部活小説は「 事件→葛藤→克服→成長 」という一連のプロットで構成される。
困難を乗り越えて成長する少年(若者)という、極めて「学校的な物語」が生まれることになり、生徒さんに向けて「読んでみなさい」と安心して与えることのできる作品である。
問題作成のポイントがはっきりしていて、内容面でケチがつくことがないため、入試問題にも多く部活小説が採用されるのは必然なのかもしれない。
埼玉県の高校入試でも、23年に「美術部」、24年は「ものづくり部」が舞台だった。
このあいだの25年入試も「海女さん部」が素材みたいなものだ(しかし県立の先生は、今年「あまちゃん」が流行になるのを予測していたのであろうか。だとしたらなんという先見)。
問題のポイントは次のような感じ。
何が起こったか。つまり主人公が部活動をやるにあたって、それを阻害しようとする出来事は何であったかをつかむ。
すると、主人公の葛藤、苦悩がうかびああってくる。
主人公はそれをどのように克服しようとしたか、克服したか。
克服できた原因は何か。
ここにも学校的物語ははたらくので、その多くは「出会い」だ。
友達、先輩、祖父母など。
同じ部の近い存在ではなく、この人がこんなことを言ってくれるなんて的な人。
そういう人との出会いが、困難克服のきっかけになる。
それによって、ものの見方が変わる、広がる、といって成長形態が提示される。
試験では、このような項目にしたがって設問が用意されると思えばいい。
なんか、自分の問題づくりの手の内をさらしているみたいだけど、うちの問題も、県立さんの問題も構造は同じで、高校入試までは大体この枠組みで説明できると思う。
「2.43」。この数字を見た瞬間、2m43cm? バレーのネットじゃん、って思う人って何%ぐらいなんだろう(ちなみに自分的には、アンドレザジャイアントの身長だっけ? って思った)。バレーをやっている人にとってはあまりにも当然過ぎる数字だろうが、そうでない人にとっては、言われてはじめて、なるほど、それぐらいやね、という数字だろう。みんなが知ってて当然という数字ではない。毎年埼玉県大会の決勝までは必ず進む本校のクイズ研の面々なら知ってるかな。
バレー部を舞台にした小説だから、バレーボールというスポーツが描かれている。あたりまえか。
メインの登場人物の一人灰島公誓は言う。
~ 灰島は答えを悩まなかった。変なことを訊くなこの人はとでもいうように小首をかしげて、言い切った。仔牛が生まれたら立ち上がるじゃないですかとでもいうような、生き物のごく自然な営みを口にするみたいな言い方で。
「バレーより面白いものなんて、他にないじゃないですか」 (壁井ユカ子『2.43 清陰高校男子バレー部』集英社)~
キャプテンの小田は、その運動能力の高さは誰からも認められる選手だったが、身長が163㎝だった。運動能力も、気持ちの面でも誰にも負けない自信があるが、ことバレーボールというスポーツに関してだけはこの身長は不利になる。「なんで、おれはこんなスポーツにはまってもうたんやろな」という小田に対して、灰島が言ったのが上のセリフだ。
サッカー選手なら、バレーをサッカーにおきかえるだろう。
わが部の部員なら、だって音楽よりほかに … っておきかえるかな。躊躇なく置き換える部員が何人かはいるな。顧問と同じで謙虚な子が多いので、「ま、自分にとってはですけど」ぐらいは付け加えるだろうが。
バレー部小説だけど、バレー部じゃなくてもいい。
野球でもサッカーでも、アーチェリーでもクイズでも百人一首でも。
部活小説は、素材がその部活である必然性である割合が意外に低いのかもしれない。
主人公が何かにうちこみ、いや、のめり込み、葛藤と苦悩を経て成長する姿を描くという一本のラインは決まっている。
そういう意味では展開は読みやすい(しかし「あまちゃん」の展開はよめないですね)。
読みやすくて、そのとおりになることも多いのだけど、でもがっつり泣いてしまうのだ。
灰島公誓。天才的なセッターだ。ただ周囲とのコミュニケーションをとるのが上手ではない。
東京の名門中学のバレーボールでその才能を発揮しかけたものの、他の部員とうまくいかずに孤立し、不登校になり、母方の故郷である福井の公立中学に転校してきた。
そこで出会ったのが幼なじみの黒羽祐仁で、活動しているのかどうかわからないようなバレー部の部員だった。
灰島は誘われてバレー部に入り、その活躍で県の準決勝まで進みものの、二人は衝突して絶交状態になってしまう。その二人がともに進学した清陰高校で、熱血主将の小田たちと出会い、紆余曲折を繰り返しながらも春高バレー出場を目指していく物語だ。
たぐいまれな能力をもち、それゆえに部ではもてあましてしまうほどの選手、という存在は、どんな部にでもいる時があるだろう。その子の能力を生かせるかどうかは周囲の力量にかかっている。
高校ではバレー部に入ろうとしなかった灰島を口説き落としたものの、案の定、周囲とのトラブルはおこしていた。
~ 「チーム次第やろな、あいつを生かすも殺すも。あれだけのオールラウンダーやったらどこ行ってもトップでやれそうな気ぃもするけど、実際は逆やな。あいつを受け入れられるチームは少ないかもしれん。下手なとこ行ったらわりと簡単に壊されそうで、危なっかしくてかなわんわ」
「はあ」
しょんぼりした気分になって黒羽は肩を落とした。中学のときから、たぶん東京の中学のときから灰島はそれで何度も失敗している。高校でもその繰り返しになるだけなんだろうか。なんのためにこのコートに連れ戻したんだろう。
「うちはあいつを生かす」 ~
灰島の才能を生かし、大学までちゃんと送り出してやるのがおれの責任と言い切る小田主将を見て、なんてかっこいんだと黒羽は思う。
そして、灰島の信頼を預けてもらえるアタッカーになれるよう練習しよう、と強く思うのだった。
なぜに福井が舞台? と思ってネット検索してたら、筆者のインタビュー記事があった。
~ 「福井県の高校にしたのは、地方の弱小バレー部を舞台にしたかったからと、もう一つ、福井って実は、有名な日本代表選手を輩出しているバレー名門県なんですね。元代表の中垣内祐一さん、荻野正二さん、現役の清水邦広選手も福井県出身です。」(雑誌「青春と読書インタビュー」) ~
そうだった、わが母校の後輩中垣内くんはじめ、有名な選手がいるではないか。女子では三屋裕子も勝山出身だし。
この地方の弱小部活が舞台というのも、けっこう普遍性が高くで、埼玉県の一私立高校の生徒でも、かなり共感しながら読み進められる小説のはずだ。
またひとつ、たくさんの人に薦めたい部活小説がうまれた。
「本の雑誌9月号」に「夏だ祭りだ部活小説だ!」という小特集があって、大体読んでる本だろうなと思ってページをくったら、そうでもなかった。次の10作品が紹介されている。
吹奏楽部『退出ゲーム』初野晴/角川文庫
軽音楽部『階段途中のビッグ・ノイズ』越谷オサム/幻冬舎文庫
野球部『大延長』堂場瞬一/実業之日本社文庫
自転車部『キアズマ』近藤史恵/新潮社
機械制御研究部『キケン』有川浩/新潮文庫
文芸部『図書館の神様』瀬尾まいこ/ちくま文庫
演劇部『スキップ』北村薫/新潮文庫
剣道部『武士道シックスティーン』誉田哲也/文春文庫
陸上部『一瞬の風になれ』佐藤多佳子/講談社文庫
バスケ部『スラムダンク』井上雄彦/集英社
最後のは小説じゃないけどね。
『武士道シックスティーン』や『一瞬の風になれ』は、部活小説として日本の文学史上の頂点にある作品と言っていいだろう。
もし、夏休みになんか本読もうかなと思って悩んだなら、まずこの二作品に手を出せば、はずれることはない。
これでダメなら、小説はからだに向いてないかもしれないが、もっと男くさいのがよければ、これはどうだろう。
ボクシング部『ボックス』百田尚樹/講談社文庫
これは、アツい。百田尚樹にはずれなし。
演劇部として『スキップ』があげられているが、演劇部ものとしては、これをはずすわけにはいかないだろう。
『幕が上がる』平田オリザ/講談社
いい小説を書ける人はいっぱいいるし、演劇界の事情を学校現場まで含めてすみずみまで知り尽くしている人も何人かいるが、その二つを兼ね備えた平田氏による奇跡のような作品だ。
『一瞬の風になれ』は陸上の世界をまっすぐに描いているが、陸上という素材以上に人間を浮かび上がらせた、あさのあつこの『ランナー』シリーズもいい。とくにランナー2の『スパイクス』が。
~ 「あたしね、久遠くんと同じなのよ」
呟いていた。信哉が問うように顎を上げる。
「最初は選手として陸上、やってたの。トラックじゃなくてフィールドの方だけど。高跳び」
「へぇ、それは初耳だ」
「すぐにやめちゃったから。というか、自分が競技者よりマネジャーに向いてるって、気づいちゃったの」
座ったまま真剣な面持ちで見上げてくる信哉に向かって、しゃべり続ける。
「マネジャーの質って何かって訊かれたら、加納くんじゃないけどちゃんと説明できないんだけど、だけど、選手としてじゃなく選手を支える側……ううん、そこからも離れて見てるとね……」
「一観客として、競技を見てるってことですか」
「うーん、それとも違うかも。一般の観客にはなれないの。やっぱ、東部第一の選手に勝ってほしいし、この競技が終わったらすぐに飲み物の手配しなくちゃとか、コンディションをどう整えようかなんて考えてるんだから。けどね、そこがおもしろいの。マネジャーとして競技を見ているとね、選手には味わえないおもしろさがわかっちゃうんだ」
抽象的だ。抽象的すぎる。言葉が想いに追いつかない。
「あたし、それを知ってたの。マネジャーになってすぐに気がついた。陸上っておもしろいなって……うん、あたし、確かに知ってたのにね……」 (あさのあつこ『スパイクス』幻冬舎文庫) ~
部活では当然プレーヤーが一番目立つけど、それをささえるマネージャーの存在も大きい。
自分の中では、部活のマネージャーをやりたい心境って全く想像もできない、何がおもしろいんだろ、とずっと思っていたのだが、考えてみるとマネージャー的仕事ばかりやっている人生を過ごしていることに気付いた。
プレーヤーではなく、マネージャーにしか見えない世界はたしかにあると思う。
吹奏楽部コンクールの指揮台に立つ多くの顧問の先生方にも、プレーヤー比率の高い方と、マネージャー比率の高い方がいるところがおもしろい。
吹奏楽部ものとしてあげられた『退出ゲーム』は読んでないなあ。
考えてみると吹奏楽ものってあんまり読んだ記憶がない。『楽隊のうさぎ』ぐらいか。
顧問を主人公にした部活小説ってないだろうか。
あった、これだ。古い作品だけど。
アメリカンフットボール部『俺はどしゃぶり』須藤靖貴/光文社文庫
これは明らかにお隣の城北埼玉高校さんがモデルとわかる。川越市郊外にある男子校 … とはじまってて、えっ? と思ったものだ。母校に赴任した若い先生が、アメフト部をつくり鍛えていく作品だ。
これも、その範疇に入れていいかも。純粋な部活小説ではないのだが、テイストは部活だと思う。
野球部など『都立水商』室積光/小学館文庫
体育の先生があつく語るセリフ。
~ 「いいか。人間はトレーニングによって、敏捷性は20パーセント高められる。つまり持って生まれた能力の2割は向上するんだ。筋肉のパワー自体は、3.6倍まで高められる。持久力に至っては、6.5倍までの向上が期待できる。もう、こうなると別の動物になると言ってもいいぐらいだ。つまり、持って生まれた才能や、運動神経だけでやってる奴には、努力で必ず勝てるんだ。いいか、絶対だ。絶対に勝てる。
問題なのは、努力しないうちから、自分の能力を決めてしまうことだ。まずトライしろ。自分で限界を決めたら、そこで終わってしまうぞ。ただし、これが重要なんだが、世の中には自分より才能があるうえに、自分より努力している人間はいるもんだ。これには負ける。でもな、そういう奴に負けるんだったら、口惜(くや)しくないだろ。自分の持てる最高の力を発揮して、それでもっとすごい奴に負けるんだったら悔いは残らない。
高校でのスポーツは、たいていトーナメント方式で戦われる。ということは、ほとんど全部の高校生が、高校生活最後の試合を、負けて終わるんだ。全国で一位になる選手やチームを除いてな。いい加減な気持ちで取り組んでると、いい加減な奴に負けるぞ。」 (室積光『都立水商』小学館文庫)~
スポーツの場合は、頂点となる一校以外は、すべて負けて終わる。
吹奏楽コンクールも、全国大会で金賞を受賞する10以外は、負けと言えば負けだ。
大学に進めば、多くの学生はこういう形で勝敗を争う世界からは離れていく。
高校の部活というのは、いかに負けるか、負けから何を見いだすのか、それを学ぶ場だと言っていいかもしれない。
辻村深月『島はぼくらと』は、今年読んだ小説の白眉だが(ハックビーじゃないよ)、CDでは、いきものがかり「I」がダントツ。ていうか、両作とも、ここ数年という単位でふりかえっても、ここまで完成度の高いものはなかなかないんじゃないかと思う。
「I」は、すでに発表されているシングル曲(そのすべてはタイアップ曲)を含む14曲が、楽曲のほどよい多様さと、そのバランスはまさに「格調高雅、意趣卓逸」一聴してすぐに作者の非凡を感じるものだった。
これはもはや「アビーロード」とか「心もよう」に匹敵する(例が古いよね)。
「風が吹いている」はオリンピックのテーマソングとして聴いたときにも、そのスケールの大きさに感心したけど、アルバムの13曲目で聴くと圧巻だ。
その前におかれた、吉岡さんの作詞作曲によるバラード「東京」がまた心にしみる。
~ 暮れた東京の空 下向いて歩いてるなんてウソさ
光る宝石探し さまよう僕らの日々はもうないさ ~
ここで歌われる「東京」は、「おら東京さ行くだ」の「東京」であり、北三陸のユイちゃんが憧れた「東京」だ。
神奈川県出身の吉岡清恵ちゃんにとっても、東京は近くて遠い街だ。
それは地元を飛び出した若者が夢を追いかける街であり、夢かなわずにうちひしがれる若者が住む街であり、夢がかなった者もその代償にいろんなものを失う街であり、それでも多くの人をひきつけてやまない街「東京」だ。
~ Journey あなたがいない街歩き出す いつも通りの東京微笑んで ~
福井の山奥から金沢へ一旗あげようと出かけていけば、そこが彼(彼女)にとっての「東京」だ。
東京に一度も来たことも、この曲を聴いて象徴としての「東京」を感じ、心揺り動かされる。
(自重)
というような割り切れない思いも、「風が吹いている」を聴いていると、あまりにも小さなことに思えてくる。
~ 風が吹いている 僕はここで生きていく
晴れ渡る空に誰かが叫んだ ここに明日はある ここに希望はある ~
「東京」に描かれた屈託を経たあとの、自分として生きていく、人として生きていくという吉岡さん個人の思いは、聴く人すべての思いへと自然に昇華されていく。
生きることをこれほど確信もって肯定できる歌をどうして歌えるのだろう。
最後の「ラララー」のコーラスは、「ヘイジュード」のラストをおじさん的にはイメージする。コード進行はたぶん「ハローグッバイ」だ。
そんな古い歌を想起するのは、いきものがかりの楽曲には、なんか日本のポップス音楽が長年かかってつくってきた様々なものが詩にも曲にも自然に含まれているように感じるからだろう。
もはやジャンルをこえている。
ここまで来たのかと、陽水も拓郎も、ひょっとしたら桑田圭祐でさえ言うんじゃないかと思うくらいだ。
~ 風が吹いている 僕はここで生きていく
晴れ渡る空に 叫び続けよう 新しき日々は ここにある ある
風よ吹いていけ 君と夢を繋ぎたい
愛し合えるだろう つくりあえるだろう この時代を 僕らを この瞬間を
La La La... ~
ここで生きていこう。
でも墓参りもしてこよう。
A部門二日目のステージ係の担当し、シード校ふくめ20団体を舞台袖で聴いた。
いやあ、すごい。久しぶりに、埼玉県の吹奏楽のレベルの高さを思い知らされた。
ノーシードで出てくる学校さんのなかに、普門館(いまは名古屋国際)での演奏としてなんら問題のないものが混じっているのだから。
また、今日の松伏さん、伊奈さんの演奏を聴けた高校生は、野球でいえば浦和学院VS大阪桐蔭を堪能したのと同じだろう。
Aに出場した男子校勢は玉砕したが、よくみんなこんな中で戦おうと思うものだ。純粋にえらいと思う。自分とこもふくめて。
川越高校さんの、惜しくも代表は逃したものの、銀賞は立派だ。
この先どうやっていけばいいか、今は見当もつかない。方法はゼロではないと思うんだけどなあ。
8月8日 コンクールA部門 地区大会1日目
出演順11番 15:35演奏
課題曲:3「希望の明日へ」 自由曲:「大阪俗謡による幻想曲」
応援おねがいします!
NACK5で渡辺麻友さんの「ラッパ練習中」という曲を聴き、「パパラパパラパパパーラ」というサビに部分に思わず「川柳川柳か!」とつっこんでみた … 、と書いて理解していただける方は何人ぐらいいるだろう。
ちなみに川柳川柳(かわやなぎせんりゅう)師匠とは、あの昭和の名人三遊亭円生門下でありながら、古典落語はいっさいやらず、「ガーコン」「ジャズ息子」といった師匠にしかできない新作を数十年演じ続けている秩父出身の噺家さんだ。御年82歳であらせられる。師匠の口三味線ならぬ、口ラッパは、往年のタモリ氏もかなわないクオリティだ。現役のうちにもう一回聴いておきたいなあ。
で、まゆゆの曲が妙に頭に残りCD買ってみた。DVDの方に「ホントにラッパ練習中」という映像があって、なんか見たことある画だなと思ったら、新大久保のDACさんがロケ現場だった。
1時間でラッパが吹けるようになるという興味深い映像で、やはりまずは歌うことだった … はずだが、途中から記憶がとんでいる。もう一回みなきゃ。
AKBメンバーのソロといえば、柏木由紀さんが押尾コータローの生ギター一本を伴奏に歌った「桜の木になろう」が素晴らしい。彼女の歌のうまさにもおどろく。いろんな才能が集まった集団なのだなとあらためて思う。
「桜の木になろう」は「ショートケーキ」というシングルの「初回版A」に入っているのだが、間違ってBとかCを買うと、これが聴けない。よくたしかめて注文してよかった。AKBのファンの方は、複数買うんだよね。今はアイドルのファンも大変だ。
今日も一日、ラッパ練習。
明後日、コンクールA部門の本番です。
「あまちゃん」ブームのせいで80年代アイドルが脚光をあびている。
wikiで調べたら、80年デビュー組が松田聖子、河合奈保子、三原順子、岩崎良美、柏原よしえ。
薬師丸ひろ子の歌手デビューが81年。
そして82年組が、小泉今日子、中森明菜、松本伊代、早見優、石川秀美、堀ちえみ … 。
すごいな。すでに大学生だった当時、子どものころ天地真理をすきだった(昭和史?)ほどにはのめり込んではいなかった。
芸能界なんて黒い世界だからさなんて大人ぶって言うこともおぼえてはいたが、別世界にいる別次元の存在としてみていた。今もそうだけど。
「スローモーション」をカセットで聞かせながら、この子はくるぞと言っていた同級生の林くんの慧眼にのちのおどろいたり、568スーパーに「まちぶせ」の営業に来た石川ひとみを見に行き、ロープの張られたラインを越えて警備の人の怒られたりもした時代。
しかし80年代前半で、時代のアイドルとも言える存在はいなくなり、それ以降、そういう全国民的にアイドルとよばれる存在は出なくなったんじゃないかな。
もちろん、その後もアイドルとよばれる存在はたくさんいるが、老若男女、すべての世代に知られているようなアイドルはいなくなった。
たとえば、今能年玲奈ちゃんなんて時代のアイドルに近いけど、われわれおじさんたちの熱さに比べたら、高校生はそんなに興味をもってないようだし。
全国民的アイドルがいなくなったのは、やはり日本人の生活スタイルの多様化が第一要因だろう。
みんながお茶の間のテレビをみていた時代が完全に終わった時代といえるかもしれない。
家庭に複数テレビがあるのが普通になった時代。
さらに今はテレビよりもネットが一番の情報源になった。
なんでこんな社会学のレポートみたいなこと書いてるんだっけ?
そうだ、森高千里だ。
アイドルといえば歌手よりもモデルさんとかになっていった90年代、森高千里さんは、新しい形での歌い手さんアイドルだった。
自分で楽曲もつくり、ドラムも叩き、意図的なコスプレで歌う彼女は、アイドルを対象化したアイドルだった。
「こんな感じで歌えば喜ぶんでしょ?」的な上から目線に射られた当時の若者たちは、おっかける側もそういう自分であることを意識して、一緒に偶像をつくりあげようとしていたのではないか。まさにアイドルだ。
いやいやいや、そんな理屈はいいんです。
今は44歳になった森高千里さんが最近YouTubeで自分の歌を歌っている。
その撮影のために行われたライブ版のCDを聴くと、声がかわってない。DVDをかけると見た目も。
いや、変わってるんだけどね。変わっているけど、本質は変わって無くて、お年をめして、お子さんを育てたという人生経験がいい意味で加わり、若い頃のとんがったところが少し減って、でも「こんなのがいいの」的目線も健在で、実にいい感じだった。それを言いたくて。太田裕美さんもそうだけど、森高千里さんも希有な存在だと思う。
あ、部活からの逃避で聴いているのではないので、ご心配なく(笑)。
昨日で夏期講習の前半戦が終わり、今日は朝からの練習。やっと夏休みの感じがする。
本番の終わったDメンバーは基礎と文化祭の曲の譜読み。Aメンバーはコンクールの曲は当然だが、せっかく譜面を配ったのだから、文化祭のポップス曲をつかって、アタックや音の切り方の確認をすることにした。
全員でJポップ曲を鳴らしたときは何とかなっかたが、先輩がコンクール曲をさらう間に1年生だけで合奏してみたら、予想通りかなりきびしい。
その曲の調のスケールはふける、その曲でよくでてくるリズムも大体とれる、でもそれを同時にやるとなると難しい。応用というほどではないのだが、基本的なことができても、それが組み合わせでできないといけないから、やはり曲練習も無理矢理やる必要がある。
基礎を十分の身につけて自然と曲が吹けるようになる方向性の練習がある。
一方でとりあえず曲にあたって、そのために必要な基礎をそのつど練習する。
演繹型と帰納型のちがいに近いかもしれない。
個人的には後者が好きで、なんでもまずやってみたくて、すぐ行き詰まる。
基礎練大好き、基本命みたいな人もいると思うけど、基礎のための基礎になってしまってはいけない。
キャッチボールだけものすごく上手とか、腕立て伏せだけは誰にも負けないとか、そこで終わったらもったいないから。
なんのための基礎か、なんのための応用かを意識しないといけないのは、音楽にかぎらず、勉強も、仕事も同じなのだろう。