グルー米国大使の日記には、―
1941年12月7日
―今日ラジオがルーズヴェルト大統領がメッセイジを送ったと放送した―翌12月8日、午前0時(原文12時)過ぎ東郷外相に会いメッセイジを伝達したー0時半(原文12時半)頃外相官邸を辞去した。ー
1941年12月8日
ー午前7時、グルー大使は「できるだけ早く来てくれ」と東郷外相の電話で起こされた。7時半、外相官邸に着いた。12月8日付の「交渉に依って何らかの取極めに到達することは不可能なり」と交渉決裂の通告だった。大統領親書に対する天皇回答も含むとのことであった。
グルーは大使館に帰り朝飯をたべた。その後まもなく、大本営が英米と戦端を開いたとの「読売」の報道で開戦を知った。そして、まもなく大使館の門はすべて閉ざされた。―
これが、約80年前にこの国のアメリカ大使であったグルーの真珠湾奇襲の前日と当日の出来事の粗筋である。
親書は、11月26日に過酷な条件のハル・ノートを突きつけておいて、何らその具体的な解決の申し出がない不思議な文書だった。最後は「陛下にこの確定的な危機に暗雲を一掃する方法を考慮していただこうとするものです」と結ばれているだけだった。
まず思うことは、真珠湾奇襲なのに、その日に合わせて、ルーズヴェルト大統領から天皇に親書が届くことなど、抑々、わずか数時間のズレという絶妙なタイミングで、片方の親書が来て、片方が奇襲をするということは有り得ることなのだろうか。結果は、歴史上では、まるで日本が悪の権化ではないか。
ここから、いろんな疑念がわく。㈠アメリカは日本の暗号を既に解読し、真珠湾奇襲を知っていた。㈡日本から攻撃させるために所謂『ハル・ノート』を敢えて通告した。㈢あくまでアメリカは平和的であって、戦闘的だったのは日本であったことを示すために、敢えて具体的な解決策のない「親書」をラジオで公表までして、しかも奇襲ギリギリの日程と時間に合わせて天皇の手元に「親書」を送った。ルーズヴェルトはくせ者である。
この時点で、この國は既に敗戦していたのだ。
ふと思うのは、この国が敗戦という犠牲となった80年前のことに類似した戦争が、今また21世紀に起こっていることである。これでは20世紀に戻っているようではないか、…。
今度は、旧ソ連のような悪辣なプーチンの「ロシア」が、80年前の狂気のヒットラーと「ナチ」のようにウクライナの人々を虐待していく。別の角度からすれば、プーチンは、かつての真珠湾奇襲の自国民の犠牲も厭わなかった残酷なルーズヴェルトのように振舞っている。ただし、ルーズベルトはその実像を見せずに善人面を通した。
幸運にもルーズヴェルトが死んだので、日本は彼の非道な「無条件降伏」の縛りから抜け出して『ポツダム宣言』に受諾して終戦となった。今のプーチンのウクライナ侵攻はあの時のルーズベルトの「無条件降伏」を求めている。
今確実に言えることは、21世紀なのに、異常な力によって20世紀の時間へ引き戻されている。
不思議だが、この世界が100年前に戻ろうとしていないか!!!