Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

悲夢

2011-06-09 | 外国映画(は行)
★★★★☆ 2008年/韓国 監督/キム・ギドク

「ギドクの言葉遊び。もう英語を話せなくてもいい?」


何でも英語のハリウッドで多言語のリアリズムを追求したタランティーノとは対照的に、ギドクは言葉の壁を越えるでもなく、壁の存在をそのまま提示することで我々観客を困惑させる。いやはや、ほんとにギドクって人は面白い。

本作ではオダギリジョーは最初から最後まで日本語である。そして他の韓国キャストはみな韓国語。なぜ意思疎通ができているの?という疑問を持つのは当然なんだが、映画の解釈を結論づける前に私はこう感じたのだ。「観客がストーリーを追えればそれでいいのかも知れない」と。そう思うと、以降全く違和感を感じることがなかった。

先日BSで録画したヴィスコンティの「山猫 イタリア語完全版」なるものを見ていたんだが、バート・ランカスターもアラン・ドロンもイタリア語うめえ!と感心していたらあれは吹き替えなんだそうな。おそらく、ある程度はイタリア語をしゃべってるんだろうけど、違和感をなくすために吹き替えにしているんだろう。で、ギドクはそんなのめんどくせーぜってんで、オダジョーにそのまま日本語でしゃべらせた(か、どうかはわかりませんが。笑)。

いずれにしろ、映画というものは、観客の理解を促すために一本の作品の中で「言語は統一させる」か、または「現実に即した言語でしゃべらせる」やり方がほとんどだった。しかし、いずれの方法においても、種々のごまかしが必要だ。そのごまかしを我々観客は「映画が作品として成立するため」に大人な対応で受け入れてきたのだ。英語でしゃべるヒトラーが演説中に突然ドイツ語になっても、日本の山奥で渡辺健がペラペラの英語でしゃべっても、それを突っ込むのは野暮なものと思ってスルーしてきた。でも、ギドクは自然な演技を引き出すためにオダジョーにそのまま日本語で演技させた。なんという逆転の発想。だけども、これはある意味、観客を信用した手法と言えるかも知れない。(しかし、こんなことがまかり通れば、頑張って英語をマスターしている韓流スターは立つ瀬がないな。)

そして、日本語で喋り続けるオダジョーがなぜ韓国人と意思疎通できるのか、ということは、もちろんこの映画が示す夢というテーマとも関係している。夢の中じゃあ、日本語をしゃべる自分と外国語を話す外国人とでもバッチリ物語は進むもんね。だから、これは恋人を失ったオダジョーの長い長い夢の話と解釈するのが一番手っ取り早い。そうすると、「夢を見ると、別の女が行動する」ってのは、夢の中の夢、ってことで、これまた「インセプション」かよ。

とまあ、言葉のことばかり書きましたけど、本作のオダジョーはなかなか良いです。あいかわらず、もけもけのVネックのニットが似合います。ベッドシーンも色っぽいです。ギドク作品はほとんど見ていますけど、おおざっぱに言うと相反(それは作品によって、対立だったり、陰陽だったり、表裏だったりする)と輪廻が根底にあるのかなと思いますね。本作のジンとランはジンが眠ればランが起きるということで分身の関係のように思えます。何だかよくわからない話ですけど、結局夢かよ、と断じてしまえない(もちろん、全ては現実という解釈もあるでしょう)、やはりギドクならではトリッキーな仕掛けが満載で、私は楽しかったです。