鵠沼・昔砂丘の一本松

湘南藤沢住人の記憶の手掛かり …… フォト・ブログ

パナソニック跡地遠望

2009-03-16 | 藤沢
湘南モールフィルの屋上から、東海道線越しに、辻堂元町のパナソニック工場跡地を眺めました。すでに、東側跡地の整備はほぼ終わったようです。


西側跡地も同様ですが、一番西側に残っていた事業所も撤退が決まったようで、これから工事が始まるようです。他の工場に転勤が決まった人が、家族を残して単身赴任する話も聞きました。きびしい春です。

商業施設の駐車場の混み方

2009-03-15 | 藤沢
月曜日の10時30分、用事があって辻堂新町の商業施設湘南モールフィルを訪れました。不況下の利用状況を見るため、屋上から、駐車場の混み具合を撮ってみました。流石に、開店30分では、平場の駐車場でも余裕十分でした。屋上・屋内の駐車場はがらがらでした。ここは以前、日本電池藤沢工場の跡地に出来た施設です。


ついでに隣接する商業施設ミスターマックス湘南藤沢も見に行きました。ここの平場の駐車場はすでに満杯の状況でした。生活防衛的な立場では、こちらの方が集客能力が高いのかも知れません。ここは以前、NOK藤沢工場の一部でしたが、工場の高層化などに伴い、転用となった場所です。

今年のシンビジウム

2009-03-14 | 小さな庭
温暖化の影響でしょうか、庭に置いてあるシンビジウムが例年より少し早く咲き始めました。鉢によって、花の時期が違いますが、この鉢が一番早く、しかも一鉢に4本も花芽が育ちました。花を長く楽しむために、あまり日の差さない玄関に置いて眺めています。

大山遥拝の鳥居

2009-03-13 | 藤沢
四ツ谷不動堂の右側の道に建っている大山遥拝の鳥居です。道に鳥居があるということは、江戸時代、ここから大山が見え、遥拝が出来たということでしょう。こんなに遠く離れた場所に鳥居があるのは驚きです。

        
大山遥拝の鳥居中央の額です。なにやら恐ろしげな顔ですが、どうも間が抜けています。しばらく眺めていて気がつきました。間が抜けているのではなく、鼻が抜けているのです。これは天狗の顔です。中央の大きな鼻が抜け落ちてしまったようです。

四ツ谷不動堂

2009-03-12 | 藤沢
城南5丁目の西端、旧東海道沿いにある四ツ谷不動堂です。この不動堂の右側の道も大山詣での道で、昔はこの辺りに、茶屋、宿屋が並び、藤沢宿に次いで賑わったようです。平成12年発行の資料を見ると、右側に「是よ里右大山道」という立派な石塔の道標がありましたが、現在は新しくなって左側に建っています。

        
不動堂の中の不動明王です。玉のような目、左足をたらし、やんちゃな少年のようです。よく観察すると、たらしている左足のひざの上に、足型が見えます。右足は正面にたたまれているので、ここに右足が見えるのは変です。これは謎です。


堂の横には、藤沢市教育委員会の解説が掲示されています。しかし足型の謎についてはノーコメントです。
注)その後、いろいろ調べた結果、これは左手だと分かりました。それにしても妙な形です。






右野道

2009-03-11 | 藤沢
辻堂駅北口を真っ直ぐ北に進み、新湘南バイパスをくぐる手前左側、城南1丁目の地蔵堂です。小屋の中の地蔵は、いろいろな衣装を着せられ、本体がよく分からない状態でした。周囲の人々が熱心に面倒をみているようです。

        
地蔵堂の左側に句碑がありました。「右野道地蔵も花も笑ひけり」、作者は薫子?
のようです。


地蔵堂で道は二股にわかれますが、右へ進む道の少し手前には自然が残り、梅が咲いていました。

「二ッ谷」か「二ツ家」か?

2009-03-10 | 藤沢
大山街道入口交差点から国道1号線を東に進んで「二ッ谷稲荷」を訪ねました。再建されたもので、傍らの石版に経緯が詳しく刻んでありました。鳥居をよく見ると、「二ツ家稲荷」の額がありました。


どちらが正しいのかと周りを見ると、藤沢市の掲示がありました。昔、この辺りにニ軒茶屋があったことから起こった地名で、「二ツ家」に軍配があがりそうです。しかし、近くのバス停は「二ッ谷」になっています。


「二ッ家稲荷」を出て更に東へ進むと、松並木と起伏のある歩道になりました。この辺に昔の一里塚跡があるはずでしたが、見落としました。



大山街道入口

2009-03-09 | 藤沢
国道1号線の藤沢と茅ヶ崎の境目にある大山街道入口交差点です。ここで旧東海道を横切っているのが大山道です。江戸時代盛んであった大山詣の道の1つです。


信号左手の植え込みの中に、常光明真言塔という巡礼供養塔を見つけましたが、「常光」の文字しか残っていませんでした。辻堂にある宝仙寺への道標として建てられたようです。

        
信号右手の角にも、西国坂東秩父巡礼供養塔がありました。1803(享和3)年に用田村の人々が建てたもので、側面に「あふり山わけ入る道にしおり置くつゆの言の葉しるべともなれ」という歌が刻まれています。
注)親切な人が、読めるように掲示を用意してくれた結果です。

辻堂北口の跡地

2009-03-08 | 藤沢
辻堂北口にあった関東特殊製鋼の跡地です。周囲がきちんと囲まれ、のぞくことが難しかったのですが、中の整備が終わったからでしょうか、この日は出入り口から写真が撮れました。正面に丹沢大山、左端に雲にかこまれた富士山が見えます。これからここに新しい街が造られることになりますが、未曾有の経済不況の最中、どのように進展して行くか、無関係なのに気がもめます。

昔はここが海岸通り

2009-03-07 | 藤沢
鵠沼海岸から真っ直ぐ江ノ電鵠沼駅に向う道です。この道は、昔は海岸通りと呼ばれていました。別荘から人力車で鵠沼駅へ向う人たちの絵葉書が残っています。


鵠沼が別荘地であったのははるか昔のことで、宅地の細分化が進んだ現在では、その面影を探すのは難しくなりました。それでも、この通りには、まだ「なるほど」とうなずく家を見ることができます。


鵠沼の緑と景観を守る会というNPOが活躍して、出来るだけこうした風景を残すために頑張っています。

詳細不明の供養塔

2009-03-06 | 藤沢
本鵠沼4丁目の鵠沼子供の家近くで見かけた供養塔です。先輩方の資料で、ほとんどの道祖神・供養塔の由来は分かるのですが、これは詳細不明です。風化が進み、何も読み取りことが出来ません。それでも花を手向ける人は居るようです。

藤沢少年野球場

2009-03-05 | 藤沢
鵠沼海岸6丁目の北側にある少年野球場です。雨の翌日なので、まだ水溜りがあり、父母が一生懸命に水対策に活躍していました。


ホーム裏の物置や水場を見ると、手作り野球場らしい雰囲気です。ここでも、いろいろと頑張っている母がいました。それにしても、「少年はどこに居るのだ?」というのが、私の感想です。

何か用か?

2009-03-04 | 猫たち
ぶらぶら散歩の途中で、庭のデッキの上で、のんびりくつろいでいる2匹の猫を見つけました。


声をかけると、1匹は後ろ向きになって警戒しましたが、もう1匹はゆっくりと体を起こしながら、途中でこちらを見て、「何か用か?」といった仕草です。結局起きるのは止めて、また寝てしまいました。


この家には、猫が沢山いるらしく、窓からこちらを眺めている猫もいました。



鵠沼海岸開拓者の墓

2009-03-03 | 藤沢
本鵠沼の本真寺の境内で、鵠沼海岸開拓者伊藤将行の墓に出会いました。江戸時代鵠沼海岸は砂原で、幕府が鉄砲場として訓練に使っていたようです。明治になって廃止され、明治20年の鉄道開通を契機に別荘地開発が始まりました。伊藤将行はその中心になって活躍した人物で、砂原に道を張り巡らし1町分単位で地割して黒松を植樹しました。松籟(しょうらい)と潮騒の街の基礎を作った人です。

溺死諸精霊の石塔

2009-03-02 | 藤沢
引地川の竜宮橋を渡って、国道134号線に出る右角で、「溺死諸精霊」と刻まれた石塔を見つけました。石塔の下部に、鵠沼村とあったので、家に戻って資料を調べました。この石塔は、明治5年に造立されたものでした。資料によると、明治5年7月27日にこの地域を暴風雨が襲い、難破船4艘、死者10人との記述がありました。現在では、溺死と言うと海水浴客の水死を考えますが、この石塔は漁師が遭難したことを悼んで作られたもののようです。