水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

中沢けい「楽隊のうさぎ」(センター2006年)③

2020年06月24日 | 国語のお勉強(小説)
 克久がいちばん間抜けだと感じたのは百合子だった。なにしろ、地区大会を終わって家に戻って最初に言ったのは次の一言だ。
 「やっぱり、強い学校は高い楽器をたくさん持っているのね」
 それを言っては、みもふたもない。言ってはならない真実というものは世の中にはある。それに高価な楽器があれば演奏できるというものでもない。演奏する生徒がいて、初めて高価な楽器がものを言うのだなんてことを、克久は百合子に懇切丁寧に説明する親切心はなかった。
 「小学生とはぜんぜん違う」
 実は百合子も少し興奮気味だったのである。克久には小学校時代は太古の昔、悠久のかなただったが、百合子にはわずか六カ月前にもならない。だいたい、その頃、銀行に申し入れた融資の審査がまだ結論が出ていなかった。伊万里焼の皿の並んだテーブルをはさんで恐竜と宇宙飛行士が会話しているという比喩で良いのかどうか。そのくらい、時の流れの感覚が食い違っていた。これだから中学生は難しい。百合子がうれしい時に使う古典柄の伊万里が照れくさそうに華やいでいた。この皿はうれしい時も出番だが、時には出来合いのロールキャベツを立派に見せるためにお呼びがかかることもあった。
 翌日から一年生は「やる気あるのか」と上級生に言われなくなった。帰宅は毎日九時を過ぎた。


 地区大会を見に行った母親の百合子。
 子どもの時間の進み方に対する驚きは、次の場面の伏線になっています。
 そして、地区大会後、県大会に向けて練習が熱が帯びます。
 中学生で帰宅が毎日九時すぎというのは、ブラック部活と言われてもしょうがないでしょう。
 そして、県大会前日の夜を迎えます。
 ここでは「克久」の成長が、母「百合子」の視点で描かれます。
 ブラックは大変ですが、乗り越えることで成長もします。


 県大会の前日はさすがに七時前に克久も家に帰って来た。「ただいま」と戻った姿を見た百合子はたちまち全てを了解した。了解したから、トンカツなどを揚げたことを後悔した。大会にカツなんて、克久流に言えば「かなりサムイ」しゃれだった。
 「ベンちゃんが今日は早く風呂に入って寝ろってさ」
 「そうなんだ」
 百合子はこんな克久は見たことがなかった。なんでもなく、普通そうにしているけれども、全身に緊張があふれていた。それは風呂場で見せる不機嫌な緊張感とはまるで違った。ここに何か、一つでも余分なものを置いたら、ぷつんと糸が切れる。そういう種類の緊張感だった。
 彼は全身で、いつもの夜と同じように自然にしてほしいと語っている、「明日は大会だから、闘いにカツで、トンカツ」なんて駄ジャレは禁物。
 もっとスマートな応対を要求していたのである。会話だって、音楽の話もダメなら、大会の話題もダメであった。
 そういうことが百合子にも解る顔をしていた。こんなに穏やかな精神統一のできた息子の顔を見るのは初めてだ。一人前の男である。誇りに満ちていた。
 もちろん、彼の築き上げた誇りは輝かしいと同時に危ういものだ。


 息子の変化を瞬時に理解するのは、母親だからでしょう。
 父親は無理です。
 百合子は、息子の変化を見抜いたからこそ、あい変わらずの自分に恥ずかしささえ感じてしまいます。
 大人あるあるですね。
 でも大人は、少年の成長が非常にもろいものであることも分かります。
「全身に緊張があふれていた……一つでも余分なものを置いたら、ぷつんと糸が切れる。そういう種類の緊張感だった」


 「お風呂、どうだった」
 「どうだったって?」
 「だから湯加減は」
 音楽でもなければ、大会の話でもない話題を探そうとすると、何も頭に浮かばない。湯加減と言われたって、家の風呂は温度調整のできるガス湯沸かし器だから、良いも悪いもないのである。
 「今日、いい天気だったでしょ」
 「毎日、暑くてね」
 「……」
 練習も暑くて大変ねと言いかけて百合子は黙った。
 「……」
 克久も何か言いかけたのだが、目をぱちくりさせて、口ヘトンカツを放り込んでしまった。
 「あのね、仕事の帰りに駅のホームからうちの方を見たら、夕陽が斜めに射して、きれいだった」
 「そう。……」
 なんだか、ぎこちない。克久も何か言おうとするのだが、大会に関係のない話というのは探しても見つからない。それでも、その話はしたくなかった。この平穏な気持ちを大事に、そっと、明日の朝までしまっておきたかった。
 C初めて会った恋人同士のような変な緊張感。それにしては、百合子も克久もお互いを知り過ぎていた。百合子は「こいつは生まれる前から知っているのに」とおかしくて仕方がなかった。
 「……」
 改めて話そうとすると、息子と話せる雑談って、あまり無いものだなと百合子は妙に感心した。
 「……」
 克久は克久で、何を言っても、話題が音楽か大会の方向にそれていきそうで閉口だった。


 二人とも、部活動とは関係ない話をしようとし、ゆきづまります。
 生まれる前から知っている息子との会話が妙にぎこちなくなる。

問4 傍線部C「初めて会った恋人同士のような」とあるが、この表現は百合子と克久のどのような状態を言い表したものか。その説明として最も適当なものを選べ。
 ① 自分の好意を相手にきちんと伝えたいと願っているのに、当たり障りのない話題しか投げかけられず、もどかしく思っている。
 ② 互いのことをよくわかり合っているはずなのに、相手を前にしてどのように振る舞えばよいかわからず、とまどっている。
 ③ 本当は心を通い合わせたいと思っているのに、話をしようとすると照れくささからそっけない態度しかとれず、悔やんでいる。
 ④ 相手の自分に対する気配りは感じているのに、恥ずかしくてわざと気付かないふりをしてしまい、きまり悪さを感じている。
 ⑤ なごやかな雰囲気を保ちたいと思って努力しているのに、不器用さから場違いな行動を取ってしまい、笑い出したくなっている。

 ①「自分の好意を相手にきちんと伝えたいと願っている」は、親子としてはやばいですね。
 ③「本当は心を通い合わせたいと思っている」か、克久は微妙ですね。「そっけない態度しかとれず、悔やんでいる」は完全に誤答になりますね。
 ④「恥ずかしくてわざと気付かないふりをしてしまい」はちがいますね。
 ⑤「不器用さから場違いな行動を取ってしまい、笑い出したくなっている」はまったくちがいます。

 「初めて会った恋人のように」はあくまで比喩ですから、恋愛感情があるわけではありません。
 お互いによく知っている、しかしぎこちなくなっている状態なので、正解は②です。


 「これ、うまいね」
 こういうことを言う時の調子は夫の久夫が百合子の機嫌を取るのに似ていた。ぼそっと言ってから、少し遅れてにやりと笑うのだ。
 「西瓜でも切ろうか」
 久夫に似てきたが、よく知っている克久とは別の少年がそこにいるような気もした。
 「……」
 西瓜と言われれば、すぐ、うれしそうにする小さな克久はもうそこにいない。
 「……」
 百合子は西瓜のことを聞こうとして、ちょっとだけ息子に遠慮した。彼は何かを考えていて、ただぼんやりとしていたわけではない。少年の中に育ったプライドはこんなふうに、ある日、女親の目の前に表れるのだった。


Q「百合子は西瓜のことを聞こうとして、ちょっとだけ息子に遠慮した」とあるが、なぜか。50字以内で説明せよ。
A 息子の成長した姿に気づき、今までと同じように接するわけにはいかない時期がきたと悟ったから。

問5 傍線部D「少年の中に育ったプライドはこんなふうに、ある日、女親の目の前に表れるのだった」とあるが、その説明として最も適当なものを選べ。
 ① 充実した練習を通して自ら育(はぐく)んできた克久のプライドは、県大会に向けての克久の意気込みと不安を百合子に感じさせるものであった。/このプライドは張り詰めて折れそうな心を自覚しながら独り大会に備える自立した少年の姿を通して不意に百合子の前にあらわれ、幼いと思っていた息子が知らないうちに夫に似てきたことを百合子に感じさせた。
 ② 仲間たちとの交わりの中で自ら育んできた克久のプライドは、仲間への信頼と自分がかけがえのない存在であるという自覚を百合子に感じさせるものであった。/このプライドは自らの緊張感を百合子に悟らせまいとしている大人びた少年の姿を通して不意に百合子の前にあらわれ、息子の成長に対する喜びを百合子に感じさせた。
 ③ 努力を重ねるなかで自ら育んできた克久のプライドは、克久のおごりと油断を百合子に感じさせるものであった。/このプライドは他人を寄せつけないほどの緊張を全身にみなぎらせている少年の姿を通して不意に百合子の前にあらわれ、大会を前にした息子の気負いをなだめ、落ち着かせなければならないという思いを百合子に感じさせた。
 ④ 吹奏楽部の活動に打ち込むなかで自ら育んできた克久のプライドは、りりしさともろさを百合子に感じさせるものであった。/このプライドは高まった気持ちを静かに内に秘めた少年の姿を通して不意に百合子の前にあらわれ、よく知っている克久の姿とともに、理解しているつもりでいた克久ではない成長した少年の姿も百合子に感じさせた。
 ⑤ 同じ目的を持つ仲間たちとの協力を通して自ら育んできた克久のプライドは、どんなことにも動じない自信と気概を百合子に感じさせるものであった。/このプライドは百合子を遠慮させるほど堂々とした少年の姿を通して不意に百合子の前にあらわれ、克久がこれまでとは別の少年になってしまったという錯覚を百合子に感じさせた。


 県大会前日の場面全体から考えます。
 帰ってきてすぐの百合子の感覚が描かれている部分に「誇り」とありますね。
「誇りに満ちていた。……彼の築き上げた誇りは輝かしいと同時に危ういものだ」
 問5は、それぞれの選択肢が長いですが、核となる部分と本文とを対応させると、明確な差異が見えます。
 ①「意気込みと不安」、②「仲間への信頼と自分がかけがえのない存在であるという自覚」、③「おごりと油断」、⑤「自信と気概」は、「輝かしい誇りとあやうさ」とは対応しません。
 ④「りりしさともろさ」が正解です。
コメント
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