多木浩二「世界中がハンバーガー」は、ファーストフード店(とくにマクド)が世界中に広がっている現象を取り上げ、食文化としてだけではなく、ポストモダン的な人間関係の様相を説明した秀逸な現代評論だ。
なぜか今年の一年生の教科書からなくなってしまったので、プリントで問題形式にして勉強している。
宮廷社会における晩餐会、市民社会における家族団欒の食事、そしてファーストフードの食事。
それぞれの食事の光景は、前近代、近代、現代それぞれの人間関係の様相を象徴する。
現象がどんな本質を表しているのか考察するのが評論ですね … と教えながら、ふと思いついたのはカラオケの変遷だ。
カラオケが誕生して一般的に使われ始めたのは、自分が高校生ぐらいの時だろうか。
教室で話しても生徒さん方はピンとこなかったらしいエイトトラック(おれの説明が悪かったのか)。
カセットのでかい版なんだよと言っても、カセット自体がもう過去の遺物になっている。
で、当時「カラオケ」と言えば、不特定多数の大衆の前で歌うという行為と結びついていた。
村の夏祭りの企画にカラオケ大会があったし、酒場で歌うにしても、知らないお客さんの前で歌うのが普通だった。とはいえ全く見知らぬ人しかその場にいないわけではないから、その都度変化する疑似共同体を感じながら歌っていたのだ。
働き始めてしばらくしてカラオケボックスが誕生した。エイトトラックのカセットを出し入れする時代は終わり、レーザーディスクに代わる。カラオケが置いてある酒場にも通ったが、仲の良い同僚達とカラオケボックスに繰り出すようになると、その気楽さが楽しかった。他のお客さんに気を遣わなくてもいいし、少人数で行けばたくさん歌える。徐々に通信のシステムも導入されていったが、初期の通信は音質がレーザーよりかなり劣った。
そのシステムも圧倒的に向上した。
カラオケボックス自体、種々様々な形態をとるようになる。豪華な部屋と食事を提供する高給店もできたけど、少人数を対象にする部屋の比率がだんだん大きくなっていったのではないだろうか。
現在、カラオケボックスを一人で利用するいわゆるヒトカラは、別に寂しい人のふるまいではなくなった。
私めも遅ればせながらデビューした初めての夏の日、ちょっとだけ気恥ずかしさを感じながら受付したけど、お店の人は不思議そうな顔はしてなかったと思う。
親しい仲間で行っても、多少は気を遣う。かりに二人だったとしても交互に歌うのを原則にしたいと思うし、年の差があると、さすがにこの歌は引かれないかなと選曲も考える。
一人はそういうのが百%ない。なさすぎるのがさびしいと言えばさびしいが、それ以上に楽なのは、たしかで、ちょうどハンバーガー店で好きに食べている気楽さと同じだ。
ずっといたければいればいいし、同じ曲を三回練習してもいい。
カラオケボックスが「カラオケの近代化」だとすれば、ヒトカラ、ワンカラは、まさにポストモダンだ(ちなみにワンカラ店は、居住スペースが狭いのが自分には難点だった)。
食事の光景以上に、現代社会の人間関係の様相を象徴的に表している。
カラオケに関する論文も無限にありそうなので、ちょっと調べてみようかと思った。