水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

町田くんの世界

2016年04月07日 | おすすめの本・CD

 

 『町田くんの世界』は、心がざわついたときには繙いて、ああこんな風に生きよう、こんな男子になれればいいなと落ち着くことができる。『俺物語』と同じくらい素敵な作品だ。
 物静かで、メガネで、しゅっとした顔立ちで(おれじゃなくて、町田くんね)、勉強できそうに見えるけどそうでもなく、運動は見た目通り苦手で、器用ではない。
 自分にとりえはない、得意なこともないし、もてもしないし、イケメンでもないと、本人は思っている。
 でも、実はみんなから慕われているのは、町田くんがみんなのことを実によく見ているからだ。
 クラスメイトのこと、先生のこと、家族のこと。街中でも、見知らぬ人がちょっと困っている様子を瞬間的に察知し適切な対処をする。
 いつも花に水やりありがとう、髪型かえましたね、少しやせた? レギュラーになれてよかったな … 。
 3巻だったかな、六人目の弟が生まれる寸前、身重の母親を気遣って慢性的に睡眠不足だった数日間の冴え渡り具合いなどはすごかった。
 こんな主人公って今までいただろうか。
 『俺物語』にも共通するが、声になっていない思いがセリフの吹き出しとは別の四角い枠で表される。
 猛男のそれは「好きだ」ばかり目立って、その純粋性が心をうつ。町田くんのは枠自体が多彩で、思いのレベルにもいろいろな次元があることが示されているのだろうか。
 この技によって、映画とも、小説ともちがう形で、様々なサブテキストが露骨に明らかにされる。
 サブテキスト、つまり語られていない意味を知るには、行間を読む、映像の意味も見抜くといった、相応の経験が必要だ。マンガはそれが可視化されることで、お話の深みが否が応でもわかる。
 この有効な手段を、才能のある方は見逃さないのだろう。

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知性

2016年04月06日 | 日々のあれこれ

 

 新二年生の希望者を対象にしたミニ講習は、今年の東大の問題を読んでみて、これからどんな勉強をすればいいかイメージしてみようという趣旨で行った。
 国語の第一問は、内田樹先生の「反知性主義者たちの肖像」という評論の一節。
 評論家としては「最も」と言っていいいほど著名な方であり、政治分野についての発言も多いためか、けっこうな反応を目にした。
 「今年の東大二次は○○が出た!」という話題は、通常なら予備校の先生、ごく一部の高校教員ぐらいにしか話題にならない。狭い業界でのトピックにすぎない。でも今年はちがった。
 といっても、ネット上でそれを知ったということだが。


 ~ ところが、このすぐ後に、突然「知性は『集合的叡智』として働くのでなければ何の意味もない。単独で存在し得るようなものを私は知性とは呼ばない」という驚くべきドグマが、突然、何の脈略もなく展開される。あたかも「イデオロギーの無謬性」を講義する教室に突然迷い込んでしまったかの様だ。 …  少しでも知性のある読み手なら当惑するばかりだろう。(松本徹三) ~


 そうかな。そんなに「当惑」しなかったけどな。あ、おれ知性足りないんだ … 。がーん。
 ま、いいか。知性はないけど、生徒さんが東大の問題を解けるように導くことはできる。 
 それでおまんま食えるのだから、十分だ。


 ~ 東大入試の現国の問題が話題になっているが、松本さんも指摘するように問題文も設問も意味不明だ。こんな悪文を出題した文学部(たぶん国文科)の教師は、「戦争法反対」のデモに参加しているのだろう。(池田信夫) ~


 若い人がよく「意味わかんねーし」とか使う。その用法と似たものを感じる。
 未知の情報に接したとき、その意味を考えたけど理解できなかったというより、最初から理解しようとしていない姿勢だ。
 情報の発信者によって区別するようだ。ダチの言うことは聞く、先輩の言うことは聞くけど、先コーの言うことなど聞く気はない的なありかた。内田の言うことなど聞くか、と。
 そういう姿勢でものごとに接する人を、学はあっても地位はあっても、「知性に欠ける人」とよび、納得されることは多いと思う。

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文武両道

2016年04月05日 | 教育に関すること

 

 4月5日。
 一年生の平常授業が始まったので、部活は午後集合となる。希望者だけだが、上級生の短期講習もあり、午前中は勉強、午後は部活という自分的には健全な時間配分で暮らせるようになった。文武両道的な。年中これぐらいがほんとうはいいな。そのかわり長期休業はいらないから。

 先日朝日新聞のオピニオン欄だったか、野球選手の賭博問題は、スポーツだけに比重をかけてきた人生のありようが原因だ、たとえば一定量の勉強といった他の経験も必要だという論説が載っていた。
 寸暇を惜しんで自分の選んだスポーツだけに取り組む姿勢は崇高には見えるが、価値観がそれだけになってしまう危険性もある。
 もちろん本当にすぐれた選手は、そんなことはないけど。本を読んでいることが言葉の端々から感じられる選手もいるし、ものすごく科学的にいろんなことに取り組んで総合力としての自分を高めていることが感じられる選手もいる。
 そういう方々は、結果として「世間知らず」にはなりにくいのだろう。

 自分的には、「受験勉強的勉強」でも経験としては十分だと思う。
 徹底的に運動に打ち込むのも大事だが、同時に模試ぐらい受ける程度には勉強した方がいい。
 受験勉強なんて、知識の詰め込みにすぎない、本当の学力はつかないと批判する人も多いけれど、たぶんちゃんと勉強してない人なんだろうと思う。
 忘れただけなのかもしれないし、勉強のやり方を習わなかったのかもしらない。
 文科大臣も前に同じようなことを話されていた記憶があるが、詰め込みだけで大学に入り、学問にふれることなく卒業されてしまった方なのかと思うと、少しかわいそうな気もする。
 最難関の大学を出られてさえ、そういう方もいる。
 勉強だけの人生を送ってきた人、偏っているという点では、一部のスポーツ選手と変わらない。

 長年都会に暮らしてきて驚くのは(ウソついた。都会にわりと近いところに暮らしてきて、だった)、小さい頃からものすごい勉強量をこなしている方々の存在だ。
 小学生のうちから毎日塾に通い、私立の中高一貫校に進み、さらに優秀な子だけが入れる塾に通う。
 その結果として余裕に東大に入れるという成果を手に入れることになるそうだが、あまりにコスパ悪くないだろうか。大学に入る前の段階で、すでに何百万円ですまないぐらいの投資になってしまっている。
 公立の小・中学校から、わが川越東高校にすすみ、塾にも行かずに東大に入れれば(もちろん限られた生徒さんではあったけど)、コスパの面で圧倒的にお得だ。特待生ならなおさら。
 東大の理三や慶應の医学部に進むというのであれば、それだけの投資も生きるかもしれない。でもそこまで頭の良い子たちは、別に塾で教わることはないのだ。

 中高一貫プラス塾づけの生活は、部活も学校行事もそんなにはやってないのだろうと思うと、コスパ以前に、人としての成長で足りない部分が生まれてもおかしくないということになる。ていうか、国家の中枢にいる方の様子をみると、実際にそう感じざるを得ない時があるから。
  そういう意味で、勉強しかやらずにいい大学をでてお役人になるのと、運動しかやらずにプロの世界にはいった人とは、文武のどちらかに偏りすぎているという共通点を有する。
 偏りすぎていると、成績以外、もしくは試合の結果以外に、計量的に形にならないものの価値に気づきにくくなる。若くしてお金儲けをばりばり成功させている人にも、同じことを感じるときがある。
 ただ、何せ数字に表せないことなので、言っても負け惜しみでしょと、とられることが残念だ。

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すがすがしい

2016年04月04日 | 日々のあれこれ

 

 4月4日。グランドピアノをおいてもらったうえに、小講堂の床も新しくしてもらった。その工事の関係でまだ練習はできない。午前中は教室で個人練習。一年生のオリエンテーションが終わった後、大講堂で合奏。
 日本一音の響かない大講堂のステージは、ちゃんと吹けてない箇所を明らかにして詰めていくための合奏をするには実にいい空間だ。定演はいきおいでのりきってしまったマーチを細かく合奏した。なのでちゃんとやれたのは8小節だったけど、これを積み上げていかねば。
 ほんというと自由曲など、何でもいい。何でもは言いすぎだが、課題曲がちゃんとできないことには話にならない。というか聞いてもらえない。自由曲で点数をもらおうと考えるのは、センターで点数をとれない子が、東大は二次の配点が高いからそこで逆転狙えおう言ってるようなものだ。
 とにかく課題曲。つまり根本的な技量を上げることが最優先で、それ自体がどこまでいけるかが問われている。
 夕方からは新人歓迎会と称する学校全体の宴会。会場の氷川会館まわりは桜がまさに見頃だった。
 のんびり花見でもできればいいのかもしれないと思うものの、そんなヒマないと思えるくらいにやることがあるのは幸せなことだ。花見は何年か後にとっておけばいい。むしろ突っ走ろう。足折らない程度に。
 宴会後すぐに楽器屋さんにクラリネットを預けに行き、いったん学校にもどってみると、他にももどって予習をしている人がいた。
 「新任の先生って、純粋に希望をもってるよね、すがすがしいね」と若い先生たちが先輩面で語り合っているので、「それに比べ君たちはよごれてしまっているんだよ!」ときちっとつっこんでおいた。おれくらいになると、一周まわってすがすがしくなるのさ。その後エレキギターのレッスンを受けて、まあまあ充実の一日だった。

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「民主的」

2016年04月03日 | 日々のあれこれ

 

 4月3日。
 練習とミーティング。コンクールの自由曲をどうしたいか、意見を聞きたいと思って。
 例年以上に部員の意見を聞こうというマインドで今年いるのは、自信がないからだ。部員たちにもそう語ったが。
 自分で指揮台に立つようになって4年目にB部門で西関東に行き、部員が増えてAにかわってからもすぐ県大には進めた。でもここ数年は、銅賞が定位置になってしまっている。
 昔と比べて演奏の質が大きく劣化しているとは思えないが、もちろん上手になっているとも思えず、つまり変わっていないこと自体が、結果がついてこない一番の原因とも思える。
 ポップスやお芝居は上手になってきたと思うのが、コンクールだけは … 。
 いっそ、多数決でもいいから生徒達に曲を決めてもらい、指揮だけはさせてもらおうかななどと考えてしまうのは、しかし「逃げ」の姿勢であることは間違いない。
 自分のマインドがあまりに後ろ向きであったことが、みんなの意見を聞いているうち、だんだんわかってきた。
 みんなが求めているのは、おそらく民主的な顧問ではない。かりに自分たちの意見をいっこも聞いてもらえないとしても、適切に導いてもらえるなら文句なく従いたいというのが本音なのではないか。ちがうかな。
 ちがっててもいいや。そう思うことにしよう。
 練習方法にしても、曲選びにしても、メンバーそれぞれが納得していないと上手にならないというのは、一面では真実だ。同時に、全員が同じように納得できる部活の運営形態というのは存在しない。
 そういう部活があるとしたら、むしろ不健全な姿とも言える。
 部員同士、部員と顧問、それぞれが納得できないこともかかえ、我慢するのではなく、それをぶつけあいながら一歩高いレベルで解決していくことでしか、組織のポテンシャルは上昇しない。だから、もう少し自分を出す度合いを高めさせてもらってもいいかなと急に思ってきた。

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入学式

2016年04月02日 | 日々のあれこれ

 

 4月2日。入学式。
 生徒会長のあいさつを聞きながら、つまりは言い方なんだなと、思う。
 彼ってこういう声だったっけ? 新入生からすれば、いかにも先輩的な大人びている声というより、むしろ純粋な少年的な話しぶりに聞こえたのではないか。
 話している中身も、困ったことがあったら何でも僕たちに言ってください、力になりますという、ありきたりといえばありきたりの話だ。
 なのに、どんどん胸にせまってきたのは、彼が心からそう伝えようとしていると感じたからだ。
 新入生たちはどう感じただろう。一人一人名前を呼ばれたときの返事を聞く限り、川東第一志望じゃなかった感をばりばり発している子もいた。
 でもね、会長さんみたいな先輩がたくさんいるから。
 第一志望で入学したのに、なんか最初からすこし斜に構えていた数十年前の自分を思い出しながら、一歩踏み出して素直にいろいろやってみるといいよと言ってあげたくなる。あと、この学校は女子が身近にいないのが実にいい点だと思うのだ、詳細を記すと数々の暗い過去が露呈するので書かないけど。
 入学式のあと歓迎演奏会。二度目の公演になるサームさんは、実ののびのびと歌い、語ってくれた。

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新年度

2016年04月01日 | 日々のあれこれ

 

  新年度が始まった。
 職員会議、学年会議、教科会議など、各種打ち合わせと、明日の入学式の準備。
 恒例の歓迎演奏会は、昨年にひきつづきボーカルグループ「サーム」さんにお願いしてあった。部員みんなを動員して機材を運び込んだあと、リハーサル。一年ぶりに耳にするハーモニーは絶好調とはいえなかったが、本番はきちっとまとめてくれるだろうと予想できる安定感がある。ハモりの納得できないところを何度もやり直すシーンがあったが、プロでさえこうするのだから、素人が徹底して練習しないといけないのはあたりまえだ。
 むしろやるべきことを本当にちゃんとやれる人がプロになれると考えるべきなのだろう。才能にあふれていても、地道な努力ができない体質であったために、その道を断念する例は、おそらく枚挙に暇がないはずだ。
 誰もが羨むような才能をもっている … とは言えなくても、それを専一に磨いたがゆえにひとかどの存在になれる例もある。
 
 ~ おれよりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。(中島敦「山月記」)~

 もちろん、才能そのものは圧倒的に必要だけどね。
 本校にしては珍しく、様々なポストや学年団に入れ替わりがあった。けっこう(けっこうは失礼かな)要職について、テンぱり気味の同僚を、きちっといじってあげるのは自分役目なので、ほどよく対応してあげたり、立ててあげたり、なんか新年度迎えておれっていい人になってない? と思う。
 授業が始まるとそんな余裕もなくなってしまうかもしれないが。
 何はともあれ新年度がはじまった騒々しさは、一種お祭りに近い部分もあり、そのほどよい喧噪のなかに身を置ける幸せを噛みしめながら、言うべきことは臆せず言い、やりたくないことはそんなに無理しないように働いていこうと、けっこう前向きに過ごしている。

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