4月14日。
練習を終えて、今年度はじめての「男祭り」打ち合わせ会に向かう。事故があって東上線のダイヤが乱れているのは、むしろ日常といえよう。飲み会に初めてお誘いしたMO高校の先生を改札で待っていたが、朝霞台駅って、ほんとに利用者が多い。自分の最寄り駅新河岸とは比べものにならない。その新河岸も、こんなしょぼい駅に、こんなにたくさんに人が降りるなんてと驚くことが昔はよくあった。
高校時代に利用していた京福電鉄(いまの越前鉄道)は基本2両編成だった。朝の7時台だけたしか3両の電車が走っていたはずだ。朝を除けば一時間に2本。30分間隔で走っている。帰省した折たまに利用するが、この運行本数は変わっていない。あ、駅は微妙に増えていた。一時間に2本、二両編成の電車でも昼間は座れる。
そんな土地がらから、この埼玉へやってきたのだから、電車が10両も繋がっていることに驚き、それで座れないくらい人が乗っていることに驚いたのも遠い昔、いまや改札からあふれんばかりに出てくる人並みから、一瞬で目的に待ち人を見つけられるくらい、動体視力が発達している。と思ったら歩いてきたのは星野高校のなかじまさんだった。つづいて巨体(やせたけど)のS氏。われわれが打ち合わせ会場に着いて、今日の参加者がそろい、一応作っていったレジメに基づいて雑談とも打ち合わせともつかぬ話をする。
芸大、武蔵野音大、吹奏楽オタクの先生方に一人素人が混ぜてもらっているが、なるほどだからレジメはおれの仕事だなと納得し、今年もなんとなくやれそうかなとイメージがわいてきた。
祝本屋大賞!
次の文章は、宮下奈都の小説「スコーレ№4」の一節である。これを読んで、後の問いに答えよ。
もうすぐ一学期が終わるというのに、中学校には慣れることができない。あっちも嘘(うそ)、こっちにも嘘。全然ほんとうの匂いがしない。息を吸っても吸っても肺の底まで酸素が届かない感じがする。学校にいる間、だから私は1〈 息をひそめて 〉不機嫌をなだめている。学校では何かが起きそうなのに、実際には何も起こらない。いいことも、悪いことも、どかどかやってくるくせに、あちこち踏み荒らしてあっという間に通り過ぎていく。後には何も残らない。通り過ぎるまでは、おへそに力を込め、脇をしっかり締める。これで防御の体勢だ。降りかかる火の粉も、うろつく感情の波も、皮膚の内側まで入り込むようなことはない。
今日はクラスの垣内という男の子宛(あ)てのラブレターが教室に落ちていて騒ぎになった。垣内くんは運動のよくできる、背の高い子だった。女子に人気があるのは知っていた。手紙には差出人の名前がなかったらしく、誰が落としたのか、噂(うわさ)が噂を呼んだ。そのうちに手紙は心ない男子の間を引っ張りまわされ、文面が大声で読み上げられ、筆跡を調べられ、最後は教室後ろの掲示板に2〈 まで 〉貼られた。
早く引き取ればいいのに、と私は垣内くんの背中を斜め後ろの席から見ていた。関わらないほうがいいと思ったし、関わるつもりもなかった。垣内くんは険しい顔をして、手紙は 〈 3 〉 、掲示板のほうを一度も振り返らなかった。
そのうちに、A〈 私のおへそのあたりがむずむずしはじめた 〉。不機嫌が増殖していくのがわかる。私は垣内くんの背中を睨(にら)む。自分のために心を込めて書かれた手紙が教室で公開されていたら、それを引き受ける度量ってものが必要なんじゃないか。教室のどこかでみんなと一緒になって差出人探しに興じるふりをしているほんとうの差出人のことはともかく、あの手紙をそのままにしていいはずがない。力を込めているはずのおへそが動き出すような感じがする。カカワルナ、カカワルナ、とささやく声が聞こえる。それでもおへそが疼(うず)くのだ。
私は立っていって掲示板から手紙を剥(は)がした。クラスじゅうの視線が集まるのを感じた。その手紙を垣内くんに乱暴に手渡すと、垣内くんが驚いたような目で手紙と私を交互に見た。
「津川か、それ書いたの」
「津川だったのか」
周囲から声が飛ぶ。
「違うよ」と私は言った。
「手紙が4〈 不憫(ふびん) 〉だから取っただけ」
それでも面白がって「津川か」「津川は垣内が好きなのか」と囃(はや)す声がする。女子も遠巻きにする感じでひそひそ話している。垣内くんは最後まで黙っていた。
何も起きない日々にしては、まあ波があったほうだ。ちゃんと私は母の言いつけを覚えていた。早く帰る、早く帰る、と口の中で唱えると、垣内くんもクラスの目も手紙ももうどうでもよかった。
ホームルームが長引いた。終了と同時に帰ろうとすると、教室の外で真由が待ちかまえていた。小走りに近寄ってきて、袖を引く。
「ちょっとだけ、つきあって」
「ごめん、今日あんまり時間ないの」
「帰りながら、ちょっとだけでいいから」
なんの話だろう、と思う。垣内くんの手紙のことだろうか。真由のクラスまでもう伝わったんだろうか。返事をしないでいると真由は横目で窺(うかが)うように私を5〈 見 〉、グラウンド、と小声で言う。
「グラウンド?」
今度は口の形だけで、サッカー部、と言う。あ、と思った。サッカー部の、ええと、名前も忘れてしまった、きっとあの公園を走っている子の話だ。雨が続いて、あれ以来ジョギングは延期になったままだ。今日は久しぶりに晴れたと思ったら、梅雨が明けたかのように太陽が近い。
B〈 面倒だった 〉。断るのとどっちが面倒だろう、と思っているうちに、ちょっとだけ、ちょっとだけん、と繰り返す真由に引っ張られる。たぶんこのくねくねを断るほうが面倒だ、と覚悟を決める。
薄暗い玄関で内履きを脱いでいたら、去年真由が熱を上げていた黒田くんのことを思い出してしまった。黒田くん、今頃どうしてるだろう。成績がよくて私立に行った、ちょっとおじさんくさい子だった。私はちっとも好きじゃなかったけれど、真由が黒田くんのくの字も言わなくなった今は、なんだか懐かしいような気がしてしまう。黒田くん黒田くんって騒がれて、中学が分かれただけで見向きもされないなんて、やっぱり、なにもかも過ぎて忘れられていくんだな、と思う。
「まだぁ?」
いちばんわからないのは、と真由の6〈 上気した 〉顔を見て思う。その浮かれ具合だ。好きな子ができるとそれだけでそんなに楽しいのか。その子の顔を見たがったり、その子に手紙を書きたくなったりして、それがそんなに楽しいのか、ということだ。
校舎を出たら、陽射しが強くて景色が白っぽかった。グラウンドに風が吹いている。五、六歩先に行った真由が振り返る。
「早く早く、こっちこっち」
自転車置き場の脇を通って校舎の陰からグラウンドを見る。砂挨(ぼこり)の立つ中を、野球部が走っている。
「もうちょっとこっち来ないと見えないって」
真由がじれったそうに急(せ)かすけれど、足が前に出にくい。こんな光と風の中を、太陽に向かって歩くなんて、間違っている。間違いに気づかない真由も、間違っている。間違っているのに真由はいつもよりはしゃいでいる。C〈 白いブラウスの背中が、うんと遠くに感じられる 〉。グラウンドにはあんなに大勢いるのに、と思う。その大勢の誰からも、目の前の真由からも離れたところを私はひとりで歩いているような、ぽつんと離されているような気がする。
真由は渡り廊下の隣の花壇のところでグラウンドを眺めている。近づくと、興奮気味に目を大きく開いて振り向き、大げさに手招きをする。鞄を持っていないほうの私の腕をつかむ。かすかにライムのコロンが香る。あの人、と真由が小さく指した先にはサッカー部の一団がいる。
「グラウンドのほう向いてる、今ボール蹴ろうとした人」
体操服の、似たような男子が何人もグラウンドの縁にいる。グラウンドのほうを向いている人とこちらを向いている人は入り交じってしじゅう動いており、白いボールが彼らの中を飛び交って、まぶしい。どれが誰だか見分けがつかない。
「ほら、今、歩いていって、きゃっ、こっち向いたっ」
真由はどんっと私の背中に体当たりするようにぶつかる。きっと恥ずかしさのあまり身を隠したつもりなのだ。私はぶつかられた拍子によろめいて前に押し出される。顔を上げたとき、ちょうど笛が鳴り、一団がグラウンドの中程へ走って出ていくところだった。
風が止まった。野球部の掛け声が消えた。どうしてだろう、と私は思っている。どうしてわかったんだろう。真由が指した相手がどの子だったのか。「今、歩いていって、こっち向いた」のは、他の子とは見間違えようのない子だった。たとえば目立つとか、たとえばかっこいいとか、たとえばドリブルがうまいとか、そういうことじゃない。ただ、彼がわかった。私はびっくりした。あれが真由の中原くんか。
黙って立っているしかなかった。声の出し方を思い出せなかったから。私の背中につかまっていた真由が横にまわり込んできて、背伸びをし、グラウンドの中程を見やりながら弾んだ声で言った。
「ね、見えた? 中原くん、かっこいいでしょ」
D〈 「見えなかった」
私は自転車置き場のほうへ歩き出した 〉。
真由の甘ったるい声が追いかけてくる。
「もうちょっとだけ見ていこうよぉ」
一度振り返って、またね、と手を振った。自分がどんな顔をしているのかわからない。真由から一秒でも早く遠ざかるように、目を合わせずに済むように。
自転車は後から無造作に停められた数台に挟まれて、すぐには引き出せなかった。前輪に突っ込んでいた隣の自転車を退け、反対側の一台も退け、ようやく鍵を外すことができる。雨除けになっているトタン屋根から自転車を押して出て、サドルに跨ったときに突然、蝉の声が束になって降ってきた。わ、しゃわー、と声が落ちてくる。蝉がしゃわーと鳴いた、それだけのことに私はうろたえている。蝉の声を初めて聞いたような気持ちになってしまったから。E〈 新しい、鮮やかな場所へ突然踏み出してしまった戸惑い 〉で、誰も見ていないのに顔を上げることができない。コンクリートが焼けている。自転車のタイヤが軋(きし)む。棕櫚(しゅろ)の葉が太陽を映して光り、目に突き刺さるみたいだ。
見慣れたはずの町を自転車で走りながら、すばやく瞬きを繰り返す。町の風景が急に極彩色で迫ってくるようになってしまった。一軒一軒の家に、走る車のクラクションに、いちいちピントが合うようになってしまった。神経のエナメルが剥がれ、感覚器官が剥(む)き出しにされたような感じだった。
グラウンドで見たものを、おそるおそる思い出す。思い出そうとしなくたって、さっきからもう何度も思い出してしまっている。そうだ、ただの、体操服の、男の子だった。真由の好きな男の子。信号で止まっている間、グラウンドを駆けていった背中が目に浮かんできて、気がつくとまた青信号が点滅している。急いでペダルを踏み込みながら、あ、そうか、と思っている。まぶしかったから。あの子のゼッケンに太陽が反射してたから。だから特別に見えたんだ。そうだ、そうだ、と私は思っている。なんだ、そうか、と思っている。そんなわけないでしょ、と思っている。じゃあなんなのよ、と思っている。何度も通ってきた道を、迷子になりそうな心許なさで走っている。心臓が勝手に早打ちしていて胸が苦しい。
あの子は、水色なんだ。水色の印象に不思議なくらいあてはまっていた。自分に合わせたいと思った、淡いねずみ色と並べたら最高だと思った、くすんだ水色。水色だから目を引かれた。それがわかって私は満足した。そうか、水色か、それなら特別に感じたって不思議はないな。でもすぐに満足の嵩(かさ)が減る。私にとって特別な水色が、真由には何に見えるんだろう。私だけじゃない、真由にもわかる何かがあの子にはある。しかも、と思いついて私は自転車のサドルから腰を浮かす。立ったまま勢いよく漕(こ)ぐ。そのままのスピードで角を曲がると、電信柱に腕を擦りそうになった。家の前で急ブレーキをかける。しかもだ、〈 F 〉 。
自転車を停め、黙っていよう、と決めた。あの子を特別だと感じたことを、真由にも、自分自身にも。黙っていればそのうち通り過ぎるだろうと思うことにした。男の子を見て、時計の針が止まったような気がしたことも、息が苦しくなったことも、葉っぱの輝きや蝉の鳴き声が急に肌に触れるくらい近く感じられたことも、それらなにもかもがわけもなく愛しく思えたことも。
問一 1「息をひそめて」の意味として最も適当なものを選べ。
ア 心を落ち着けて
イ 存在を消して
ウ 深く息を吸って
エ なりゆきを見守って
問二 2「まで」と文法的性質が同じものはどれか。
ア 後には何〈 も 〉残らない。
イ 女子に人気がある〈 の 〉は知っていた。
ウ 早く引き取れ〈 ば 〉いいのに、
エ それを引き受ける度量ってものが必要なんじゃない〈 か 〉。
問三 空欄3を補う語として最も適当なものを選べ。
ア ともかく イ とりわけ ウ おろか エ まだしも
問四 4「不憫」の意味として最も適当なものを選べ。
ア 気の毒 イ 見苦しい ウ 気に障る エ 情けない
問五 5「見」と活用形が同じものを選べ。
ア ちょっとだけで〈 いい 〉から
イ 垣内くんの手紙のこと〈 だろ 〉うか
ウ 黒田くんのくの字も言わ〈 なく 〉なった今は
エ なんだか懐かしい〈 ような 〉気がしてしまう
問六 6「上気した」の意味として最も適当なものを選べ。
ア うかれて微笑んでいる
イ 憧れで頬がゆるんでいる
ウ 緊張して色を失った
エ 興奮して赤みをおびた
問七 A「私のおへそのあたりがむずむずしはじめた」の理由として最も適当なものを選べ。
ア クラス内の事件など取るにたりないことだと常々思ってはいるが、教室の片隅で小さくなっている差出人のことを思うといてもたってもいられなくなり、なんとか助けてあげたいと感じ始めていたから。
イ 差出人が誰なのかうすうす気づいていながら、知らないふりをする垣内くんの態度は許し難く、手紙を乱暴にはがして突き出してやることでその怒りを表現するしかないと考えたから。
ウ 朝から体調がすぐれなかった上に、手紙を出した女子に対する思いやりのない男子たちの態度にはらわたが煮えくりかえる思いが加わり、じっとしていられなくなってきたから。
エ 事件が起こっても無視して通り過ぎるのを待つだけだと思いながら、当事者としての態度をとらない垣内君への不満が募り、せめて手紙だけでもどうにかしたくなった自分を抑えられなくなってきたから。
問八 B「面倒だった」の理由として最も適当なものを選べ。
ア いつも誰かを好きになってすぐまた別の人に気がうつってしまうにちがいない真由に、まともにつきあうのは面倒だと思ったから。
イ 学校という空間から早く解放されたいと思っている自分にとって、友人の好きな子を見に行くということ自体に興味がわかなかったから。
ウ さきほどクラスで起こった事件の説明を求められるにちがいないと思うと、いくら普段仲良くしてても一緒に帰る気がしなかったから。
エ 自分の都合でしか接してこない真由は、本当に友達だと言えるのだろうかという思いがわきおこってきたから。
問九 C「白いブラウスの背中が、うんと遠くに感じられる」が表現しているものの説明として最も適当なものを選べ。
ア いつか級友からいじめられるかもしれないという「私」の不安をそれとなくほのめかしている。
イ 明るい太陽と爽やかな風と対比される、主人公の鬱屈(うっくつ)を間接的に表している。
ウ まわりの誰とも心が隔たってしまったかのように感じている「私」の心情を表現しようとしている。
エ 屈託無く部活や恋にいそしむ、主人公の周囲の中学生の姿を象徴的に表している。
問十 D「 「見えなかった」 私は自転車置き場のほうへ歩き出した 」という「私」の行動を説明したものとして最も適当なものを選べ。
ア 中原くんとよばれる子の姿が、男子になど興味がないはずの自分の脳裏に焼き付いてしまったことに驚き、その動揺をさとられないために一刻も早く真由のそばを離れようとした。
イ 早く帰りたいと言っているのに、いつまでも自分にまとわりついてくる真由がいいかげんうっとうしくなり、真由の質問にまじめに答える気がしなくなっていた。
ウ 中原くんのどこがかっこいいのか見当も付かなかったが、正直にそう答えることで真由を傷つけたくはなく、とりあえず足早にその場を去ることにした。
エ 突然中原くんの存在が気になりだしてしまったものの、母との約束のためにいつまでも感傷にひたっているわけにはいかず、しかたなく帰路を急ぐことにした。
問十一 E「新しい、鮮やかな場所へ突然踏み出してしまった戸惑い」の内容を説明したものとして最も適当なものを選べ。
ア グラウンドでの体験を冷静にふりかえってみると、それがこれからの中学生活を明るく照らしてくれるものであるかもしれないと気づき、いつもの通学路さえ、生まれて初めて訪れた場所のように新鮮に感じられる状態。
イ 自分が中原くんと認識した男子が本当に真由の言っていた中原くんであるかどうかを確認する方法はなく、今自分が抱いている感情をどのようにあつかっていいのか戸惑いを覚えている様子。
ウ 自分が抱いた感情は、けっして恋愛感情と言えるものではないと考えようとするものの、頭に浮かんできてしまう男の子の姿はあまりに鮮やかで、しばらくはこの思いを大事に育てていきたいと思っている様子。
エ 誰かを好きになるという感情を突然抱いてしまったことを受け入れがたく感じながら、どこかそれが気恥ずかしいうれしさを伴っているものであることも否定できないでいる状態。
問十二 空欄Fを補うものとして最も適当なものを選べ。
ア 先に見つけたのは真由だ
イ 真由は私の気持ちを知らない
ウ 特別なのはあの子だけじゃない
エ 好きにならないと決めたのは自分だ
問十三 本文の特徴を説明したものとして最も適当なものを選べ。
ア 友情と恋愛の狭間にたって揺れ動く少女達の心情と確執が、時折象徴的な風景描写を盛り込みながら、具体的かつ緻密に表現されている。
イ 間違ったことはそのままにしておけない主人公の生き方が、象徴的なエピソードの描写と短文を積み重ねる技法とによって、丹念に描き出されている。
ウ 主人公の周りで起きる出来事を、徹底して主人公の視点から描ききることによって、思春期特有の少女の心の動きを実感として伝えることができるような文章になっている。
エ 微妙な人間関係の中でうまくふるまえない主人公の不安と焦りが、一人称を基本としながら自分を冷静に見つめる視点を交えた語り口で、たくみに描き出された文章になっている。
学年だより「志(2)」
みなさんにとっては、そんな人もいたなぁぐらいの存在かもしれないが、島田紳助氏は一時期テレビ業界の頂点にいた。「紳助竜介」という漫才コンビで一世を風靡し、コンビを解散してからは、文字通り「タレント」として様々な番組を企画し、MCを担当してきた。デビューからずっと、その仕事ぶりに賛否はあったものの、第一線を走り続けてきた存在だ。
彼の企画した「M1グランプリ」によって世に出た多くの芸人さんたちは、きっと神のようにあがめていたことだろう。同期の明石家さんま氏とともに、別格の天才的な芸人さんだと思えた。
しかし島田氏の若いころのエピソードを知ると、彼の芸を支えていたのはなみなみならぬ努力であったことがわかる。漫才で身を立てようと決心した18歳。芸人の世界には教科書がない、まず自分で教科書をつくろうと若き島田紳助は考えた。
~ 僕は自分が「オモロイ!」と思った漫才師の漫才を、片っ端からカセット・テープに録音していきました。その頃は、録音機材といったら大きなラジカセしかなかったから、それをテレビの前に置いてね。劇場まで持って行ったこともありました。普通に持って行ったら怒られるから、鞄に忍ばせて。そうやって録音した漫才を、今度は繰り返し再生して紙に書き出していく。書き出すことで、なぜ「オモロイ!」のかが段々とわかってきたんです。
そして、教科書が出来上がった時、僕は相方を探し始めました。 (島田紳助『自己プロデュース力』ヨシモトブックス) ~
ものすごく時間のかかる作業であるテープおこしをしながら、このコンビの漫才はオチのパターンが二種類しかない、このコンビは一分間に20の間をつくっているというように、徹底的に分析する。当時憧れていたB&Bのネタは、そのシステムを完全に自分の掌中に収めるほどになっていた。
次に、相方を探す。見つかった相方と徹底的に練習を積む。自分の作ったネタを、理想とするテンポやイントネーションで再現してくれるまで繰り返していく。
彼の求めるレベルが理解されず、松本竜介氏と出会うまでに、二人の相方と別れている。
松本竜介は決して器用ではなかったが、根性があった。
練習では、必ず同じミスをおかす。しかし、翌日には直っている。帰ってから一人でずっと練習していることが感じられた。
本番の舞台の直後も、あそこは「て」じゃなくて「に」にした方がええんちゃう? と気づいてすぐに延々と練習する。
一見アドリブの応酬に見えた漫才も、「てにをは」に至るまで台本通りに話されていたのだ。
そんな紳助氏のことだから、コンビ解散後に司会中心の仕事に移行し、ニュース番組まで担当するにあたって、どれほどの勉強を積んだかは想像に難くない。
島田紳助氏が、NSC(吉本興業の芸人養成学校)で講義を受け持つことになった。
芸人の卵たちを前にして、「君たちに才能はあげられない、でも努力の方法を教えてあげよう」と語り始める。最初のそれが「自分の教科書を作ること」であった。
町田くんの弟が、知らないおじさんの家にあがりこんでお菓子をもらっているという告発が、妹からなされた。
五歳の弟けーごと妹しおりは双子かな。
その少し上にミツルという弟、さらに中学生のニコがいて、第一巻では5人兄弟姉妹のいちばんのお兄ちゃんが町田くん(高1)だ。
公園でよく見かけるおじさんに声をかけられて家に遊びに行ったと、けーごは言う。
心配だから見てきてという母親の命を受け、町田くんはその人を訪ねた。
話してみるとすぐに、「あぶない人」ではないことがわかる。
昔はね、近所のおじちゃんおばちゃんが子ども達を見守ってたんだよ。今じゃ、声をかけると不審者って言われちゃう … 。
そう語るおじさんは、妹尾さんといい、おじいさんだった。
奥さんをなくし、子どもも孫もよりつかなくてさみしくてねぇと語る妹尾さんの家に、これからも遊びに行っていいですかと町田くんは言うのだった。
「うちは兄弟が多くて(ごらんの通り)家でひとりになることがまずないから。想像しにくいんですよね。
ひとり暮らしや、ほぼひとり暮らしみたいなことが」
おじいちゃんが答える、
「そうだね。何にもさみしいことなんてないよ、ひとり暮らし自体は」
「そうなんですか」
「そうだよ」
「さみしいのは、愛する人がいるということだ」
(いるから?)という目で町田くんがふりかえる。
「本当のひとりは孤独じゃない。誰かがいると思うからこそ、孤独なんだ」
「それは、愛する人がそばにいない時に、孤独ということですか?」
「まぁ、そうだね、時には。そばにいてもだけど」
「僕は孤独だと感じたことはないです」
「はは。それは君がまだ、誰も、何も、失ったことがないからだよ。
失う恐怖がまた、人を孤独にさせるんだ」
愛する人がいるとさみしくなる … 。
高校生の町田くんにはぴんとこない。
でも、何かを感じ取った町田くんには、あるクラスメイトのことが思い浮かんだ。
愛する人がいるとさみしくなる。失う恐怖がまた、人を孤独にさせる … 。
高校生の町田くんにはぴんと来なくても、われわれおっさんには、ぴんと来まくりだ。
むしろ楽しければ楽しいほど、そばにいる人が愛しければ愛しいほど、いい音楽やお芝居に心動かされれば動かされるほど、心のどこかでふと感じるさみしさを意識せざるを得なくなる。
先日の始業式の日なんか、また一緒なクラスじゃん、担任○○だよ、と廊下で盛り上がる新二年生たちを「うっせえよ、騒ぐなよ、一年は授業やってんだろ」と注意しながら、顔は笑ってしまい、同時にあと何度これがあるのかと思うと、泣きそうになった。じじいかっ!
4月13日。
月曜日のスタディサポートという名の模擬試験、昨日の体力測定に続いて、今日は平常授業で漢文が4つ。今年は漢文を教える比重がさらにあがった。この学年の漢文の力は、なんの言い訳もできずに自分の責任になる。ちょっと本格的に教えるべきことを整理する年にしたい。放課後、文化部の顧問会議。文化部も運動部に負けないよう、しっかり成果を出してほしいとのお達しをうけ、がんばろうと思う。年度当初にがんばろうと思ったことを紙に書き出すと、ものすごいことになりそうだ。全部できたりして。文化部は、でも部員確保がどの部も大変なんだよなあ。内心上手な子だけほしがっている口ぶりの運動部顧問の話をきくと首をしめようかと … 、思わないけどね。
学年だより「志」
「自分は何をやりたいのか。」「自分は何をやるべきだと思っているのか。」「自分はどんな人になりたいのか。」これらの三つの文の実質的意味は同じだ。
自分とは「志」のことである。
明治時代の文豪幸田露伴はこう述べる。
~ いわゆる志を立てるということは、あるものに向かって心の方向を確定することで、いいかえれば、心に何を持つかということだ。だからこそ、心にもつものが最高最善のものでなければならないのは自然の道理である。それゆえに、志を立てるときは、その志が堅固であることを願う前に、まず志が高いものであることを願うべきである。そして志が立ったあとで、それを堅固なものにしたいと考えるべきだ。 (渡辺昇一編『幸田露伴「努力論」を読む-人生報われる生き方』三笠書房) ~
まず目標を「持つ」こと。そして、その目標はできるだけ「高く持つ」ことが大切だと言う。
なぜ高望みすべきなの。
目標を持つときに、人は現在の自分を基準に考える。しかし、人は成長する。
レベルが1ステージあがると、それまで見えなかったものが見えてくる。
今の自分にとってはとんでもない高望みだった目標が、一年後の自分には手の届く範囲になっていることはよくあるものだ。
~ 七、八歳のころ持ち上げられなかった石でも、大人になれば簡単に持ち上げられる。七、八歳の自分が、大人になった自分に及ばないのは当然のことだ。学問修業中の青年時代の自分が、やや学問の積み重ねができた壮年の自分に比べて劣っているのは明白なことである。ならば、現在の自分を基準にして将来の自分を決めつけてしまうような考えを抱くのは、なんとも愚かしいことである。それよりも、今はただ当面の学問に真剣に取り組むのみだ。何を苦しんで自らを小さくし卑しめ、限定し狭める必要がどこにあろうか。 ~
小学校、中学校と勉強に勉強を重ね、努力の限りをつくして、持てる能力のすべてをふりしぼってこの川東に入学してきた人は少ないのではないかと、日頃の皆さんを見てきて感じる。
むしろ、それほどちゃんと勉強はしていない、勉強のやり方を知らないままなんとなくここにいるという人の方が多いのではないか。
だとすると、ほとんどの人は、とんでもない伸びしろを持っていることになる。
それをムダにするのはもったいない。
やり方を知り、実際に少しやってみることで、一気に見える世界は変わってくる。
いまの皆さんに大事なのは、とにかく高い目標を設定してみることだろう。
内田樹「反知性主義者たちの肖像」(2016年東大国語第一問)
三段落(6・7・8・9)
6 知性というのは個人においてではなく、集団として発動するものだと私は思っている。知性は「集合的叡(えい)智(ち)」として働くのでなければ何の意味もない。単独で存立し得るようなものを私は知性と呼ばない。
7 わかりにくい話になるので、すこしていねいに説明したい。
8 私は、知性というのは個人に属するものというより、集団的な現象だと考えている。人間は集団として情報を採り入れ、その重要度を衡量し、その意味するところについて仮説を立て、それにどう対処すべきかについての合意形成を行う。エ〈 その力動的プロセス全体を活気づけ、駆動させる力 〉の全体を「知性」と呼びたいと私は思うのである。
9 ある人の話を聴いているうちに、ずっと忘れていた昔のできごとをふと思い出したり、しばらく音信のなかった人に手紙を書きたくなったり、凝った料理が作りたくなったり、家の掃除がしたくなったり、たまっていたアイロンかけをしたくなったりしたら、それは知性が活性化したことの具体的な徴候である。私はそう考えている。「それまで思いつかなかったことがしたくなる」というかたちでの影響を周囲にいる他者たちに及ぼす力のことを、知性と呼びたいと私は思う。
6 知性とは
個人において 〈一般論〉
↑ ではなく
↓
集団として発動するもの 〈筆者の主張〉
↓
知性 … 「集合的叡智」として働くのでなければ意味はない
8 知性とは
個人に属するもの
↑ というより
↓
集団的な現象
人間は集団として
情報を採り入れ
↓
その重要度を衡量し ☆衡量 … 重さをはかる・考え合わせる
↓
仮説を立て
↓
どう対処すべきか合意形成を行う
この力動的プロセス全体を活気づけ、駆動させる力の全体
∥
「知性」
∥
9「それまで思いつかなかったことがしたくなる」というかたちでの影響を
周囲にいる他者たちに及ぼす力
(四)「その力動的プロセス全体を活気づけ、駆動させる力」(傍線部エ)とはどういう力のことか、説明せよ。
まず「その」の指す部分をまとめる。
人間は、情報を取り入れ、その重要度を勘案し、どうすべきかについてみんなで考えて生きていく生き物だという。
みんなで考えていく力を活性化させるのが知性であるというのだ。
それは、ある人の話を聞いたとき、全然関係のないことを思いついて行動に移したくなる、というような形で働く力を指す。
「知性は集団として発動する」という命題は、一般論、通説とはあきらかに異なるだろう。
ふつう私達は、できれば知性を身につけたいと思って勉強しているはずだ。
そして、「自分に」どれくらい身についたかで、その「量」をはかろうとする。
たくさんの知識を得た、そしてそれを何かの判断に役立てることができた、おれって知性的な人間になった、というように。
しかし、自分の中で完結しているかぎり、それは知性とは言えないと言うのだ。
ここに東大の先生のメッセージを読み取れるだろうか。
いくら偏差値があがっても、そのこと自体がエライというのではないのだよ、という。
「知性は個人のものではない」という、一般論とはあきらかに逆にニュアンスを解答に盛り込むことが必要になる。
(四)解答例
人間が集団として情報にどう対処するかの合意を形成していく過程において、集団全体の思考や判断を活性化させようと働く力。
内田樹「反知性主義者たちの肖像」(2016年東大国語第一問)
二段落(4・5)
4 「反知性主義」という言葉からはその逆のものを想像すればよい。反知性主義者たちはしばしば恐ろしいほどに物知りである。一つのトピックについて、手持ちの合切袋から、自説を基礎づけるデータやエビデンスや統計数値をいくらでも取り出すことができる。けれども、それをいくら聴かされても、私たちの気持ちはあまり晴れることがないし、解放感を覚えることもない。というのは、イ〈 この人はあらゆることについて正解をすでに知っている 〉からである。正解をすでに知っている以上、彼らはことの理非の判断を私に委ねる気がない。「あなたが同意しようとしまいと、私の語ることの真理性はいささかも揺るがない」というのが反知性主義者の基本的なマナーである。「あなたの同意が得られないようであれば、もう一度勉強して出直してきます」というようなことは残念ながら反知性主義者は決して言ってくれない。彼らは「理非の判断はすでに済んでいる。あなたに代わって私がもう判断を済ませた。だから、あなたが何を考えようと、それによって私の主張することの真理性には何の影響も及ぼさない」と私たちに告げる。そして、そのような言葉は確実に「呪い」として機能し始める。というのは、そういうことを耳元でうるさく言われているうちに、こちらの生きる力がしだいに衰弱してくるからである。「あなたが何を考えようと、何をどう判断しようと、それは理非の判定に関与しない」ということは、ウ〈 「あなたには生きている理由がない」と言われているに等しい 〉からである。
5 私は私をそのような気分にさせる人間のことを「反知性的」と見なすことにしている。その人自身は自分のことを「知性的」であると思っているかも知れない。たぶん、思っているだろう。知識も豊かだし、自信たっぷりに語るし、反論されても少しも動じない。でも、やはり私は彼を「知性的」とは呼ばない。それは彼が知性を属人的な資質や能力だと思っているからである。だが、私はそれとは違う考え方をする。
4
反知性主義者たち
… 恐ろしいほどに物知り
あらゆることについて正解を知っている
↓
ことの理非の判断を私に委ねる気がない。
∥
「あなたが何を考えようと、それによって私の主張することの
真理性には何の影響も及ぼさない」
「あなたが何を考えようと、何をどう判断しようと、
それは理非の判定に関与しない」
∥
「あなたには生きている理由がない」
↓
「呪い」として機能
気持ちが晴れない
生きる力が衰弱する
↑
5 そのような気分にさせる人間
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「反知性的」(な人)
∥
「知性 … 属人的な資質や能力」(と考える人)
(二)「この人はあらゆることについて正解をすでに知っている」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。
(一)との対比を意識して解答する。
「この人」とは「反知性主義者」のこと。
「知性的な人」は、何事もまず虚心に受け止める。しかし「反知性主義者」は他人の話を聞かない。聞く必要がない。なぜなら、「すでに」答えを知っているからだ。手持ちの知識情報によってすべてが判断でき、その判断の正しさを疑わない。けっして自分の「知」の枠組みを作り替えようなどとは思わない。
(二)解答例
反知性主義者は、あらゆることについて手持ちの知識や情報に基ずいて理非の判断をくだし、その正しさを決して疑わないこと。
(三)「『あなたには生きている理由がない』と言われているに等しい」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。
(二)とのつながりを意識して解答する。
反知性主義者は、すべての事柄を自分の手持ちの知識情報によって判断する。他の誰かが何を言っても聞く気はない。
誰かが何を考えようと、そしてどんな主張をしようと、それを聞いて自分の意見を変えようなどとは微塵も思わない。
つまり、自分以外の他者はいてもいなくても同じである。
何を言っても、何を伝えても、それに何の価値も見いだせないということは、その人の存在そのもの意味が無くなる。
反知性主義者は、「あなたたたちが存在する意味はとくにないですよ」光線を出し続けているのだ。
(三)解答例
自分の正しさに疑いを持たず、他者の主張を一切受け付けようとしない反知性主義者の態度は、他者の存在そのものを無意味と扱うことと同じだということ。
学年だより「チャレンジ」
進級おめでとうございます!!
高校に入ってからの一年間を早いと感じたか、やたら長かったか、感じ方がは人それぞれだろう。 一年間で何をなしとげたかと考えるとき、正直あんまり変わってないなあと実感する人の方が多いかもしれない。しかし、客観的に見ると、みなさんは随分成長している。
身体的にも、精神的にも。
多くの人の顔が順調に「おっさん化」しているのだ。
「え? いいです、おっさんにならなくたって」と思うかも知れないが、これは象徴的な表現であり、顔つきが少し大人びてきた、打たれ強そうになってきたということだ。
入学したばかりの一年生と見比べると、その差は顕著だ。
一年前の自分がもし隣に立ったなら、たぶん多くの人が「若っ!」と感じるにちがいない。
16歳から17歳、18歳という年代は、それだけ変化の大きな年頃だと言える。
高校生活の残り二年間は、心の持ち方次第で、ものすごく変われる。
大学に入った直後に中学の同級だった女子と3年ぶりに再会して、「うそ。素敵 … 」と見直させるくらいには、簡単に変わる。
男子の顔を変えるのは、蓄積された知性とチャレンジの経験だ。
~ 「間違いたくない。失敗したくないんです」という人がいます。
間違った経験が多いほど、次に行う決断の精度が高くなります。
野球でライトフライが上がったときには、ボールの落下地点を予想します。
① ライトフライを10球捕る練習をした人
② ライトフライを1000球捕る練習をした人
であれば、後者のほうが、打球が上がったときの直観がすぐれています。さらに、
① ライトフライを1000球捕る練習をしたが、試合に出たことのない人
② ライトフライを1000球捕る練習をして、試合に出てライトフライを捕れずに
エラーをした人
であれば、後者のほうが、経験値が上がっています。
悔しい感情とともに、学ぶことができるからです。
勝ったときよりも、負けたときに経験値が上がります。
ビジネスも、うまくいったときよりも、失敗したときに学べるのです。
(石井貴士『一分間決断法』SBクリエイティブ) ~
チャレンジには失敗がともなう。成功が約束されていることをチャレンジとは言わない。
試合で1セットもとれなくても、模試の問題を目の前にして一問も解けなくても、その現場に立ったことから、何かは生まれる。チャレンジの一年にしていこうではないか。
内田樹「反知性主義者たちの肖像」(2016年東大国語第一問)
一段落(1・2・3)
1 ホーフスタッターはこう書いている。
反知性主義は、思想に対して無条件の敵意をいだく人びとによって創作されたものではない。まったく逆である。教育ある者にとって、もっとも有効な敵は中途半端な教育を受けた者であるのと同様に、指折りの反知性主義者は通常、思想に深くかかわっている人びとであり、それもしばしば、aチンプな思想や認知されない思想にとり憑(つ)かれている。反知性主義に陥る危険のない知識人はほとんどいない。一方、ひたむきな知的情熱に欠ける反知識人もほとんどいない。
(リチャード・ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』田村哲夫訳、強調は引用者)
2 この指摘は私たちが日本における反知性主義について考察する場合でも、つねに念頭に置いておかなければならないものである。反知性主義を駆動しているのは、単なるbタイダや無知ではなく、ほとんどの場合「ひたむきな知的情熱」だからである。
3 この言葉はロラン・バルトが「無知」について述べた卓見を思い出させる。バルトによれば、無知とは知識の欠如ではなく、知識に飽和されているせいで未知のものを受け容れることができなくなった状態を言う。実感として、よくわかる。「自分はそれについてはよく知らない」と涼しく認める人は「自説に固執する」ということがない。他人の言うことをとりあえず黙って聴く。聴いて「得心がいったか」「腑に落ちたか」「気持ちが片づいたか」どうかを自分の内側をみつめて判断する。ア〈 そのような身体反応を以てさしあたり理非の判断に代えることができる人 〉を私は「知性的な人」だとみなすことにしている。その人においては知性が活発に機能しているように私には思われる。そのような人たちは単に新たな知識や情報を加算しているのではなく、自分の知的な枠組みそのものをそのつど作り替えているからである。知性とはそういう知の自己刷新のことを言うのだろうと私は思っている。個人的な定義だが、しばらくこの仮説に基づいて話を進めたい。
1 反知性主義とは
思想に敵対する人の創作
↑ ではなく
↓
思想にとり憑かれている人
↓
知識人(思想を持つ) … 誰もが反知性主義に陥る危険性
ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』より引用
2 ホーフスタッター → 日本にもあてはまる
反知性主義を駆動するものは
怠惰・無知
↑ ではなく
↓
「ひたむきな知的情熱」 ※「 」がついていることに注意
3 無知とは
知識の欠如
↑ ではなく
↓
知識の飽和 → 未知を受け容れられない状態(byロラン・バルト)
「自分はそれについてはよく知らない」と涼しく認める人
↓
他人の言うことをとりあえず黙って聴く
↓
《 「得心がいったか」「腑に落ちたか」「気持ちが片づいたか」どうかを自分の内側をみつめて 》《 判断する 》。
∥
ア《 そのような身体反応を以て 》さしあたり《 理非の判断に代える 》ことができる人
∥
「知性的な人」
∥
知性が活発に機能している
∥
(新たな知識や情報を加算しているのではなく)
自分の知的な枠組みそのものをそのつど作り替えている
∥
知の自己刷新
∥
知性
(一)「そのような身体反応を以てさしあたり理非の判断に代えることができる人」(傍線部ア)とはどういう人のことか、説明せよ。
どのような人を「知性的な人」と筆者は考えているのかをまとめる問題。
いろんなことを知っている人、その豊かな見識ゆえに頭がよさそうに見える人を、私達は知性的と見なしがちだ。
しかし、筆者はちがった見方を提示する。すでにたくさん「持っている」人手はなく、いくらでも「受け入れられる」人が知性ある人だと述べる。
一般的な知識人は、自分がすでに持っているたくさんの知識情報にもとづいて、理非の判断を行う。
筆者の言う「知性的な人」は、未知のことがらを虚心坦懐に受け入れて、身体がどう反応するかを大切にするという。
結果として、自分の知の枠組みをそのつど作り替えることになる。
「知」とは、たんに多くの知識。情報を頭に詰め込むことではないよ、という大学の先生のメッセージがまっすぐに伝わっている文章である。
同時に、内田樹先生が主張する「身体知」の有効性も感じられる。
「近代的知」に対するアンチテーゼとしてのそれだ。
そういう意味で、「近代的価値観の見直し」という、現代評論の王道としてのテーマもふまえられている。
(一)解答例
未知の知識や情報を虚心に受け入れ、身体的に納得するかどうかでその理非を判断し、絶えず自分の知の枠組みを作り替えることができる人。