週刊現代だったでしょうか「嫁姑25年戦争の終わり」というタイトル。どういう事かというと
昭和の末期、とにかく小和田雅子という人はマスコミの注目を集め続け、じらし続け、いつまでもいつまでも返事をせず「お妃候補から外れた」「いや、外れていない」これの繰り返しばかりでした。最後のお妃候補?三井史子さんが結婚した後はさらに小和田雅子に集中。
1988年FOCUS4月15日号
「浩宮候補は目下研修中」ー小和田雅子さんを取り囲む霞が関永田町の雑音
小和田雅子の仕事で雑用もあったけどどうしよう・・・これからは。
もう「小和田君」何て呼べないね。
1988年7月19日号
「小和田雅子さん英国留学へ出発」
1989年1月7日。昭和天皇崩御。
2月、皇太子は「小和田さんではだめですか」と側近に尋ねる。
週間ポスト1989年7月7日号
「5年前の極秘旅行(1984年9月・12月)を徹底追跡!皇太子徳仁と小和田雅子さんアルザスの恋」
1984年、メリベルで皇太子は心行くまでスキーを楽しまれ、岩肌が見えている危険なところも大胆に滑られた。日本人関係者が心配する程。
実はこのとき、一行の中に殿下の意中の女性、日本でもその後最有力妃候補として取りざたされた小和田雅子さんが参加していた。
しかもこの年、殿下はフランス国内を2度にわたって小和田さんを伴って旅行している。
この旅行をきっかけに皇太子は小和田雅子さんに恋心を抱き、東宮御所に頻繁に招くなど力を入れていた。
霞会館関係者「よくお調べになりましたね。皇太子殿下が小和田雅子さんと旅行されたのは事実です。
天皇・皇后両陛下はマスコミの監視が比較的緩い留学期間中に皇太子殿下のお妃を決めたいとお考えでした。
しかも、一方的ではなく本人同士が十分意志を確かめ合ったうえで決めて欲しいと考えられた。
だから青年男女がお互いをよく知り合う場としてフランスが選ばれたんです。確かに旅行は2度、9月と12月に行われています」
昭和天皇の崩御がなければもっと早く結婚していたのに。
霞会館関係者「2代続いて民間からお妃を迎えるとなれば皇室の伝統が失われるというんですね。
しかし、皇太子殿下にはそんな雑音には惑わされないでかつて天皇陛下が皇后陛下に「柳行李一つできてほしい」といったように強い意志で小和田さんへの気持ちを伝えて欲しい。
これからの皇室にとっても皇太子殿下にとっても小和田さんのような美しくて国際感覚がある心優しい人が必要なんです」
インタビューされた江頭寿々子いわく「一度もそんなこと聞いたことございません。私が聞いているところでは絶対にそんなことはございませんんよ」
FLASH1989年9月19日号
「来春婚約?浩宮さまと小和田雅子さんに再び熱い視線」
1984年の9月12月に二人でフランスに旅行していたことが明らかになりました。
この当時、私自身は皇太子の「アルザスの恋」も「コルマール」も全く知りませんでした。
自分自身の結婚式を9月に控えていたこともあり忙しくて週刊誌を見る暇がなかったのかもしれないし、8月下旬といえば「礼宮殿下と川嶋紀子嬢」の婚約が発表された時であり、むしろこっちに夢中で、皇太子なんて眼中になかったんです。
でも女性週刊誌やらおじさん向けやらが一斉に報道したということは、皇后からGOサインが出たと考えるべきでしょうね。庶民の目が礼宮に向いている間に皇太子のこともちょこっと報道させて「嘘はついてない」というアリバイ作り?
霞会館関係者のセリフは100%皇后のものでしょう。「雑音」は気にせずに・・ですってよ。笑っちゃうわ。おまけに「2代続いて民間妃云々」は霞会館関係者なら言うはずがなく、自分の時代が来た皇后が御代が変わってすぐ自分の価値観を週刊誌を使って反映させることを始めたのです。
ラスボスのように現れた久邇晃子さんへのけん制とも見て取れますし、とにかく家柄のよい女性は嫌だ―という皇后の叫びが伝わってきますよね。
でもこの話が本当だとして、それでもさっさとハーバード大を卒業後に外務省に入り、東大に学士入学してイギリスへ留学。皇太子など気にもかけない態度。どんなに皇太子が恋こがれても当のご本人はそんな気さらさらなく。
通常、独身皇族と一緒に旅行するといったらこれは「その気あり」と見るし本人も覚悟があったろうと思うのですが、そこらへん、どこまでもノリの軽い女性の小和田雅子さんだったのでした。
「日本一運のいい女ー新皇后の肖像」シリーズ、良い企画ですね。
当時を振り返りつつ、記事を読ませて頂いています。
私も、「ご優秀」伝説を、信じ切っていたひとりです。
思い返しても、お恥ずかしい限り。
過去の様々な出来事、例えば雅子さんを伴った旅行とか、関係者の証言を振り返ってみると
仕組まれていたんだなと思いました。
霞会館関係者が「雑音」は気にせずにと発言していたこと、今回、初めて知りました。
これは、間違いなく皇后の発言ですね。
このシリーズを読んでいて、雅子妃が「適応障害」になったのは、親子関係に問題があったからで、皇室に原因はないと、改めて思いました。
次回も、楽しみにしています。
「皇太子さまと雅子さまのご結婚に侍従長が放った沈痛な一言」〈週刊朝日〉
が配信されていますね。
93年6月、皇太子さまと小和田雅子さんが結婚しました。それから半年も経たないころ、ひどく面食らう出来事がありました。
「皇太子妃もだいぶ皇室に慣れてこられたのではないですか」と話しかけたときのことです。
しばしの沈黙のあと、山本侍従長はこう答えたのです。
「この結婚は、失敗だった」
まだ新婚の時期だっただけに仰天しました。
山本侍従長は、何も説明しませんでした。
そのあと雅子妃の「適応障害」や「千代田と赤坂の溝」が取りざたされました。あの絞り出すような、悲痛な声は今も耳に残ります。
こういうことだったんですねw
読んでいて、?、?、となって、ふぶきさんの予想で納得ですw
所謂アルザスの恋(火遊び?)は、雅子さんハーバード4年生の頃ですよね。
そんなことをしている暇があったんだ~
あー、卒論はアトヨロだったからね(笑
だから、そこがバレると困るから否定するわけね。
いや、雅子さんにしてみれば「恋」じゃないから否定なのかな。単に面白そう、タダで行けるならラッキーのノリだっただけ?だから恋じゃない!?
ちくわさんが週刊朝日から引用された山本侍従長の悲痛な声が今の惨状に繋がると思うと、山本侍従長がどんな思いで仕えていたのか、お気の毒です。
山本侍従長は、1996年8月に一過性脳虚血発作により入院し、9月に二度目の発作で脳梗塞となり退任されています。
過重なストレスだったのでしょうね。
この頃から体幹が悪かったという事ですね。
シワシワドレスのプレスと同じカタチ(笑)
昭和天皇の崩御がなければ…違いますよね。崩御があったから…ねじ込めたんですよねぇ?
紀子さまの入内は昭和天皇も大層お喜びになられた…と当時のお付の方のメモがありますから、紀子さまが昭和天皇に会われたことがあるという噂も出ましたね。
小和田雅子の入内に反対していたとしたら、それは遺言のようなもの。それを破った浩宮と当時の皇后は恐ろしい人達ですね。
2018年のブログも毎日拝見していましたが、リマインドして頂けて、現状を考えると、全く令和はおかしいです。
ところで、悠仁殿下が筑波大学からマレーシアに留学するのではとか言われていますが、それはあり得ないです。
筑波大学が最近マレーシアに開校したのは本当ですが、その目的は日本の学生を留学させるのではなく、マレーシアで将来日本や、世界で働く有能な人材を養成させるためだからです。もちろん学生の交流はあると思いますが、このプロジェクトはマレーシアのマハティール首相の肝いりで始まり、コロナや首相自身の退任などで延期を強いられましたがようやく実現したものです。皇族など全く関係ありません。
誹謗中傷の輩は、親王がマレーシアに留学して秋篠宮とタイのような関係を持つとか、秋篠宮殿下、タイ、マレーシアまでも愚弄するようなとんでもないことを言っていて、腹立たしいので書かせていただきました。
因みに、殿下がズルをして大学に入ると決めつけている者たちは、国立筑波大学の推薦入試を愚弄していますし、推薦で入学したほかの学生をも不正だと言っていると自覚すべきです。筑波は以前からスポーツ関係の推薦などがあり、医学部にもあります。わが子の高校では、トップクラスで東大理三に勝負できるという子が、筑波の医学部に推薦入学しました。今頃立派な医師になっていることでしょう。
皇族は学歴(学問)くらいしか自分の意志で決められないのですから、自由にさせてあげるべきだし、一般人には関わりのないことだと思います。
いわゆる名家のお嬢様とは違う、一見今ふうのはつらつとしたキャリアウーマン、目を見張る学歴、派手めの顔立ち
でもちょっと調べれば出来の悪さ、父母の評判、その前の家系、職場での評判、わかったのに…
結婚してすぐから驚愕の毎日だったでしょうね、なるちゃんは。
でも言質取られてるし、注意すると機嫌が悪くなってボコボコにされるから怖くて何も言えないまま今に至っているんでしょう。
今貴方にできることは速やかに加冠の儀を執り行うことです。
逃げてはいけません。延期しても愛子さんが天皇になることはありません。
娘の成人のティアラや宝飾品を作らなかった貴方、ちゃんと準備していらっしゃるのか心配です。どうか杞憂に終わりますように。
結婚したらと楽しみにしていたら、寝室は別々宣言され、尻にしかれ、後は知っての通り。
無残なことでと書かれていました。
留学中は洗濯物を抱えて毎週のように母のもとへと当時の週刊誌に書かれていました。
家事能力はゼロなのかとあきれた覚えがあります。
洋服は○○、バックは△△とブランド名が羅列、バブリーとかこのことかと。
ほかに褒めようがなかったわけですか。
実態は、帝国ホテルで撮影のポートレートは、よそ様の誂のスーツ横取りだし、母親は皇室に入ってしまえばどうとでもなるからと、支払いは後回しだったとか。
金ピカ振袖で、扇子正面でぶっ刺し、道端でルビー?の指輪の品定めシーンとか、色々ありましたね。
得意料理の一つが、風呂吹き大根とか。絶対嘘だと思います。手間がかる割に、メインではなし、というか食べたことあるのかしらと思った覚えがあります。
ソーセージを◯◯丸出しの顔で炒めて、使った雑巾か何かを、なぜかキッチンペーパー掛けに掛けようとして、落ちてしまう映像もありました。料理に慣れてない初々しさではなくて、色々経験済みなのに、身についてない感じでした。
結局あれやこれやで、今に至るわけです。
皇室入りしたら、待遇の特別さに、もっと早く入れば良かったと言ったとか。セレブの奥様になったはずだったのに、そうでもないことが分かり、ふてくされてやる気の出ることだけ、やってあげるわよ なんでしょうね。
周りの意見を「雑音」などと言えるのは、日本人離れした傲慢な彼女の特徴だと思います。
岸信介 「私は声なき声に耳を傾けねばならないと思う」
昭和天皇の御製 日日のこのわがゆく道を正さむとかくれたる人の声をもとむる
https://www.kunaicho.go.jp/culture/utakai/utakai-s41.html
「國の為務たる君(は)秋またで 世をさりにけりいふべ(ぐれ)さびしく」
「その上にきみのいひたることばこそおもひふかけれのこしてきえしは」
「その上に深き思ひをこめていひしことばのこしてきみきえにけり(さりゆきぬ)」
http://www.seisaku-center.net/node/1126
正田家も、はっきり断らずに娘を海外へ行かせ、「思わせぶりなことをしている」と言われていたそうで、入内までの過程や家庭環境など、この二人は本当によく似ています。
天皇夫妻の出会いは、エレナ王女の歓迎会(1986年10月)と喧伝されていますが、実際はそれより前に知り合って旅行(1984年9月、12月)までしています。事実と違うことを宣伝する、美智子さんは、ものすごい嘘つきだということがわかります。
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