Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

紀子の食卓

2009-02-07 | 日本映画(な行)
★★★★★ 2005年/日本 監督/園子温
「役割を捨てよ」

17歳の平凡な女子高生紀子は、退屈な田舎の生活や家族との関係に息苦しさを感じ、東京へ家出。“廃墟ドットコム”というサイトで知り合ったクミコを頼って、彼女が経営するレンタル家族の一員となる。一方、妹・ユカもまた、紀子を追って東京へやってくるのだが…



人生や生き方に「役割」という概念を持ち込んだのは一体どこのどいつだろう。妻の役割、母の役割、そんなものクソくらえだ。人はただ生きている。どう生きたいとか、どんなことをしたいと言う前に、この世に放り出された一個の生体に過ぎない。「役割」を演じることで獲得できる安心感なぞ、己を支えてはくれやしない。なぜ、それに気づかないのだ、紀子よ、ユカよ。自分の「役割」とは何か、と問うたその瞬間に人生は色を失ってゆくというのに。

父・徹三に「自殺サークルなど存在しない」と説明する若い男のセリフは全て詭弁だ。人を食ったように笑みを浮かべて「輪ですよ。」などどほざく。一生逸脱することのないぐるぐると回り続ける輪の中で生きることに意義を見いだして何の価値があろう。しかし、我々大人たちはあの若い男の笑みを消す術を知らない。そのことに打ちのめされる。本来、一人一人の人間が直観的にわかっていることなのに、なぜ人間はこうも鈍くなってしまったのか。「どうして人を殺してはいけないのですか」のあの質問に揺れた頃から、何も社会は変わっていない。

「役割」を持たない自分に怯えるのは、思春期の少女だけではない。レンタル家族を欲しがる人間は後を絶たない。孫から慕われる祖母を演じ、娘から愛される父を演じる人々。「はい、時間です、また今度」。今目の前で繰り広げられていた空虚な食卓と、振り返って見る我が家の食卓の一体何が違うと断言できる?思春期の子どもを持つ親なら絶望してしまうかも知れない問題作。我が子はこうなりませんように、と願ってしまう行為もまた、「役割」という名の呪縛に絡められていることに気づかされる。

吹石一恵、つぐみ、吉高由里子。若手女優陣の存在感が光る。そして、光石研。この人は本当に手堅い。どんな色の作品に出ようとがっちりと基礎を固める。作品の揺らぎのなさは彼の演技の賜だといつも感心させられる。