白井聡は1977年生まれ、全く戦争とはかかわりのない時代に誕生しているが故に、この本は二次資料を骨格に組み立てられている。それだけに、昭和を生き、悩んだ人たちの言葉がそれぞれに重い。その中にあって、彼自身の『永続敗戦』を語っている。
彼は、憲法改定にあたって、福田恆存の「単独防衛の可能な国は米ソ二国に過ぎず、戦後世界においては戦前のような意味での独立国は存在し得ない。9条の改定は旧来の意味の主権回復にならない。」と引用している。
又、江藤淳の「押し付け憲法を斥けることにより交戦権を回復し、それにより本来の主権国家たることを通して米国と対等の関係に立つ。」を引用する。
―これは案外、多くの人は江藤の考えに共鳴してしまうが、昨今のウクライナ戦争を観れば、福田の言う現実性、事実性に重みがあると私は思う。
また白井は、「戦争は日本の敗北で終わった。「敗戦」を「終戦」と呼び換えるという欺瞞によって、戦後日本のレジームの根本が成り立っている」と。
―私もそのように思うが、確か、小堀桂一郎は1945年9月2日の降伏文書調印を「ポツダム宣言の延長線上ある停戦協定に調印」と云ったのには仰天してしまった。ポツダム宣言の英語原語の意味は『ポツダム降伏宣告』だと思うし、実際に調印した文書はINSTRUMENT OF SURRENDERとなっていた筈だろう。それでも停戦というヒトがいるとは、・・・。(引用先:小堀桂一郎編『東京裁判日本の弁明』講談社学術文庫)
次に白井は、ポツダム宣言受諾に際して指導者層が譲らなかった条件が「国体の護持」だった、という。そして永続敗戦は戦後の国体である。「戦争は負けたのではなく終わったのだ」というレジームの寄与したのは戦後の繁栄である。我々は負けていないと大衆に刷り込み、自らの戦争責任を回避した張本人の後継者の存在がある。このレジームは日本の親米保守勢力と米国の世界戦略によって形作られた。その中核に日米安保体制がある、と言う。
そして白井は、第二次安倍政権は、1993年「従軍慰安婦問題河野談話」1995年「植民地支配と侵略についての村山談話」の見直し、新見解を打ち出したが、米国メディアの厳しい批判を受けた、と紹介し、そして日本の近過去を「日本は敗戦・侵略・植民地支配の対する反省が不十分、或いは、かつて国家を戦争と破滅へと追いやった勢力の後継者たちが、綿々と権力を独占してきた」と捉えた。
―果たして、自民党の2世3世議員たちの一党永続独裁体制は、この国の政治においてどれ程の有利性や実効性があったのだろうか?、と私は問いたい。
太平洋戦争は、五大国の一つという誇りばかりが空回りして、アジアの小国が真珠湾に腹切り攻撃をしたように、その時の愚かな指導者たちの末裔がまたもや同じ穴にはまり込む。
かつてのGDP世界第2位の経済大国がモノづくりに異常な誇りを持ち、カラ国債を刷るだけ刷って、その永続的経済成長という幻想世界に嵌まり込むアホノミクスが、何を隠そう真珠湾攻撃と同じ腹切り行為ではないのか。
ここまでくると、日本の近代化という明治維新そのものがどこか変てこな紛い物になってくる。
そういえば、名前だけだが、丁度維新とかいう党が持て囃されているらしいが、そんなこんなで、今やこの國は何一つ真面で地道なものがない上滑りの嘘で塗り固めた統計上の先進国に成り下がろうとしているのではないだろうか。