学年だより「NOBU」
世界中で知られている日本人がいる。野球選手ならイチロー、指揮者なら小澤征爾、作家なら村上春樹、映画監督の北野武、建築家の安藤忠雄 … 。
料理の世界にも有名なシェフが多く存在するが、「NOBU」こと松久伸幸さんもその一人だ。
アメリカにおける日本食レストランの草分けであり、今や世界17カ国に30以上の店舗を構え、年間200万人が利用すると言われるNOBUグループのオーナーシェフだ。
松久さんは、埼玉県で材木商を営む家の三男として生まれた。小学校一年生のときに父親を交通事故で失っている。海外出張にもよく出かける父親の姿は、松久さんの憧れだった。
高校時代、一回り年上の兄に連れて行かれた寿司店の、独特の雰囲気に魅了された。
「いらっしゃい!」の気合い、板前と客がカウンターで差し向かいになる緊張感、お鮨独特の香り … 。このとき松久さんは鮨職人を目指そうと心に決め、高校卒業後すぐ、都内の「松栄」という店で修業を積むことになる。
鮨職人となって7年目、人生が大きく展開する。ペルー在住の日系人が松栄の常連客にいた。
店を訪れると、よくペルーの話をしてくれた。首都リマの港は世界一の漁港であること、豊かな食材を用いた食文化があることなど。ついには、ペルーで一緒に店を出そうと誘われる。それならと、休みをとって現地にまで足を運んだ松久さんは、その時点で心を決めていた。
周囲の反対をおしきり、結婚したばかりの奥さんとともに南米に渡ったのだった。
店は順調だった。お客さんも入った。
しかし、パートナーとはもめた。少しでもいい食材を使いたいという松久さんと、コストを押さえて利益を出したいと言うパートナーの溝は埋まることなく、結局三年でペルーを離れることになる。アルゼンチンに移住し、寿司店の一職人として働きながら、このままでいいのかと自問しているときに、奥さんのお腹に二人目の子どもが宿っていることがわかる。
潮時かと思い帰国したものの、折しも日本はオイルショック後の不況で、これといった仕事場にめぐまれない。
もう一度海外でチャレンジしてみたいという思いにかられていたある日、アラスカで日本食レストランをやらないかという話が舞い込んできた。オーナーとしてすべてを任せてもらえると知ると、「頼むから、もう一度オレにチャンスをくれ」と奥さんを説得し、家族でアラスカに渡った。
「今度こそ」との思いで借金をし、松久さん自身もノコギリや金槌を持って店の工事を手伝い、無事オープンさせることができた。
しかし、店が開店してわずか50日後。不意の出火で火事となり、店は全焼してしまったのだ。
~ 「ああ、僕の人生、これで終わりだ」と思いました。体は動かず、何も食べられず、水さえも飲んだらすぐ吐いてしまうという極限の精神状態。白いごはんが目の前にあっても、食べずに手で握り潰してしまう。「自分の人生、ギブアップだ」と、どうやって死のうかということばかり考えていました。 (WEBサイト「「ライトハウス-アメリカンドリーマー」) ~