、ただ目の前のお客さんによろこんでいただきたくて一生懸命料理をつくり、サービスをする――そんな生き方です。 (松久信幸『お客さんの笑顔が、僕のすべて!』ダイヤモンド社) ~


 アラスカの新店舗は保険にも入ってなかったので、文字通り一文無しに、いや借金だけの身になった。知り合いに帰りの飛行機代を借りて帰国すると、妻子は実家に預け、松久さんは単身ロスアンゼルスに渡る。ペルー時代に知り合った寿司職人が呼んでくれたのだ。
 「三つ輪」という店で一心に働きながら借金を返し、実家に仕送りもした。2年経って永住権が取れると、「三つ輪」のおやじさんは、「おまえはもっと自由にやるべきだ」と手放してくれ、「王将」という日本料理店に働き場所を見つけた。
 ここで松久さんは、ペルー・アルゼンチン時代の経験をいかしながら、新しい日本食のメニューを試し始める。日本の寿司そのものでなく、一手間加えて生魚に親しみのない人たちにも食べやすいものをつくった。今もNOBUの看板メニューである、「銀ダラの西京焼き」が完成したのもこの時だった。「王将では珍しい料理が食べられる」と評判になり、行列ができるほどになった。
 1987年、ついに松久さんは独立し、ビバリーヒルズに一軒の和食店をオープンさせる。これが現在の「MATSUHISA(マツヒサ)」である。
 場所柄から、ハリウッドスターたちも訪れるようになった。なかでもロバート・デ・ニーロ(皆さんはあまり知らないかもしれないけど、映画史に残る大スターです)は、足繁く店を訪れ、一緒にニューヨークで店を出そうと誘われた(4年後に「NOBU NEW YORK」として実現する)。


 ~ 寿司職人になりたいという夢と、海外で働きたいという夢は、たしかに若い頃から抱いていました。しかし、まさか世界中に自分の名前のついたお店をもつなんて、まさか自分の名前のついたホテルができるなんて、考えてもいませんでした。 … 人生は、やってみなければわからない、努力しなければ答えは出ない。必ず失敗もするし、失敗からも大事なことを学べる。ただ、常に自分は「熱い自分でいろ!」と命じてきました。 ~


 杉戸町の悪仲間とバイクを乗り回していた高校時代の姿を、今の松久さんが見たらどう声をかけるだろう。みなさんは、20年後、30年後の自分にどう声をかけられたいだろう。

コメント
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