文学史に残る名作、オルコット『若草物語』。
国語の先生として当然読んで……ということはなく、『若草物語』を新たな視点で映画化したと言われても、もとを知らない。
でも、その「新しさ」の一部は、たぶんだけど分かったような気がした。
そして、原作がなぜ名作と言われるのかについては、思い知らされた。
戦場の父親から届いた手紙を読む母親の周りに、四姉妹が猫の子のように重なり合って聞いている、わりと前半のシーンではやくも決壊していた。
19世紀後半、アメリカの田舎を舞台に、四人姉妹の生き方が描かれる。
結婚こそが女の幸せと考える保守的な、しかし当時としては常識的な長女のメグ。
人なつっこく、お金持ちの伯母にかわいがられる末っ子のエイミー。
繊細でピアノがうまく、しかし病気で早逝する三女のベス。
作家になることを夢見、幼なじみからの求婚にも応じず自分の信念を貫こうとする、次女ジョー。
主にジョーの視点で物語が描かれ、ジョーが創り出していくプロセス自体もメタの物語になっている。
すぐれた文学作品は(また大きめ!)、人が描かれている(あたりまえじゃない?)。
人が描かれているとは、そこに物語があるということだ。
登場する四姉妹にはもちろんのこと、やさしく見守る母にも、南北戦争に従軍する父親にも、メリルストリープ演ずる伯母にも、幼なじみのローリーにも、みな物語がある。
そのどれにも優劣はもちろんないし、どの物語もあまったるいものではない。
むしろ、つらい経験、悲しみや怒り、思い通りにならないことが多い。
それでも、性格も考え方もまったくちがう四姉妹が、時にけんかしながら支え合って生きていく様子と、それを見守っている人たちの姿を見ながら、それぞれの物語の中では誰もがみな主人公(さだまさしか!)であることが伝わってくる。
いつしか観ている自分も、自分を主人公とするこの毎日が何か愛おしいもののように感じていた。
映画史に残る名作「ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語」の誕生だ。
ぜひ劇場へ、どうぞ!
(関係者の方ですか? いっさい関係しておりません)
国語の先生として当然読んで……ということはなく、『若草物語』を新たな視点で映画化したと言われても、もとを知らない。
でも、その「新しさ」の一部は、たぶんだけど分かったような気がした。
そして、原作がなぜ名作と言われるのかについては、思い知らされた。
戦場の父親から届いた手紙を読む母親の周りに、四姉妹が猫の子のように重なり合って聞いている、わりと前半のシーンではやくも決壊していた。
19世紀後半、アメリカの田舎を舞台に、四人姉妹の生き方が描かれる。
結婚こそが女の幸せと考える保守的な、しかし当時としては常識的な長女のメグ。
人なつっこく、お金持ちの伯母にかわいがられる末っ子のエイミー。
繊細でピアノがうまく、しかし病気で早逝する三女のベス。
作家になることを夢見、幼なじみからの求婚にも応じず自分の信念を貫こうとする、次女ジョー。
主にジョーの視点で物語が描かれ、ジョーが創り出していくプロセス自体もメタの物語になっている。
すぐれた文学作品は(また大きめ!)、人が描かれている(あたりまえじゃない?)。
人が描かれているとは、そこに物語があるということだ。
登場する四姉妹にはもちろんのこと、やさしく見守る母にも、南北戦争に従軍する父親にも、メリルストリープ演ずる伯母にも、幼なじみのローリーにも、みな物語がある。
そのどれにも優劣はもちろんないし、どの物語もあまったるいものではない。
むしろ、つらい経験、悲しみや怒り、思い通りにならないことが多い。
それでも、性格も考え方もまったくちがう四姉妹が、時にけんかしながら支え合って生きていく様子と、それを見守っている人たちの姿を見ながら、それぞれの物語の中では誰もがみな主人公(さだまさしか!)であることが伝わってくる。
いつしか観ている自分も、自分を主人公とするこの毎日が何か愛おしいもののように感じていた。
映画史に残る名作「ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語」の誕生だ。
ぜひ劇場へ、どうぞ!
(関係者の方ですか? いっさい関係しておりません)