温暖化の影響でしょうか、庭に置いてあるシンビジウムが例年より少し早く咲き始めました。鉢によって、花の時期が違いますが、この鉢が一番早く、しかも一鉢に4本も花芽が育ちました。花を長く楽しむために、あまり日の差さない玄関に置いて眺めています。
城南5丁目の西端、旧東海道沿いにある四ツ谷不動堂です。この不動堂の右側の道も大山詣での道で、昔はこの辺りに、茶屋、宿屋が並び、藤沢宿に次いで賑わったようです。平成12年発行の資料を見ると、右側に「是よ里右大山道」という立派な石塔の道標がありましたが、現在は新しくなって左側に建っています。
不動堂の中の不動明王です。玉のような目、左足をたらし、やんちゃな少年のようです。よく観察すると、たらしている左足のひざの上に、足型が見えます。右足は正面にたたまれているので、ここに右足が見えるのは変です。これは謎です。
堂の横には、藤沢市教育委員会の解説が掲示されています。しかし足型の謎についてはノーコメントです。
注)その後、いろいろ調べた結果、これは左手だと分かりました。それにしても妙な形です。
不動堂の中の不動明王です。玉のような目、左足をたらし、やんちゃな少年のようです。よく観察すると、たらしている左足のひざの上に、足型が見えます。右足は正面にたたまれているので、ここに右足が見えるのは変です。これは謎です。
堂の横には、藤沢市教育委員会の解説が掲示されています。しかし足型の謎についてはノーコメントです。
注)その後、いろいろ調べた結果、これは左手だと分かりました。それにしても妙な形です。
辻堂北口にあった関東特殊製鋼の跡地です。周囲がきちんと囲まれ、のぞくことが難しかったのですが、中の整備が終わったからでしょうか、この日は出入り口から写真が撮れました。正面に丹沢大山、左端に雲にかこまれた富士山が見えます。これからここに新しい街が造られることになりますが、未曾有の経済不況の最中、どのように進展して行くか、無関係なのに気がもめます。
本鵠沼4丁目の鵠沼子供の家近くで見かけた供養塔です。先輩方の資料で、ほとんどの道祖神・供養塔の由来は分かるのですが、これは詳細不明です。風化が進み、何も読み取りことが出来ません。それでも花を手向ける人は居るようです。
本鵠沼の本真寺の境内で、鵠沼海岸開拓者伊藤将行の墓に出会いました。江戸時代鵠沼海岸は砂原で、幕府が鉄砲場として訓練に使っていたようです。明治になって廃止され、明治20年の鉄道開通を契機に別荘地開発が始まりました。伊藤将行はその中心になって活躍した人物で、砂原に道を張り巡らし1町分単位で地割して黒松を植樹しました。松籟(しょうらい)と潮騒の街の基礎を作った人です。
引地川の竜宮橋を渡って、国道134号線に出る右角で、「溺死諸精霊」と刻まれた石塔を見つけました。石塔の下部に、鵠沼村とあったので、家に戻って資料を調べました。この石塔は、明治5年に造立されたものでした。資料によると、明治5年7月27日にこの地域を暴風雨が襲い、難破船4艘、死者10人との記述がありました。現在では、溺死と言うと海水浴客の水死を考えますが、この石塔は漁師が遭難したことを悼んで作られたもののようです。