Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

ぐるりのこと

2008-10-15 | 日本映画(か行)
★★★★☆ 2008年/日本 監督/橋口亮輔
<京都みなみ会館にて鑑賞>

「静かに強く生きたい。このニコイチ夫婦のように」



私にとっては、「歩いても、歩いても」と、この「ぐるりのこと」が公開前から楽しみにしていた作品。とても良かったです。

バブル期以降、世間を賑わせた有名殺人犯が次々と出てきます。この法廷シーンの異様さが淡々とした夫婦物語と馴染まないと感じられる方もいるかも知れません。しかし、これなくしてこの映画は語れないのだろうと思います。妻、翔子(木村多江)は子どもを亡くしたことをきっかけに精神を病んでいくのですが(これが流産なのか、産後に何か不測の事態があったのかははっきりと描かれていません)、それは同時にすさんでゆく日本という国そのものに呼応している。または、そのものかも知れないと感じました。

夫のカナオ(リリー・フランキー)は、何をしても頼りなく、自分の意思を口に出さない男。そこらへんのおねえちゃんにすぐちょっかいを出す、なまっちろい男として、終始描かれてゆきます。しかし、このカナオのキャラクターの描かれ方は実に表面的なものです。何年もの間、翔子のそばで何も言わず、「ただひたすらに寄り添っているだけ」のカナオ。何もしない彼に対して翔子は時に苛立ちを隠せないのですが、本当は「ただそばにいること」ほど強いものはないのではないかと思うのです。

映画の終盤、カナオの父親は自殺していたことが明らかになります。そんな父親を「逃げた」と捉えているカナオ。しかし、彼は子どもの頃の傷をおくびにも出さず、飄々と振る舞い、翔子から逃げません。「ハッシュ」以降、精神的に鬱な状態だったという橋口監督。その姿は一見して妻・翔子に投影されているように感じられます。しかし一方、自身のトラウマから逃げず、翔子を見守り、夫婦の小さな希望に向かって、わずかでも歩みを止めないカナオにも、また映画を撮ろうという熱意が生まれた橋口監督自身が投影されているように思えるのです。

結局、翔子とカナオは、一心同体、または一個の存在ではないでしょうか。この夫婦はバラバラなのではなく、補い合うことで、ひとつのものとして存在している。夫婦は互いに支え合うもの、という事ではありません。ふたつでひとつ。このニコイチな夫婦の姿は、橋口監督自身でしょう。そしてまた、このすさんだ現代を生きていかねばならない、我々一人ひとりの日本人の心の在り様を示しているのではないでしょうか。落ち込んでもいい。でも、逃げないで。じっと待って、踏み出せる時が来たら、その一歩を前に出そう。

さて、主演のリリー・フランキーが、すばらしくいいです。あの柄本明としっかりスクリーンの中で馴染んでいます。また、時代を揺るがせた殺人犯を数多くの有名俳優が演じているのも見どころ。幼女殺害犯、宮崎勤を加瀬亮、お受験殺人犯を片岡礼子、連続児童殺傷犯、宅間守を新井浩文。そうそうたる顔ぶれですが、やはり目を見張るのは加瀬亮です。被告人席の彼の演技が未だに頭から離れません。他にもカメオ出演として、たくさんの有名俳優が出てきますし、記者役が柄本明で母親が倍賞美津子ですから、実はこの作品ものすごく豪華な顔ぶれなんですね。これも、橋口監督の器量の成せるところでしょうか。

最後に、とても長回しが多いです。夫婦がくだらない会話をしているシーンは、ちょっとやりすぎだろ、と飽きちゃいましたが(笑)、妻が本心を語り、抱き合うシーンは良かった。「キスしようと思ったけど、おまえ鼻水出てるよ」。まるで、本物の夫婦を見ているようでした。