『木戸幸一日記(上)』には岡義武の冒頭の解説に「「昭和30年氏は仮釈放の措置を受け、…」とあり、『木戸日記 東京裁判期』の巻末には木戸孝彦が「父は1955年仮釈放を受けて…」と木戸の巣鴨プリゾンからの釈放が触れられている。
ところが、工藤美代子『我巣鴨に出頭せず』では、「昭和30年12月16日巣鴨拘置所から仮釈放された」と釈放された日にちが書かれ、「近衛の祥月命日を選んで釈放されたことを木戸は知ったのであろうか」と続く。
工藤は近衛の側に立って書いているのだから、気が付いたのであろうか。岡と息子の孝彦はあえて気が付かない振りをしたのだろうか。まして木戸が釈放された年は1955年、自民党ができた年である。吉田から鳩山に政権が代わるが、臣茂と言って憚らない吉田茂首相は木戸の釈放予定を昭和天皇に内奏したことは容易に推測できる。
昭和天皇は何を思って、近衛の祥月命日に木戸を釈放させたのだろうか?
1951年10月に、木戸は獄中から、松平康昌を介して、「講和条約成立後、…国民に対し責任をお取り遊ばされ、ご退位遊ばるるが至当なりと思う」と伝えたそうだ。(ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』(下))
私は、昭和天皇の木戸への返礼、或いは、返答であったと思う。そして、昭和天皇の心の裡は、近衛を棄てて木戸を選択して東條内閣を誕生させ、結果太平洋戦争に突き進んだことへの悔悛の情が近衛の祥月命日を木戸の釈放日としたと考えている。全く証明はできないが、…。
桜は咲いた、ともかく、・・・。