天皇と皇族の関係は微妙であり、日米戦争の前年の1940年9月は閑院宮参謀本部総長、伏見宮軍令部総長を軍人将官に交代させている。
その理由は、『木戸日記』には9月19日の件に「予て愈々重大なる決意を為す時となりて、此の際両総長宮の交迭を願い臣下より両総長を命ずるの思召しあり、…」とある。
しかし、天皇は『昭和天皇独白録』では、閑院宮は御前会議の欠席が多く、伏見宮は病気なので交代させたと言っている。どちらが正しいのか、・・・。
実際は、天皇は日独伊三国同盟に反対だったので、陸軍の閑院宮戴仁(ことひと)総長、海軍の伏見宮博恭(ひろやす)王の軍令部総長を更迭する聖慮を示した、と云う説もある。【半藤一利・保坂正康外『「昭和天皇実録」の謎を解く』文春新書】
私は昭和天皇は、皇族の年長者でうるさ型の、伏見宮、閑院宮を藩屏として真に信用していなかったのではないかと考えている。
それよりも、今回、『昭和天皇独白録』を読み直していて、変な箇所を見つけてしまった。(続く)