前日のグルーの『滞日十年』の真珠湾攻撃のことを少しばかり深堀すると、これに対応する日本側の史料としては『木戸幸一日記』ということになろう。
1941年(昭和16)年12月8日
午前0時40分、(原文は12時40分)東郷外相より電話にて、米国大統領より天皇陛下への親電を持参せる趣にて、これが取り扱いにて相談あり、・・・。東郷外相参内すとの通知あり、余も亦2時40分参内す。宮中にて外相と面談。3時半帰宅す。
7時15分出勤す。今日は珍しく好晴なり。・・・三宅坂に向かふ。・・・愈々今日を期し我が国は米英の二大国を対手として大戦争に入るなり、~思わず太陽を排し、瞑目祈願す。今暁既に海軍の航空隊は大挙布哇(ハワイ)を空襲せるなり。・・・
木戸は当然12月8日の明け方に真珠湾奇襲していることを知っているのだが、それの前に立ちはだかるように、その瞬時の時間を突いて敵国アメリカのルーズベルト大統領からの「親電」が、恰も全てを視通したように送られてきた敵国の異様な意図への関心が日記にはない。
あの慎重で他人の云うことを信用しない木戸幸一が真珠湾奇襲攻撃ですっかり浮足立っているのだろう。
ところで、「ルーズヴェルト親電」に直接携わった東郷茂徳外相は、戦後の回想録『時代の一面』の中で、概ねこう言っている。
―1940年第二次近衛内閣以来、外務省電報が米国政府に盗取されていたことが米国議会査問委員会で明らかになった。これについては日米交渉当時の亀田電信課長に電信暗号の機密保持は大丈夫か?と聞いたが、同人は大丈夫ですと答えた。…自分が処理した末期では駆け引きの余地はなく、すべて手の内見せての取引となっていた。右遺漏のため交渉上の実害はあまりなかったと思う。―
後段部分では、如何にも官僚らしく、自らの責任逃れをしているのが気に入らない。
いつの時代も、この国の官僚の責任逃れは変わらない。