水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

「ノリが悪い人」

2020年06月13日 | 学年だよりなど
  3学年だより「ノリが悪い人」

 年を取ると、なかなか「バカ」ができなくなる。
 たとえば部活動。まもなく入部してくるフレッシュな新入部員たちは、「おっさん」を見る目でみなさんに接してくるだろう。
 自然とそれなりに紳士的にふるまうことになるのではないだろうか。
 しかし大学に入るとまた、その場における一番若いキャラで生きることになる。
 求められるキャラは、組織や集団において異なる。
 その空気を感じることは大切ではあっても、それだけにとらわれると、自分が何ものなのかわからなくなる。
他人からどう思われてもいい、自分のやりたいことに集中しようと思い、行動にうつしたときに、「おまえノリが悪いな」と言われるかもしれない。
 もし言われたなら、もしくはそのように扱われたら、成長しはじめたということだ。


~ 私たちは、基本的に、周りのノリに合わせて生きている。会社や学校のノリ、地元の友人のノリ、家族のノリ……そうした「環境」のノリにチューニングし、そこで「浮かない」ようにしている。日本社会は「同調圧力」が強いとよく言われますね。「みんなと同じようにしなさい」――それは、つまり「ノリが悪いこと」の排除です。「出る杭は打たれる」のです。
 しかし、勉強は、深くやるならば、これまでのノリから外れる方向へ行くことになる。
 ただの勉強ではありません。深い勉強なんです。 … 私たちは、同調圧力によって、できることの範囲を狭められていた。不自由だった。その限界を破って、人生の新しい「可能性」を開くために、深く勉強するのです。 (千葉雅也『勉強の哲学』文春文庫) ~


 勉強しはじめると、「ノリが悪い人」になる。
 そうなると、自分と同じようにノリの悪い人がそこここにいることに、気づく。
 そういう人に対する見方は変わるだろう。
 周りのノリに合わせて生きていた方が、楽は楽なのだ。
 今の自分を変えたくなければ、そのままでいい。
 みなさんがどんな人生を選ぶかについては、誰も強制できない。
 何らかの可能性を見出したいならば、今までのノリからは脱する必要がある。
 より自由に生きる人生を手に入れるための条件だと言えるだろう。
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しゃぼん玉

2020年06月12日 | 演奏会・映画など
 映画「しゃぼん玉」は、ひったくりの常習犯が、追っ手から逃れてたどり着いた田舎町で、交通事故で怪我をしたおばあちゃんを助け、そのまま成り行きでおばあちゃんの家に住み着き、田舎の人たちの人情にふれて暮らしているうちに、心をいれかえていくという、「ありきたり」と言おうと思えば言えるストーリーだ。
 どんな作品でもざつにまとめれば「ありきたり」にはなるのだが。
 ひったくり常習犯のクズな若者を林遣都、おばあちゃんを市原悦子。
 この二人のたぐいまれなお芝居力と、抑制された演出とで、きわめて良質な、かといって道徳のおしつけにもならず、エンタメとして楽しめるいい映画だった。うん、こういうのを「いい」って言うんじゃないかな。
 林遣都くんと、あとは田舎のじっちゃん、ばっちゃんばかりのシーンが続き、少し物足りない思いをしてたら途中から別ぴんさんが登場する。
 村を出て都会でお勤めしていたがなかなかなじめず、ある日ひったくりにまであって怪我をし、傷心を抱えて村にもどってきたという設定だ。
 だれだっけ、絶対みたことあるのに名前が出てこない。
 だれだっけ、昔はもう少し若かった(あたりまえだけど)。
 遣都くんとこの女子とが、好意を寄せあっていくようには描かれるのだが、安易にできちゃったりしないところが、またいい。
 エンドロールで名前をみて合点がいった。
 藤井美菜さんだ。「女子ーズ」だ。もとはモデルさんかな。
 しかし、「女子ーズ」という確信犯的「B級」映画のキャストってなんだったんだろう。
 桐谷美玲、高畑充希、山本美月、有村架純に、藤井美菜さん。
 同じメンバーで、続編つくってもらえないかな。
 もしくは「二代目女子ーズ」観たい。松本穂香さん、恒松祐里さん、森七菜さんとかで。
 
 見逃した作品をこうして映画館で観られるのはコロナの「おかげ」だ。
 再開された映画館は、前後左右に人がいないように席が売られている。
 とはいえ、この日のTOHOシネマ富士見は、お客が3人だったから、必然的に密にはならないのだけど。
 ららぽーとの映画館は、たまに混んでいる時があったけど、南古谷ウニクスならもともと何の規制もいらない。
 お芝居や音楽会もやり方を模索しながら再開されている。
 売れたチケットを一度払い戻しし、半分の座席分を再度売りに出す劇団もあるときいた。
 これから、ずっとかな。
 だとしたら、演劇もダンスも音楽も、ビジネスモデルとしては構築し直さないといけない状況ではないか。
 今後うちが参加できる演奏会や定期演奏会も、空席をあけないといけないのだろうか。
 一度形ができてしまうと、科学的根拠など関係なくそれを維持しようとしてしまう体質を私たちは持っている。
 でも音楽会やお芝居は、ぎゅうぎゅうずめの客席で観たい。
 ステージ上のプレーヤーもダンサーさんも役者さんも、絶対その方がやりやすいはずだ。
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本当の学力(2)

2020年06月11日 | 日々のあれこれ
 分散登校が始まって2週目。
 1クール目で午後に登校してた生徒さんが、今日からは午前中に登校する。
 3コマ授業を受けて、部活もないからお昼をとらずに帰宅するのだが、これはこれで生活パターンとしてうらやましいくらいに自由で、時間がある。
 教員は当然午前、午後と2セット働くし、授業時間を短くしてる分だけ、補充プリントもつくったりするから、忙しいといえなくもない。
 午前勉強、午後フリーっていいな。

 高校3年の共通一次テスト後におとずれた、遊べはしないけど、ゆとりをもって勉強できた時期を思い出す。
 とれた点数で受かりそうなとこを受験することにしてたから、結果的に二次の比率が低い金沢大学教育学部を選んだ。
 一月後半からは、午前は学校で先生方が趣味的に実施されていた冬期講習に参加する。
 午後、音楽室が空いてたらピアノを借りてバイエル74番を少し弾く。県立図書館によって本を読んだり、一応国語の勉強をする。
 古典文法さえ覚えていなかったので、小西甚一先生の『古文研究法』を読むのが、たぶん唯一の二次対策だった。
 あとはたぶん読書だった。勉強しなくても現代文はできたから(やーらしー!)。
 小学校教員養成課程は、二次に英語がなかったから、共通一次終了とともに、ちゃんとした英語の勉強は終わってしまった。

 それから幾星霜かを経て、さすがにまずいと思い、勉強したくなってはいるが、根本的に単語が入ってこない。
 共通テストで75%とることを、高校の卒業条件にすればいい。
 グローバル社会とか、使える英語力とかのお題目で、民間の英語検定を大学入試に入れようとして失敗したが、そんなことする前に、まず全員が75%以上とれるようにした方がいい。
 75%なんて、ほんとの進学校の先生からみたら笑われそうな点数だろうが、全国の全高校生を対象として考えたら、なかなか大変だ。
 その目標を達成するために、他教科のわれわれも協力してみんなでがんばろうってなったら、日本の国際的地位は確実にあがると予想するのだが、どうだろう。
 大体、話す力をつけたいから「話す試験」をするなんていう短絡的な思考のもとに改革が行われていたこと自体が悲しい。
 共通テストの英語で75%ない子が大学に行って、その大学が掲げる教育理念を具現化するのは難しい。

 延期したらという声もあった「共通テスト」は予定通り実施されることになった。
 それでいいと思う。試験範囲が終わらないから、などという心配は無用。
 2年までで終わってるから。そんな感じで気を遣われるより、時間を有効に使わせてあげたい。
 高校でやりたりないことがあれば、その分大学でおもいきりやればいい。
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「友だち」

2020年06月10日 | 学年だよりなど
  3学年だより「友だち」


 「好きなことをして生きていける人生」を手に入れるための二つ目。


~ 20代以降は友だちは不要です。
 少なくとも好きなことで成功したければ捨ててください。
 10代までに親友がいない人は今回の人生では友だちはできなかったと思って諦めてください。
 ここだけの話、20代以降で寂しくなって誰でもいいから友だちを作ろうとすると、成功できません。膨大な時間を奪われるし、彼ら偽物の友だちはあなたが成功してから100%の確率で邪魔をしてきます。
 偽物の友だちだけではなく、親や兄弟姉妹、親戚縁者なども要注意です。村社会のメンバーというのは成功者に対しては強烈な嫉妬心を燃やし、あの手この手で邪魔をするためだけにこの世に生まれ、生きているのであり、それが使命なのです。
 人はそういうものであると人生の早い段階で悟ることです。
 本気で好きなことで成功したければ孤独を恐れるべきではありません。
 あなたが孤独に耐えられなくて20代以降に作ってしまった、甘酒の如くねちっこい、偽物の人間関係が諸悪の根源です。(千田琢哉「次代創造館」2020年6月5日号)~


 逆に考えると、今のみなさんにとって「友だち」と言える存在がいるなら、それはすばらしいことだ。10代のうちに利害関係と無縁の友だちを得ることは、自由に生きるための条件だと読み取ることもできる。
 もちろん、ひまつぶしの相手、寂しさをまぎらわせるために、表面だけで親しくするとしたら、それはやはり友だちとは言いがたい。
 遊びにいこうと誘われて、むげに断りにくかったり、ノリが悪いと言われることをおそれたりするのは、もうやめていい。
 怪我をすると、怪我をした人を見かけることがなぜか多くなる。 
 奥さんが妊娠すると、街でやたら妊婦さんと出会うようになる。
 ゲームをしていると、電車の中の人がみんなゲームをしているように見える。
 勉強をはじめてみると、学校でも街中でも、こんなに勉強している人がたくさんいるのかと気づく。
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本当の学力

2020年06月09日 | 教育に関すること
 朝日新聞の投稿欄で、「元中学教員」という方のご意見を読んだ。
 学校の現状の大変さを憂え、われわれ現場の教員にエールを送ってくださるようにも読めた。
 こんな時期だからこそ「総合的な学習の時間」を活用すべきだというお考えには首をかしげた。


~ コロナ禍の今こそ、自分で考え、表現する本物の学力を育成できる機会と考えます。
 現場はコロナ対策や休校による学習の遅れを取り戻すことが先で、それどころではないと言われそうですが、次世代を担う子どもたちのために、生きた学習ができるように期待します。~


 こう書かれるということは、今の学校には「本物の学力」「生きた学習」が足りてないとお考えなのだろう。
 掲載した朝日新聞も同じように考え、おそらく多くの読者も頷かれていたのではないか。
 「本物の学力」「生きた学習」ってなんだろう。
 思えば、「新共通テスト」が生まれる背景に、同じ思想があった。
 現在のセンター試験は、本当の学力を測るものさしにはなっていない。
 だから、高校の現場でも「本当の学力」を育んでいないのだと。
 「本当の学力を育む」「真の人間を育てる」「生きた学びのなんとかする教室」みたいな美しくも大仰なスローガンは、何も生み出さない。実際、何も生み出してこなかったものね。いろんな教育研究会があったけど。

 話を国語にしぼってみよう。
 「本当の国語力」とは何か。
 国語教員のはしくれとして、最低限の勉強は積んできた。
 本を読み、学ぶべき先生がいらっしゃる会に出かけ、そうそうたる研究者の方々や予備校の先生とお話する機会もいただいた。
 「本当の国語力」などというあいまいな日本語を使う方は、そんなにいらっしゃらなかった。
 「本当」なのかどうかはわからないが、センター試験の問題は、国語力を図るものさしとしては有効だ。
 たいして指導もしないままに書かせた「感性豊かな」作文よりは、はるかに正確に、国語力を表す。
 漢字の知識、言葉の意味、指示語が何を指すのかを指摘できる、空欄を補う言葉を文脈から想定できる、傍線部と同じ内容が別の表現でどう書かれているかを見つける……。
 試験という形式で試されるこのような技術を、国語力とよばずして何というのだろう。
 そっか、センターじゃなくていいや。高校の入試問題や北辰テストでいい。
 もっといいのがあった、開成中や麻布中の入試ほど国語力を測れるテストはなかなかない。
 ほんとのこと言うと、もっとてっとりばやいのがある。
 自分が行う漢字テストの三年間分の足して並び替えてみると、一番だった子が東大に入り、そのあと見事に難しい大学順に並ぶ。
 見せられないけど、見事なものだ。漢字テストの質もいいのだが。
 センターまた共通テストで75%とれたら基礎ができてるという目安は、ものすごくわかりやすい。
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大きな石

2020年06月07日 | 学年だよりなど
  3学年だより「大きな石」


 好きなことをして生きていける人生を手に入れられるなら、それにこしたことはない。
 それを実現するために必要な条件は二つあると、作家の千田拓哉氏は述べる。それらは、10代のうち、遅くても20代前半でやっておくべきだという。一つ目は「基礎力」だ。


~ 頭脳で生きる場合にも、芸術で生きる場合にも、スポーツで生きる場合にも、それぞれのコースで初歩と基礎が求められます。
 たとえば頭脳で生きる場合の初歩とは公立高校入試問題の主要5教科トータルで下限8割以上が得点できる学力です。
 基礎学力とは今年まで実施されていた大学入試センター試験の主要5教科7科目~8科目でトータル下限7割5分以上が得点できる学力です。
 40代や50代までそれらを維持する必要はありません。
 10代~20代前半でそれらに到達しないと意味がありません。
 人生の前半で以上の初歩と基礎を盤石にした経験が一度でもあれば頭脳で生きていくことが可能です。
 若くて生命力が漲っているうちにピークを高くしたことがあるか否か、これがその人の頭脳の将来を100%決めます。
 あなたの頭脳をバケツとして考えるとわかりやすいです。
 最初に大きな石をできるだけたくさん詰め込んでおけば、それ以降は砂利や細かい砂をいくらでも隙間に流し込めます。
 反対に最初に大きな石をがっつり入れておかなければ、それ以降は砂利や砂しか入れることができません。大きくてしっかりとした石を詰め込むには「旬」があるのです。 (千田琢哉「次代創造館」2020年6月5日号) ~


 物事の基礎・基本は、脳に詰め込む「大きな石」だ。
 勉強以外に様々なことにもあてはまるのではないか。
 何かを身につけようとしたときには、基本をしっかりさらっていく。
 もちろん、この段階では、自分の意志で「がんばって」、ときには「強制されて」でもやっていく必要はある。
 大きな石がため込まれると、砂利や砂は、むしろ向こうから勝手に入ってきてくれる。
 たとえば英語でも、自然科学分野でも、政治や経済の知識でも、音楽や絵画や映画や鉄道やアイドルでも、相当量のインプットの後には、知識の方からかってに流れ込んでくる状態になる。
 クイズの東大王たちが、ちょっと小耳にはさんだ知識をとどめておけるのは、脳内にその「受け石」があるからなのだろう。
 個人的には、30代、40代でも「大きな石」を入れていくことは可能だと感じているが、今それをやれるみなさんが、うらやましくてしょうがない。
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『水を縫う』(2)

2020年06月06日 | おすすめの本・CD
~「あんまり気にせんほうがええよ。山田くんたちのことは」
「山田って誰?」
 僕の手つきを真似て笑っていたのが山田某らしい。
「私らと同じ中学やったで」
「覚えてない」
 個性は大事、というようなことを人はよく言うが、学校以上に「個性を尊重すること、伸ばすこと」に向いていない場所は、たぶんない。柴犬の群れに交じったナポリタン・マスティフ。あるいはポメラニアン。集団の中でもてはやされる個性なんて、せいぜいその程度のものだ。犬の集団にアヒルが入ってきたら、あつかいに困る。
 アヒルはアヒルの群れに交じれば見分けがつかなくなる。その程度のめずらしさであっても、学校ではもてあまされる。浮く。くすくす笑いながら仕草を真似される。
「だいじょうぶ。慣れてるし」
 けど、お気遣いありがとう。そう言って隣を見たら、くるみはいなかった。数メートル後方でしゃがんでいる。灰色の石をつまみあげて、しげしげと観察しはじめた。
「なにしてんの?」
「うん、石」 ~


 石を集めるのが趣味だというくるみも、清澄と同じくらい「普通」ではない。
 でも普通って何?
 男子の趣味として、刺繍が普通外なら、たとえばお菓子作りは? 実際にけっこういる。
 女子の趣味として、石集めが普通外なら、たとえば機械いじりは? 実際にけっこういる。
 誰がみても男の子らしい、女の子らしいふるまいであっても、のめり込み方は相当に人それぞれだ。
 普通とはずれてるかもしれないと意識しながら、だからといってムリに周りにあわせることもしない。
 言わなくてもいいのに、クラスの最初の自己紹介で「趣味は刺繍」と言ってしまう。


~ ポケットの中でスマートフォンが鳴って、宮多からのメッセージが表示された。
「昼、なんか怒ってた? もしや俺あかんこと言うた?」
 違う。声に出して言いそうになる。宮多はなにも悪いことをしていない。ただ僕があの時、気づいてしまっただけだ。自分が楽しいふりをしていることに。
 いつも、ひとりだった。
 教科書を忘れた時に気軽に借りる相手がいないのは、心もとない。ひとりでぽつんと弁当を食べるのは、わびしい。でもさびしさをごまかすために、自分の好きなことを好きではないふりをするのは、好きではないことを好きなふりをするのは、もつともっとさびしい。
 好きなものを追い求めることは、楽しいと同時にとても苦しい。その苦しさに耐える覚悟が、僕にはあるのか。
 文字を入力する指がひどく震える。
「ちゃうねん。ほんまに本読みたかっただけ。刺繍の本」
 ポケットからハンカチを取り出した。祖母に褒められた猫の刺繍を撮影して送った。すぐに既読の通知がつく。
「こうやって刺繍するのが趣味で、ゲームとかほんまはぜんぜん興味なくて、自分の席に戻りたかった。ごめん」
 ポケットにスマートフォンをつっこんだ。数歩歩いたところで、またスマートフォンが鳴った。
「え、めっちゃうまいやん。松岡くんすごいな」
 そのメッセージを、何度も繰り返し読んだ。
 わかってもらえるわけがない。どうして勝手にそう思いこんでいたのだろう。
 今まで出会ってきた人間が、みんなそうだったから。だとしても、宮多は彼らではないのに。
 いつのまにか、また靴紐がほどけていた。しゃがんだ瞬間、川で魚がぱしゃんと跳ねた。波紋が幾重にも広がる。太陽の光を受けた川の水面が風で波打つ。まぶしさに目の奥が痛くなって、じんわりと涙が滲む。 (寺地はるな『水を縫う』) ~


 おれは普通とちがう、と思い悩まなければならないほど、周りは見ていない。
 万が一いじめられるようなことがあるなら、すぐに誰かに相談すればいい。
 そこまではいってないけど、少し落ち着きたいときには、こんな本を読めばいい。
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マスク

2020年06月05日 | 日々のあれこれ
 ずいぶん出回るようになったとはいえ、マスクは「こんなん、なんぼあってもいいですからね」。
 古い卒業生が、在校生へとマスクを寄贈してくれた。
 
 ~ 卒業生の○○と申します。○○という会社を営んでおります。……私の卒業後、ちょうど30年がたちましたが、水持先生、○○先生にはまだご活躍とのこと(落ち着いて読むと、日本語のつめ甘いかな)、大変に嬉しく思います。お恥ずかしい話、現役当時はご迷惑ばかりをおかけした記憶しかございませんが(迷惑ばかりではないけど覚えてるよ)、今では貴校の卒業生であることを誇りに思っております。これからも、この未曾有の事態を乗り越える力を育む教育に、心から期待をしております。 ~

 30年経ってても、なまえを聞くとすぐに面影が浮かぶ生徒さんだった。
 当時は、今の川東とはずいぶん雰囲気のちがう学校だったなあと思い出す。

 先週、休校あけの準備登校の日は、学年別にまず体育館に集合した。
 バスケットコート1面に2クラスずつ、十分距離を取りながら、12クラスが集合できる大きさは、こんな時期に威力を発揮する。
 みんなが登校しきるまで、大騒ぎすることもなく、単語帳などを取り出して待機している姿をみながら、「高校生だった自分の何倍も優秀ですね」「まちがいないですよ」同僚の先生とひそひそ話していた。
 4期生の時代なら、こんなわけにはいかなかったな。
 三十年前もいまも、一教員で中身も成長しない自分と比べ、教え子が立派になっていくことを心から喜べるのだから、先生になってよかったのだ。
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練習する

2020年06月04日 | 学年だよりなど
  3学年だより「練習する」


 「正解」を知ったなら、次は「練習」だ。
 運動で言えば、理屈を知り、分解して理解し、映像でイメージし、実際に同じ動作をまねてみて、無意識にできるまでひたすら繰り返すといった作業だ。
 勉強なら、知識・解法を知り、目や耳も使いながらインプットし、自力で解けるようになるまで繰り返していく作業が「練習」にあたる。


~ まずはテキストを通読して、自分がまだ「覚えていないこと」をぐっと絞り込みます。そのうえで新しい情報を記憶する際には、まず黙読しながらテキストの内容を頭に定着させます。
 次に、テキストを声に出して読みます。意外と知られていませんが、自分が出した声を聴きながら耳で覚えるのが、生理学的にも最も効果的な記憶法なのです。
 英語でも、ヒアリング用の音源を繰り返し聴くことで、フレーズを体得できます。すべての暗記科目に当てはまることですが、耳で覚えるという優れた機能をスイッチオンするには、既製の音源を聴かなくても、自分で音読して自分に聴かせればよいのです。
 音読の原理が司法試験でも英単語でも通用するのは、多くの人が証明しています。私自身、音読法を使って大学の第二外国語であるドイツ語を勉強しました。第二外国語ですから、テキスト自体もそれほど長いものではありません。音読を繰り返していると結構耳に残るので、いつの間にか全文を覚えてしまったものです。
 テキストで新しく出た単語には訳語が逐一書いてありましたが、音読しながらその訳を追って行けば、おぼろげながらに新出の単語も記憶に定着されていきます。試験では作文までは要求されずに、独文を和訳するくらいでしたから、何とか対応できたのです。
 そして、3番目に、ペンを持って手書きをします。絶対に覚えたい固有名詞などは、何度でも手書きを繰り返すのです。手と頭脳というのは密接にかかわっているので、手を動かすことで脳の記憶中枢を刺激することになります。 (鎌田浩毅『一生モノの勉強法』ちくま文庫)



 何らかの目的を達成するために必要な動作や頭の働かせ方を、身体全体で繰り返していく作業を「練習」という。運動も勉強もその本質に違いはない。
 身についていない問題だと、解説を読んでわかった気分になっても、いざ一人で解こうとすると、やっぱり解けないという事態がおこる(多々経験はあるはず)。
 どうすればいいか。もう一度やればいい。
 複数回繰り返しても、できる気配がないとしたら、やり方を間違えている可能性がある。
 もう一度「正解を知る」ステップにもどろう。
 つまり、ほんとうにわかっている人に教えてもらおう。
 その後自力で解けるようになっても、期間があくとまた解けなくなっている。
 練習を一ヶ月休んだ後、できていたはずのプレーができなくなっているのと同じだ。
 どうすればいいか。もう一回やればいい。
 人に教えられるかな? ぐらいのレベルまで「練習」してはじめて、身についたと言える。
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『水を縫う』(1)

2020年06月03日 | おすすめの本・CD
 すぐれた文学作品というものは(主語でかくない?)、なんらかの形で人の背中を押してくれる力をもつ。
 ほとんどの場合、押された人の言動が、傍目からはさほど変わったものには見えないが。
 そこが、映画とちがうところか。
 映画だと、見終わった直後に、健さんやロッキーになった人はたくさんいた。
 はっきり形に見えないとはいえ、内部での変化の度合いは、映画を観た後のそれより大きいことも多々ある。

 すぐれた文学作品?
 たとえば何だろう。教科書に載っているような「名作」?
 餓死寸前の下人が老婆をボコって盗人になる話や、友人の好きな女を我が物にして友人を自殺させる話や、異国の地で少女を手込めにして妊娠させ発狂させる話のこと?
 教科書に載っているこれらの名作も、あまりの非道徳性ゆえに、わたしたちの背中を押してくれる。
 こんな自分でも生きていこうかなと感じさせてくれるという意味で。
 文学は、不健全な精神の持ち主たちを、なんとか社会からはみ出さずに生かしてくれようとする。

 社会の一員として迷いなく人生を過ごしている方にとって、文学は「不要不急」以外の何ものでもない。
 一見ふつうに社会生活を送っていけてるようでも、何か喉の小骨がとれないような感じをもっていたり、自分のやっていることにちょっとした違和感があったり、しょっちゅう作り笑いしてる自分に気づいたり、イヤなことはやめよう思いながら決心できない自分を嫌悪してたりする人にとっては、ふと手にした何でもない人の物語が、そっと背中を押してくれたりすることがある。

 寺地はるなさんの小説を読むといつも、そういうことを思う(え? 前置きながない?)。


~「そう。プール。泳ぐの、五十年ぶりぐらいやけどな」
「そうか。……がんばってな」
 清澄はふたたび手元に視線を落とす。ぷつぷつとかすかな音を立てて、糸が布から離れていく。うつむき加減の額にかかる前髪も、皮膚も、まだ新品と言っていい。
 この子にはまだ何十年もの時間がある。男だから、とか、何歳だから、あるいは日本人だから、とか、そういうことをなぎ倒して、きっと生きていける。
「七十四歳になって、新しいことはじめるのは勇気がいるけどね」
 清澄がまっすぐに、わたしを見る。わたしも、清澄を見る。
 でも、というかたちに、清澄の唇が動いた。
「でも、今からはじめたら、八十歳の時には水泳歴六年になるやん。なにもせんかったら、ゼロ年のままやけど」
 やわらかな絹に触れる指が小刻みに震えてしまう。そうね、という声までも震えてしまいそうになって、お腹にぐっと力をこめた。      (寺地はるな『水を縫う』)~
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