水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

中沢けい「楽隊のうさぎ」(センター2006年)②

2020年06月22日 | 国語のお勉強(小説)
 ここで一つ記述問題を解いてみましょう。

問「「スゲェナ」有木がつぶやいた隣で克久は掌を握り締めた。」とあるが、このとき克久はどのような状態か。(60字以内)

 一つの場面内では、何らかの事件が起こり、登場人物が何らかの感情を抱いて、何らかの行動をします。
 地区大会当日に何が起こったか。
 問3で確認したように、他校の演奏を聴いておどろき、一年生も態度を改めたという話でしたよね。
 克久は、課題曲「交響的譚詩」を選んだある中学校の演奏を聴きます。
 1996年の一番難しい課題曲で、これを選んだということ自体、上手な中学校であることがわかりますね(わからないか)。
 その演奏は「克久の胸のうさぎが躍り上がるような音を持ってい」ました。
 隣で「スゲェナ」と部長がつぶやく。
 少し先には「負けた」「遠く遠くへ連れ去られた」とも書いてある。
 そして、すぐ後の場面では、どんな演奏であったかが表現されている。


 最初のクラリネットの研ぎ澄ました音は、一本の地平線を見事に引いた。地平線のかなたから進軍してくる騎馬隊がある。木管は風になびく軍旗だ。金管は四肢に充実した筋肉を持つ馬の群れであった。打楽器が全軍を統括し、西へ東へ展開する騎兵をまとめあげていた。


 このような具象的イメージが、克久の胸のなかに生じたのです。
 そして、「うさぎが踊る」。
 「事件:すごい演奏を聴く」→「心情:胸のうさぎが踊る」→「行動:掌を握りしめる」
 の「事件」と「心情」をまとめれば答えになりますね。
 ただし、「うさぎ」は言い換える必要がある。
 どう言い換えればいいでしょうか。
 そのとき、注の情報に気づくことがポイントです。


注6 克久の胸のうさぎ … 克久が、自分の中にいると感じている「うさぎ」のこと。克久は、小学校を卒業して間もなく花の木公園でうさぎを見かけて以来、何度かうさぎを見つけては注意深く見つめていた。吹奏楽部に入った克久は、いつの間にか一羽の「うさぎ」が心に住み着き、耳を澄ましているように感じ始めていた。


 「うさぎ」はどう言い換えればいいですか?
 どのようなことを表しているのですか?
 克久の胸のなかにうさぎが棲み、耳をすましている。いい音楽に触れると踊り出す。
 つまり、克久の音楽を感じる心を、表しているのですね。
 解答例は、こんなかんじです。


答 自分の学校とは全く異質な、精密で力強い他校の演奏を聴き、
  内面の音楽的感性が刺激され、その衝撃に圧倒され力が入っている状態。


 「うさぎ」は、羅生門における「にきび」、「山月記」における「月」と同じはたらきをもっています。
 なんらかの抽象的概念を、具体物におきかえて表現することで、感覚的に理解させようとする表現ですね。
 これを「象徴」といいます。
 小説とは、ある人物に起こった、一回こっきりの特殊な出来事を描きます。
 映画やドラマも同じですね。具体の極致ですね。
 ですから、作品自体が、何らかの象徴にちがいないと思って読んでいきましょう。
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物語

2020年06月22日 | 学年だよりなど
  3学年だより「物語」


 センター試験が終わり、藝大一次試験までのおよそ一ヶ月。
 一次試験のデッサンに合格しなければ、二次の専門(油絵、日本画など)には進めないため、この期間は、ひたすらデッサンを描き続けて、八虎たちは試験にのぞんだ。
 一次試験の合格発表の前日、予備校の大場先生が、生徒たちを集めてこう話す。


~ 「発表は、明日の朝10時。大学の掲示板とネットで公開してるよね。
 結果がどうであれ、連絡ちょうだい! 合格者はそのあと、いつも通り予備校で課題よ。
 結果を求めた人に、結果が全てじゃない、なんていうつもりはないわ。
 だけど、どの大学に行くとかって話じゃない。
 この数ヶ月、君たちは自分の弱さと強さに向き合った。
 そして描き続けた。それは結果ではなく、必ず君たちの財産になるわ」
  (山口つばさ『ブルーピリオド 5』講談社アフタヌーンコミック) ~


 ~ 純朴な若者が、この世の理不尽に出会い、旅に出る。
   賢者の言葉や、仲間の力に支えられながら、自らを成長させ、
   苦難を乗り越えて敵を倒し、宝物を持って帰還する――。 ~

 これが物語の基本構造だ。
 シンプルに「試練→挑戦→成長」とか「苦悩→行動→解決」のようにまとめることもできる。
 古今東西の古典的な作品も、みなさんが親しむゲームの世界も、全てこのパターンがベースになっている。つまりそれは、人間の一生がそのようなパターンに還元できるということだ。
 今みなさんに与えられた試練の第一は、「受験」になるだろう。
 共同体には、少年が青年になるタイミングで通過儀礼(イニシエーション)が用意される。
 一定の年齢になると、村祭りで俵を背負わされたり、肝試しをさせられたりするのがそれだ。
 観光化しているバンジージャンプも、もとはその一つだった。
 近代化した社会では、昔ながらの通過儀礼的行事はなくなりつつあるが、「受験」や「就活」は通過儀礼としての役割を果たしていると言えるだろう。
 共同体が与える、乗り越えるべき「試練」。自分の好きなことをやっていいと言われながら、並々ならぬ努力を積み重ねなければ、それが手に入らないのは「理不尽」だ。
 善良で純朴な若者、つまりみなさんが、この世の理不尽に出会ったときに、どうするか。
 見なかったふりをするのも自由、逃げるのも自由。
 立ち向かった場合、結果として何が得られるのか。
 もちろん、合格という喜び、楽しい学生生活、学歴といったものを獲得することはできる。
 しかし、一番大事なのは、挑戦したという体験だ。
 逃げずに立ち向かったならば、宝物を持ち帰ることができる。
 それは、自分が主人公の「物語」だ。
 大人になったとき、逃げなかった自分の「物語」が、自分を支えてくれる。
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