2008年3月6日 学習院幼稚園遠足
今の雅子さまにとって生きがいは「食べること」と「愛子様のつきそい」でした。
食べる事に関しては、夢に見ていた「食べたいものを食べたいだけ食べられる環境」これが一番の幸せでした。
さすがの雅子さまも独身の頃は財布と相談しながら外食していたものです。
でももはや、3つ星レストランだろうが、高級な中華だろうが食べたい放題。しかも時間g限られているわけではないから、ゆっくりと好きなだけ時間をかけられるという幸せです。
皇太子様は全くご注意なさいませんでしたし、東宮侍従達も両陛下だって今や雅子様に対しては腫れ物に触るような扱いですから、好き勝手出来ました。
食べる・・・というのは一瞬のストレス解消でしかないのですが
「庶民が食べられないものを食べる」というのがステイタスなのです。
フランスのマスコミは、ついに雅子さまについて「食欲妃」というあだ名をつけてしまいました。ちょうどこの頃はスペインへ同行するかもしれず、ヨーロッパのマスコミも関心を持っていたのです。
外国から見た雅子様は「いつも高級レストランに行って長時間食べている」という事で、実に的を得たものだったのですが、雅子様はフランス語は読めませんし、誰もそんな情報は教えませんから、知らないままでした。
また愛子様の事は、大きくなればなるほど、実態が世の中に出てしまう恐れがあるのです。こればかりは死ぬまで秘密にしておかなくてはなりません。
その為には積極的にはりついて、マスコミや回りに何も言わせない事が大事だったのです。
2008年3月14日 東宮大夫が3月11日、12日、14日に雅子妃と愛子内親王が電車で帰った事を報告
3日間の「電車で帰宅」もわざわざ庶民の真似をして喜ぶ、中世の貴族のような行いで、皇宮警察もはらはらしながら警護していたのです。
だけど、電車で帰宅は雅子さまにとっては懐かしい事ですし、Suicaをタッチするのが楽しくてしょうがない。
愛子様自身は全く興味はない様子なのですが、雅子様は大はしゃぎで改札を通っていくのです。
その様子は何とも言えず、違和感がある光景でした。
2008年4月15日 学習院幼稚園卒園式
そしてついに、愛子様が学習院幼稚園を卒園されました。
その日もやっぱり愛子様は無表情で、楽しいも何も感情そのものが見えなかったのですが。代わりに皇太子様と雅子様が笑ってごまかすしかなかったのですが。
卒園と同時に園長の小山久子氏が東宮女官として愛子様付になりました。
どうしても断り切れなかったのです。
元園長を女官に引き入れた事で秘密保持は出来ると思った雅子様はずっと上機嫌でした。
2008年3月21日 青山のイタリアン「セラン」でママ友とランチ
ママ友とランチも機嫌よくおでかけになりました。
その一方で、学習院初等科への締め付けも強化していきます。
・愛子様の教室には鍵をかける。
・ICチップ付の身分証を携帯させる
・愛子内親王の担当教員以外は教室の中を見る事を禁止する
・愛子内親王に10人ものSPをつける
よもやそこまで要求されると思っていなかった学習院側は慌てました。
今まで沢山の皇族を受け入れて来たのですが、一度もこんな要求をした人はいなかったからです。
担任ですら、最初に決まっていた人を飛ばして、違う教官に変えてしまったのです。
さらにすごいのは、初等科に「貴賓室」が出来た事です。
この部屋は雅子様がいつでも訪問出来て、何をして過ごしても文句を言われないという部屋です。
なぜそこまで・・・・とは思っても、誰も「それは間違っている」という人はいません。
雅子様は初等科に自分の部屋が出来た事が嬉しくてしょうがありませんでした。
雅子様にとって「教室」というのは唯一自己表現できる場であるという思いだけはいつまでも頭の中に残っています。
つまり「生徒」「学生」であった頃の達成感や過去の栄光にすがりついているだけなのです。
2008年3月26日 皇居で昼食会
2008年3月29日 奥志賀スキー
毎年の奥志賀スキーもまた行われましたが、ホテルは以下のような張り紙を出したのです。
とにかく愛子様の実態を知られない為に、車を覗くな、部屋を探るなということなのでしょう。
皇太子殿下ご来訪による規制
本日は当ホテルをご利用いただき誠に有難うございます。
大変申し訳ございませんが、皇太子殿下ご家族が下記の日程でご来訪するにあたって規制がしかれます。ご協力をお願い申し上げます。
記
3/29(土)ご来訪 時間 15時から15時30分
規制内容 通過中は部屋のカーテン及び窓を閉める。
見学は当ホテル駐車場または、県警で指定した場所。
車は頭を道路側に向けて駐車。また、出入の規制有り。
4/2(水) ご規制 時間 <黒く塗りつぶし>
規制内容 同上
もはや誰もが雅子様のいいなりでした。
皇太子様はすっかり諦めてしまわれ、好きなようにすればよいというお考えでした。
2008年4月1日 3月31日付で学習院幼稚園園長を退職し東宮女官となった小山久子
ちょうどその頃。月刊「WILL」に西尾幹二による「皇太子様に敢えて御忠言申し上げます」という論文が掲載されました。
これははっきりと皇太子様に対する批判をぶつけた文章でした。
皇室というのは伝統がもっとも大事である。また皇室は国民と同じ船にのる船人であるのに、なぜ雅子様だけを大事にし、人格否定発言までされたのかという内容です。
最終的には「廃太子」という言葉も飛び出す程の衝撃で迎えられ、この後、いわゆる「皇太子様への批判」はつよくなる一方でした。
皇太子様もかなり悩まれ時々「どうしたらいいんだろう」と呟く事がありました。
一般的に気に入らない、生活が合わないなら離婚という手があります。
しかし、皇太子様にはどうしても小和田家の父君の助けが必要でした。
そもそも小和田家のせいでこんな風に批判される側になったのに・・・今は減っていく公務をどうしたらいいか、存在感が薄れていく一方の自分をどうしたらいいか考えあぐねてしまって。
可愛い愛子様の為にどうでも我慢しなくてはいけないのかと。
生まれてから批判された事などありません。常に「皇太子様は品行方正で平等でいい人」の筈。
それが「妻に引っ張られる夫」に成り下がってしまった。
皇室の伝統も重要な祭祀も全て無視する雅子様。
「別れるのだったらそれ相応のものを頂くわ」と笑って言い切るすごみ。
こんな事、国民に知られたら「どうしてあの時、6年間も執着して結婚したんだ」と責められそうで。皇太子様はそれが嫌だったのです。
ただ、平和でそして紀子妃よりもちょっと美人で学歴が上の女性を望んだだけだったのに。
2008年4月10日 学習院初等科入学式
いよいよ、愛子内親王は小学生になりました。
これから先の修羅の道を皇太子様はまだ知らないのでした。