Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

どろろ

2008-10-16 | 日本映画(た行)
★★★★ 2007年/日本 監督/塩田明彦
「目指せ!日本のクリストファー・ノーラン」



「どろろ2」「どろろ3」まで決まっているんですね。何とも壮大な企画です。不気味な予感が漂う冒頭の30分くらいは、とてもいい感じです。やはり、興醒めしてしまうのは、土屋アンナ扮する蛾の妖怪の出来映えのひどさ。「PROMISE」の悪夢再びで頭を抱えました。エンドロールを見ていましたら、複数のVFX担当デザイン事務所とスタッフが出てきます。これは、「1クリーチャー=1デザイン事務所」の分業性ということでしょうか。やはり、エンタメ大作は総合的なタクトを振る力量がモノを言います。いっそのこと、全体のVFXを統括する腕のいい監督を別に置いた方が良いのかも知れません。「ピンポン」「ICHI」を撮った曽利監督あたりがやってくれないものかしら。

そして、戦国時代を思わせる日本が舞台であるならば、やはり「殺陣」シーンのクオリティも、もっともっとあげないといけません。ワイヤーよりもむしろ、チャンバラとしての醍醐味。ここを追求するべきでしょう。ハリウッド大作がアクション監督に力を発揮してもらっているように、これまた担当監督に頑張ってもらわねばなりません。だってね、昨日何気に見ていた「パチンコ・暴れん坊将軍」の15秒CMの方が遙かに殺陣がカッコイイんですよ。これじゃあ、いけません。

そして、音楽。「DEEP FOREST」を思わせるループ系ハウスや、エジプシャンリズムに三味線のアレンジを加えたものなど、無国籍なビートが非常にいい感じです。なのに、なぜか次の対決シーンはフラメンコギターばりばりのラテンサウンド。なんなんだ、この脈絡のなさは。「ダークナイト」や「ワールド・エンド」を手がけるハンス・ジマーばりに音楽だけでも世界観が作られたらなあ…。というわけで、大作ならではの分業制をうまくまとめきれなかった、これに尽きるのではないでしょうか。

しかし、作品全体に流れるムードは決して悪くありません。現代の娯楽大作の潮流ど真ん中である「親殺し」「巡る因果」「血の継承」と言った暗いテーマは、気味の悪い絵作りを得意とする塩田監督にぴったりの素材だと思います。水槽に浮かぶ包帯でぐるぐる巻きにされた赤ん坊など、冒頭の赤ん坊の再生シーンは塩田監督らしさを発揮しています。そして、殺伐とした荒野、セピアトーンの映像。妖怪が出てこないシーンは、十分に世界観を作っている。駄目なところがはっきりしているわけですから、次回はこれを修正すればいい。バットマンシリーズで自分の個性を存分に発揮している、クリストファー・ノーランを目指せばいい。少女の魅力を引き出すのが巧い塩田監督。今後のポイントは、柴咲コウをどう料理するかでしょう。私は次作に期待します。


ぐるりのこと

2008-10-15 | 日本映画(か行)
★★★★☆ 2008年/日本 監督/橋口亮輔
<京都みなみ会館にて鑑賞>

「静かに強く生きたい。このニコイチ夫婦のように」



私にとっては、「歩いても、歩いても」と、この「ぐるりのこと」が公開前から楽しみにしていた作品。とても良かったです。

バブル期以降、世間を賑わせた有名殺人犯が次々と出てきます。この法廷シーンの異様さが淡々とした夫婦物語と馴染まないと感じられる方もいるかも知れません。しかし、これなくしてこの映画は語れないのだろうと思います。妻、翔子(木村多江)は子どもを亡くしたことをきっかけに精神を病んでいくのですが(これが流産なのか、産後に何か不測の事態があったのかははっきりと描かれていません)、それは同時にすさんでゆく日本という国そのものに呼応している。または、そのものかも知れないと感じました。

夫のカナオ(リリー・フランキー)は、何をしても頼りなく、自分の意思を口に出さない男。そこらへんのおねえちゃんにすぐちょっかいを出す、なまっちろい男として、終始描かれてゆきます。しかし、このカナオのキャラクターの描かれ方は実に表面的なものです。何年もの間、翔子のそばで何も言わず、「ただひたすらに寄り添っているだけ」のカナオ。何もしない彼に対して翔子は時に苛立ちを隠せないのですが、本当は「ただそばにいること」ほど強いものはないのではないかと思うのです。

映画の終盤、カナオの父親は自殺していたことが明らかになります。そんな父親を「逃げた」と捉えているカナオ。しかし、彼は子どもの頃の傷をおくびにも出さず、飄々と振る舞い、翔子から逃げません。「ハッシュ」以降、精神的に鬱な状態だったという橋口監督。その姿は一見して妻・翔子に投影されているように感じられます。しかし一方、自身のトラウマから逃げず、翔子を見守り、夫婦の小さな希望に向かって、わずかでも歩みを止めないカナオにも、また映画を撮ろうという熱意が生まれた橋口監督自身が投影されているように思えるのです。

結局、翔子とカナオは、一心同体、または一個の存在ではないでしょうか。この夫婦はバラバラなのではなく、補い合うことで、ひとつのものとして存在している。夫婦は互いに支え合うもの、という事ではありません。ふたつでひとつ。このニコイチな夫婦の姿は、橋口監督自身でしょう。そしてまた、このすさんだ現代を生きていかねばならない、我々一人ひとりの日本人の心の在り様を示しているのではないでしょうか。落ち込んでもいい。でも、逃げないで。じっと待って、踏み出せる時が来たら、その一歩を前に出そう。

さて、主演のリリー・フランキーが、すばらしくいいです。あの柄本明としっかりスクリーンの中で馴染んでいます。また、時代を揺るがせた殺人犯を数多くの有名俳優が演じているのも見どころ。幼女殺害犯、宮崎勤を加瀬亮、お受験殺人犯を片岡礼子、連続児童殺傷犯、宅間守を新井浩文。そうそうたる顔ぶれですが、やはり目を見張るのは加瀬亮です。被告人席の彼の演技が未だに頭から離れません。他にもカメオ出演として、たくさんの有名俳優が出てきますし、記者役が柄本明で母親が倍賞美津子ですから、実はこの作品ものすごく豪華な顔ぶれなんですね。これも、橋口監督の器量の成せるところでしょうか。

最後に、とても長回しが多いです。夫婦がくだらない会話をしているシーンは、ちょっとやりすぎだろ、と飽きちゃいましたが(笑)、妻が本心を語り、抱き合うシーンは良かった。「キスしようと思ったけど、おまえ鼻水出てるよ」。まるで、本物の夫婦を見ているようでした。

容疑者Xの献身

2008-10-14 | 日本映画(や・ら・わ行)
★★★★☆ 2008年/日本 監督/西谷弘
<TOHOシネマズ二条にて鑑賞>

「今回ばかりはフジテレビの我慢ぶりを称えたい」


なんと、なんと、出来映えは、予想以上。ちょっと意外なほど。確かにドラマ『ガリレオ』の様式は残していますけど、かなり原作を重んじました。これ、大正解。今回、フジテレビはずいぶん我慢したんじゃないでしょうか。

冒頭、ドラマ同様、犯罪を立証する大がかりな実験から幕を開けます。これは、もろドラマファンサービス。でも、つかみとしてはアリでしょう。非常にワクワクします。以降、物語が動き始めてからは、石神(堤真一)と花岡靖子(松雪泰子)のふたりの関係に完璧にシフトします。冷静になって考えると、いくらドラマがヒットしたとはいえ、直木賞受賞作の映画化。もしかしたら、観客の比率は原作ファンの方が多いかも知れません。原作をいじれば、読者からの反発は大きかったでしょう。

それにしても。この映画の主役は、堤真一でしょう。この役、彼じゃなかったら、どうなってただろうと思います。確かに原作の石神はルックスの冴えない醜い男として描かれていて、堤真一とはギャップがあります。しかし、もしこの役を原作通りの見た目の俳優が演じていたら、それこそイケメン福山雅治ひとりが浮いてしまって、ドラマ的軽薄さが増したでしょう。あくまでも、福山雅治とタイマンを張る俳優ということで、堤真一にしたのは、とても賢い選択だったと思います。原作読んでるのに、ラストシーンは、かなり泣いてしまいました。また、松雪泰子もとてもいいです。最近多くの話題作に出ていますけど、「フラガール」より「デトロイト・メタル・シティ」より、本作の彼女の演技の方が引き込まれました。。

映画館を出てから息子に「あのシーン、なかったなあ。あの、ヘンな数式、その辺に書き殴るヤツ」と言われて気づきました。確かに。小学生の息子がヘンだと言うのですから、あれを映画に入れていたら台無しだったでしょうね。湯川先生(福山雅治)と内海(柴咲コウ)の関係にしても、あのフジテレビですから、ほんとは恋愛関係に持って行きたいところじゃないかと思います。しかし、我慢しましたね。「友人として」話を聞いてくれ、と湯川先生に言わせて、それをはっきりと表明しています。まるで「このふたりのキスシーンは我慢しました」というフジの製作者の無念の声が聞こえてくるようです(笑)。

結局、原作の力が大きいのです。そして、それは良い原作なのだから、それでいいのです。個人的には東野作品は「白夜行」のような重い物語の方が好きです。「容疑者Xの献身」が直木賞を取ったときも、正直これより前の作品の方が面白いのあるじゃん、と思いましたしね。でも、映画化ということで考えれば、この作品は向いているのかも知れません。数学VS物理の天才、という構図だとか、アリバイのトリックとか。確かに見終わって、あのショットがとか、脚本が、といういわゆる映画的な感慨もへったくれもないわけです。ただヒットドラマの延長線上で作った、というノリは極力抑えようとしたことが良かった。よって、ドラマファンの息子はもちろん大満足、そして東野ファンのオカンもそこそこに満足、という両方のファンをそれなりに納得させたことにおいて、今回ばかりはうまくフジがバランスを取ったな、と思います。 1本のミステリー作品としても、秀作ではないしょうか。

ルネッサンス

2008-10-13 | 外国映画(や・ら・わ行)
★★★★ 2006年/フランス・イギリス・ルクセンブルク 監督/クリスチャン・ヴォルクマン
「モノクロームの美学」


モノクロームの美しさに酔いしれました。最初はモーション・キャプチャーなる技術を駆使した人物たちの動きに目を奪われるのですが、案外それは見ているうちに慣れてきてしまいます。むしろ、強烈に惹かれるのはシンプルなワンカット。特に、光と影のコントラストが鮮やかな人物の横顔です。主人公カラスが思慮深げに雨降る夜の街を眺める。その時、スクリーンの右半分は真っ黒で、左半分にはカラスの横顔の輪郭と小さな雨粒しか映っていない。この圧倒的に情報の少ないモノクローム画面が美しいことこの上ないのです。モノクロ好きには、堪らないカットが満載でした。日本の切り絵がふと頭をよぎったのは、私だけでしょうか。

また、街の全景や小物のディテールが、この手法だからこそ違和感なく見えます。例えば、空中に現れる小型モニター画面。最近のハリウッド映画でもよく出てきますが、どうしても嘘っぽいんです。でも、このメタリック・モノクロームの世界では、未来の乗り物も尖塔のような建物も小型のハイテク機器も、その存在感がとてもリアルで臨場感豊かに映ります。

物語が似ているからと、SF映画の金字塔と言われる「ブレード・ランナー」と比べるのは、ちょっと酷な気がします。近未来映画の新たな表現方法として十分に評価されるべき作品ではないでしょうか。すでに何でもアリとなってしまったCGで誤魔化したハリウッドの近未来大作を見るより、よっぽどお勧めできます。エキセントリックな美しさを堪能しました。




怪談

2008-10-12 | 日本映画(か行)
★★★★ 2007年/日本 監督/中田秀夫
「愛するが故に呪う」



中川信夫を代表する日本の怪談物を受け継いでいくことは、とても大事だと痛感しました。いくらJホラーが海外で人気であろうと、愛するが故に呪うといった昔ながらの情念の世界は、日本人でなければ共有できない精神性です。そこで、やはり主演の尾上菊之助です。物語の冒頭、新吉が煙草を売るため太鼓橋の向こうから「きざみ~たば~こ~を~よ~」と声をあげて現れます。歌舞伎役者独特の伸びやかな声、これが江戸の街にパシッとはまっているんですね。これから始まりますよという掛け声のようです。もし、これがモゴモゴした喋りで喉を鍛えていない俳優では一気にしらけること間違いないのです。

相手役の黒木瞳もいいです。歌舞伎に対向できるのは宝塚。様式美の世界で生きてきた者同士だから、うまくいったのかも知れません。腫れ物に苦しみ畳の上を転げ回る様を俯瞰でとらえるシーンなんか、すごくいいです。私は黒木瞳は好きな女優ですが、最近やたらと若作りなママ路線で嫌味な感じでした。本作は、顔が不気味に腫れ上がり熱演していますが、もうひと声、初心に返って脱いで欲しかったなあ。それでも、フジが作った「大奥」のように人気俳優がドラマの延長でやっているような違和感がほとんどないのは評価に値するのではないでしょうか。むしろ、津川雅彦の時代がかった演技が却って浮いて見える。若手キャストでしっかりと世界観を構築できていると思います。

オーソドックスな時代劇の有り様を崩さずに物語は最後まで進みます。観客を驚かせるような突飛な演出も敢えて控えているようです。中田秀夫監督が「怪談」を撮ったように、石井克人監督は「山のあなた」を撮ったのでしょうか。着物、日本家屋、日本情緒のすばらしさを常に映像化していないと、いつの日か忽然と私たちの目の前から消えてなくなる。そんな危機感を感じる監督が多いのなら、これは歓迎すべきことかも知れません。やはり、良いものは良いのです。残さねばならないのです。ぜひ怪談2を企画して欲しい。この世界は、別にハリウッドにリメイクなんぞされなくても一向に構わない。我々日本人だけで楽しむべきものです。





口裂け女

2008-10-11 | 日本映画(か行)
★★★★ 2006年/日本 監督/白石晃士
「私も乗りうつられないようにしなければ」




あれは、まだ息子が1歳前後の頃でしょうか。離乳食の皿をそこいらにぶちまけ、机の上でぐずりまくり、ぎゃあぎゃあと泣きやまない彼をぶったことがあります。おそらく締め切り前で私もイライラしていたんでしょう。ぶった直後に自分自身が情けなくなり、涙が止まりませんでした。母親なら誰しもこんな苦々しい記憶があるはずです。

ですから、この作品。子育て経験のある女性は、薄ら寒いものを感じるに違いありません。それは、口裂け女が「どんな母親にも」乗り移ってしまうからです。映像としての恐ろしい描写よりも、どんな母親でも口裂け女になりうる、ということの方が恐ろしかった。乗り移られること=自分の手で我が子を殺すことになるわけですからね。最後に首を落とされた母親なんぞ、それまでの虐待のために罰を受けたかのようです。心を入れ替えたにも関わらず。

口を裂かれたり、殺されたり、子供たちが酷い目にあいますので、人にお勧めする類の作品ではありません。ただ「口裂け女」という都市伝説は、ポマードと言えば消えるとか、猛スピードで走るとか、ギャク漫画のキャラクターのような存在になりつつあったと思います。それが、児童虐待という社会問題を絡めて、これほど陰鬱な作品にしあげた、その発想の転換ぶりには感心します。例えば、松本清張の「鬼畜」とか、貴志祐介の「黒い家」なんかも、見せようによってはホラーになりるということですね。(と思って今調べたら「黒い家」は韓国でホラーになってました。森田作品しか観てませんが、これは原作を変えているんでしょうか)

児童虐待をホラー仕立てにすれば、問題作になるのは必然です。しかし、映画を凌駕するような事件が現実に起きていることを考えれば、この手の作品は全くの作り話としてのホラーとはまた違った新ジャンルのようなものなのか、という気もします。日頃ホラーはあまり見ませんのでわかりませんが、そういうジャンルがあるとしたら、気が滅入りますので続けて何本も見られませんね。いずれにしろ子役たちが心配なので、撮影後のケアは十分にお願いします。


鰐~ワニ~

2008-10-10 | 外国映画(や・ら・わ行)
★★★☆ 1996年/韓国 監督/キム・ギドク
「デビュー作の佇まい」



少々荒削りでも、はっとするカットの美しさがあれば許せてしまうことがあります。本作のそれは、ラストにありました。川底に沈んだソファに手錠をはめた二人が肩を並べて死んでゆくシーン。ギドクらしい美意識が如実に表れたラストだと思います。死んだ人間の金品を剥ぎ取るような人間性のかけらもない男ヨンペが、かくも美しい死に様を遂げることができたのは、自ら陵辱した女から赦しを得、愛に目覚めたからではないでしょうか。クリスチャンであるギドクらしい展開であるのはもちろんですが、より広い意味での「救い」を描いた作品と言えると思います。

正直、このラストシーンに至るまでは粗さばかりが目について、なかなかこの特異な世界に感情移入できませんでした。ヨンペの無軌道ぶりに対してそれほど嫌悪感を抱くこともなく、ぼんやりと眺めているような状況で。後の「悪い男」では、殴りたくなるほど主人公への嫌悪感を覚えましたので、やはり作品を作るごとに腕をあげたということなんでしょう。

橋の下の生活で、絵を描くシーンや彫像がアイテムとして使われており、今なお脈々と引き継がれるギドクの芸術精神がうかがえます。と、申しますか、近作「絶対の愛」でも彫刻は欠かせない存在ですから、逆に言うと変わってないない部分、表現の一貫性に触れることができた、とも言えます。とことん振り子を片方に振って、その対極にある揺るぎないものや美しいものを描き出す、そんなギドクスタイルも不変。荒削りだけど、芯の部分は今なお現在に引き継がれている。これぞデビュー作という佇まいの作品。

月光の囁き

2008-10-09 | 日本映画(か行)
★★★★★ 1999年/日本 監督/塩田明彦
「2人だけの世界」


素晴らしいデビュー作です。原作の漫画は読んでいませんので、そのSM嗜好がどの程度作品に反映されているのかわかりませんが、これは見事に私の大好きな「一途な愛を受け入れる」物語なのです。周囲の人間がどんなに歪んでいると捉えようと、女がそれをかけがえのない愛だと感じるのならば、それに全身全霊で応えようとします。その瞬間、ふたりの間には誰も足を踏み入れぬことができない完璧な関係性が完成するのです。

結局、頑ななのはマゾヒストの拓也の方です。どうあがいても、彼は自分の愛し方を変えることはできない。SMの関係は、Mが奉仕しているのではなく、本当はSがMに奉仕しているのです。大けがを負った拓也に何度もジュースを買いに行かせ、いらないと撥ね付ける紗月。愛を受け入れた紗月の姿は感動的です。そして、川べりで寄り添うふたり。この一連のラストシークエンスは、愛の受容を映し出す素晴らしいエンディングだと思います。紗月はなぜか眼帯をしています。確かに滝壺で目の下に傷を負いましたが、眼帯をするほどのものだったでしょうか。これは、眼帯の女と松葉杖の男、というラストカットにしたかった監督のこだわりかも知れません。

前半部は、これぞ青春という淡い恋物語のように見せておいて、トイレの盗聴マイクという実に低俗な行為によって、晴れやかな恋模様がズドーンと一転、様相を変えて動き出す。この辺の進行具合も巧いです。また、舞台は香川県で登場人物たちの話す方言がすごくいいです。標準語なら、これだけ生々しい感じにはならなかったでしょう。主演のつぐみと水橋研二もすばらしくいいです。

このデビュー作はもちろんのこと、他作品を見ても塩田監督が足フェチだと言うのは想像に難くありません。本作のつぐみ、「害虫」の宮崎あおい、「カナリア」の谷村美月。どの主演女優もすらりと長い生足をぞんぶんにさらけ出しています。以前私はアニメ「時をかける少女」で長い生足に嫌悪感を覚えると書きましたが、不思議と塩田作品には全く感じません。それは彼が描く少女たちの存在がとてもリアルだからでしょう。細くて長い生足が、彼女たちの危うさ、力強さ、美しさなど実に多彩な面を引き出している。世のオヤジどもが少女幻想を抱く時にまっさきに思い浮かべる生足とは、むしろ対極の位置にある。そんな風に感じられるところが、私が塩田作品に惹かれる大きな要因かも知れません。

クライマーズ・ハイ

2008-10-08 | TVドラマ(日本)
★★★★☆ 2005年/NHK
「原作に忠実で面白い、ということに価値がある」


これから、映画版を見に行こうと言う方に水を差すわけではないのですが、NHKによるテレビ版は、原作のクオリティをそのまま保ったドラマと言えます。この作品のおかげでNHKのドラマって面白いじゃないかと思い直し、「ハゲタカ」にもハマりました。

私は横山秀夫の作品は、ほとんど読んでいるのですけど、警察物は今イチなんですよね。やたらと暗いし、署内の人間関係の駆け引きがメインで、警察業界をあまり知らない人間としては、興味をそそられるものがあまりなくて。でも、この「クライマーズ・ハイ」は、新聞記者の日常を知らない私のような人間でも、この未曾有の事件の中で、様々な思惑が行き来する緊迫感が最後まで持続して、読後の満足感がすごく高かった。読み終わって、はぁはぁと肩で息をするような感じでした。

で、このドラマ版は原作に忠実に作られています。ここがポイント。横山秀夫ってね、案外原作通りに映像化するとつまらないものになることが多い。その最たる物が「半落ち」です。これは、本当に失敗でした。横山作品は登場人物たちの心理合戦が醍醐味の一つで、「これ」という具体的な映像で説明できるものでもありません。今アイツは何を考えているのか。なぜアイツはこんなことをさせるのか。目の前の人物の裏側を想像させるような作りにしないと、横山作品の本当の面白さは伝わらない。そこで、大切なのは一体何だろう、と考えたのですが、まず第一に下手なエンタメ風にしないってことです。そして、演出の粘り強さだと思います。キレイに撮るとか、テンポ良く収めるということよりも、ねちねちと人物の懐に入り込むような粘り強い演出が焦燥感をあぶり出すんではないでしょうか。

ドラマは前後編で、150分。映画館で150分と言えば、なかなか長編で疲れますけど、これは一気に見てしまいます。今ならレンタルできますので、前後編セットで借りてぜひどうぞ。

「エロ事師たち」より 人類学入門

2008-10-07 | 日本映画(あ行)
★★★★★ 1966年/日本 監督/今村昌平
「エロと美しさと品格と」



これまた大傑作。原作は、野坂昭如。エロ事師というのは、文字通りエロに関することなら、何でも商売にしている男。素人を連れてきてポルノを撮ったり、いやらしい写真をお堅いサラリーマンに売りつけたり、それはもうエロを尽くして生きぬいている、それが主人公スブやん(小沢昭一)。

人類学入門というタイトルからも窺えるように、スブやんを取り巻く人間どもを、まるで生態観察しているようにカメラは捉え続ける。これは、前作の「にっぽん昆虫記」と同じ。馬鹿で情けなくて非道の限りを尽くしている人間どもを遠くから客観的に眺めているようなロングショットが多数見られる。例えば、スブやんが会社の会議室でエロ写真をサラリーマンに売りつけているシーンは明らかに隣のビルからのショット。こうして、彼らと一定の距離を保ちながら、冷徹に見つめる手法で、人間の愚かさを際だたせている。しかし、目の前で繰り返されるのはあまりにも情けない人間模様でありながら、作品自体には品格のようなものすら漂う。それは、ロングショットを含め、そこかしこで見られるモノクロームの美しいカットが作品を彩っていること、前夫の形見として飼われているフナ(後の「うなぎ」に繋がっていると思われる)など様々なメタファーが作中で導入されていることなど、今村昌平のセンスと知性が全編にあふれているからだろうと思う。

こういっては失礼だが、坂本スミ子が布団の上に倒され悶えるシーンのアップなんて体して美人でもないのに、何と妖艶に見えることか。今村監督は、紅潮した頬というのがどうもお気に入りのようで、「赤い殺意」でも春川ますみのぷっくりした頬を非常に美しく撮っている。男に迫られる女の「ほてり」をこれだけ見事に表現できる監督は、他にいないと思う。

スブやんは内縁の妻の娘(中学生!)と寝てしまうし、その妻にしたって結局娘のレイプを容認してしまうし、ポルノの現場に自分の娘を差し出す男優だっているし、どいつもこいつもあきれてモノが言えないような奴ばっかり。ただ、そこに渦めくエネルギーたるや圧倒的で、「生」と「性」が渾然一体となって人間がそもそも持っている原始的な情熱とか、生きていくための狡猾さなんかが、まざまざと迫ってきて、本当にパワフル。ディスコミュニケーションだの、引きこもりだの、他人との距離をどう取ればいいのか悩んでいる現代にこういう作品を見ると、さらに感慨深いものがある。

スブやんのラストは、原作と違うらしいが、これまた今村監督らしい粋なエンディングだと思う。インポになって、娘や息子からも疎まれ川べりのぼろ船で生活するスブやんが最後に選んだ仕事は世界一のダッチワイフ作り。「陰毛を1本1本埋め込むんや」と言い、人形に向かうスブやんは狂っているようにも見えるし、崇高な仕事に携わる職人にも見える。そんな彼を乗せたぼろ船は、停泊中の川岸からいつのまにか縄がちぎれ、大海原へ。海上でぷかぷかと儚く浮かぶ船の中で陰毛と格闘するスブやん。嗚呼、人間とはなんと滑稽な生き物か。そして、船を捉えた映像が、冒頭の8mmフィルムへとつながり、それを馬鹿話しながら眺めるスブやんを映す。今村監督、巧すぎます。

秘密結社 鷹の爪 THE MOVIE ~総統は二度死ぬ~

2008-10-06 | 日本映画(は行)
★★★★ 2007年/日本 監督/FROGMAN
「余裕でかます自虐の面白さ」



説教ぶっこいたり、世界を憂いたり、そういうアニメって本当に苦手。それに最近映画館で、ぽ~にょ、ぽにょ、ぽにょって声を聞くと背筋が「さぶっ」ってなるんですけど、そういう人でなしは私だけなんでしょうか。

さて、この鷹の爪団。TOHO系のシネコンで予告前にお目にかかって以来、このユルユルムードの面白さが気になって、気になって、ついに映画を見てしまいました。FLASHアニメだから低予算。まさにアイデアとセンスで勝負しているところがすばらしい。この面白さの元って、徹底的な自虐なんですね。

予算がないという自虐と、世界征服という野望の前に何をやってもダメな総統の自虐。つまり、作り手もストーリィ中の人物も「俺らはダメダメだぁ~」って言いっぱなしなワケです。ところが、ダメな割には余裕しゃくしゃくのムードが漂っています。駄目なヤツのひがみやねたみを第三者が見て爆笑できる。それは、紛れもなく笑い飛ばせる余裕が作り手にも観ている側にもなくてもダメで、非常に高度なコメディではないかと思ってしまいました。

本編に集中したい作品ならば、予算ゲージの上昇と降下なんて、邪魔になってしょうがないですよ。もし、これが他の作品についてたら、どうです?絶対気が散りますって。この作り手側の勝手な事情が、本編アニメにもきちんと溶け込んでいて破綻していない、ということも凄いなあと思うわけです。

各種有名映画のパロディってのは、文字通り大人の映画ファンへのサービス。そして終盤、予算がなくなり効果音も出せなくて、口で「ババーン」とか言いながら戦うシーンでは小学生の息子が腹を抱えて大爆笑。大人のツボにも子どものツボにもしっかりハマる。これは侮れません。

カナリア

2008-10-05 | 日本映画(か行)
★★★★★ 2004年/日本 監督/塩田明彦
「複雑な感情が私の中でせめぎあう」



あまりに語りたいことが多い作品で困ります。まず「黄泉がえり」というミーハーキャストの大作を撮った後で、このような暗くマイナーな長編、しかも実に感動的な傑作を撮ったことが素晴らしい。ひとりの映画監督としての「ぶれのなさ」を強く感じます。

オウム真理教については、我々はまだまだ何のケリもつけていないと、強く思っています。あの事件を検証することも、熟考することも、反省することも、何もしていない。確かに本作の軸となっているのは、過酷な状況に置かれた少年と少女の生き様であります。親の身勝手で追い詰められる子供たちを捉えたストーリィは数多く存在しますが、やはりそれがオウム真理教であることで、私は再びあの事件の矛盾を深く考えざるを得ませんでした。教団内の様子など、本当はどうだったのかとも思います。しかし、一も二もなく描くことそのものが大事なのであり、またこのテーマに対して塩田監督が真正面から取り組んでいる覚悟が全編からびしびしと伝わり、それがとても感動的でした。

さて、「害虫」で感じた関西弁の「生」のイメージを、本作で再び感じることになるとは思いもしませんでした。谷村美月演じる少女の関西弁は、由希という少女の生きるエネルギー、タフさを象徴しているように思えてならないのです。由希という少女が発する全ての台詞は、光一の世界観を揺さぶる「リアル」そのものです。虚飾に満ちた光一の道しるべにざくざくと音を立てて切り込む由希の剥き出しな生が、実に印象深く心に残ります。力強く、生々しい谷村美月の演技を見て、関西弁という共通点もあるのでしょうが「大阪物語」でデビューした池脇千鶴を思い出しました。とてもいい女優です。

ラスト、絶望の淵に追いやられた光一が、ある衝撃的な変化を宿して、由希の前に現れる。それは、まさに生まれ変わりを示唆する劇的な変化なのですが、この展開にはやられました。エンディングらしい衝撃と言っていいでしょう。子どもを描く映画のラストは、希望であって欲しいと「害虫」のレビューでも書きましたが、手と手を取り合い、生きると宣言した彼の行く末は、一見希望があるように思えます。ですが、一方あの彼の姿、そして祖父にかけた言葉「我は全てを許すものなり」というセリフを見るに、あの忌まわしい教団の教え、彼の母親がそうなりたいと願ってやまなかった「解脱」の境地に達したかのようにも見えてしまい、苦々しい思いが私の心を満たすのです。最初から最後まで、様々な割り切れぬ思いが心を占めます。しかしながら、私にとっては非常に吸引力の強い魅力的な作品でした。目をそらさずに見るべき映画だと私は思います。

黄泉がえり

2008-10-04 | 日本映画(や・ら・わ行)
★★★★ 2002年/日本 監督/塩田明彦
「したたかな塩田監督」



本作は、純愛だとか、ファンタジーとか、そういうカテゴリーのものでしょうか。多分にそれは、主演が竹内結子であったり、柴崎コウのライブシーンと共に無数の光が夜空を流れるようなシーンがラストを飾るためであり、正直私はこれはホラーだな、と強く感じたのです。だって、実に気味の悪い演出がそこかしこに見受けられますから。まず主演の草薙剛の存在がとても不気味です。死んだ人が蘇ると言う現象に対して何の驚きも見せず、淡々と調査を続けます。色白で頬のこけた草薙剛が焦点の合わない目線でぼんやりを何かを見つめるようなカットが多々あり、まるで彼が幽霊のように見えます。スクリーンに誰もいないというシーンも多いですし、カメラの並行移動もじっとりとしています。哀川翔が再び死後の世界に引きずられるCGでも、顔がぐにゃりと変形する様にぞっとしました。

また、音楽が少ないことで、ラストの柴崎コウのライブシーンが生きているわけですが、それが本来の目的ではないような気がします。やはり、前半部の気味悪さは、圧倒的な物語の省略から生まれているのですが、音楽を入れないことも、その省略の一環だと思えるのです。

ゆえに、これだけミーハーな俳優陣を集めてもなお、自分らしい演出を貫いた塩田監督に映画監督の気骨を感じました。ジャニーズ絡みで、テレビ局資本の大作で、おそらく妥協しなければならない部分は多かったと思いますが、それでもなお、しっかりと監督の個性が生きていますし、一方以前の塩田作品なんぞ見ていない人々にとっても「ファンタジー感動作」としてのカタルシスはちゃんと与えられているのですからね。これは、凄いことだと思います。この辺のファンタジーテイストのうまい取り込み方は、脚本が犬童一心ということも大きいのかも知れません。自分の撮りたい作品と、ヒットさせねばならない大作物。その両者の間をうまく泳いでいますね。「ありがとう」を撮った万田監督もしかりでしょう。

クィーン

2008-10-03 | 外国映画(か行)
★★★☆ 2006年/イギリス・フランス・イタリア 監督/スティーヴン・フリアーズ
「ぬぐい去れぬゴシップ感覚」



イギリス女王の孤独と誇りを訴える。これ、ダイアナ死後の約1週間という短い期間では、いささか時間不足ですね。それに、彼女の焦燥の火種となる描写に、当時のニュース映像をインサートするという手法が、ちょっとずるいなと思う。事実として説得力はあるかも知れないけど、それを使わずに表現してこそ、もっと上質な映画になったのではないかと思うのです。

結局、この作品を見るに、イギリスではダイアナなくしてイギリスの王室は語れない、ということ。ですからむしろ、ダイアナの何がそこまで国民の心を捉えたのか、という方に興味が湧きます。そして、鑑賞後そのような感想を持ってしまうこと自体、女王そのものを描ききれなかったという欠点を露呈しているんではないしょうか。

ただね。前半部は結構興味津々で見ました。これ、ひとえにゴシップ心が満たされるからなんですね。ダイアナが亡くなった時、王室ってこんなんだったんだ、なんて。だから、ダイアナを取り巻くメディアだとか、それを利用するブレアだとか、まるで「週刊女性」を読んでるような感覚になっちゃうんです。そこんところがね、(冒頭述べたニュース映像もそうですけど)最終的に王室の威厳とか尊厳に落とし込めない大きな障害じゃないでしょうか。そして、このゴシップ感覚が最後まで抜けきらない作品で最優秀主演女優賞?と言う気がします。

女王の気持ちは理解できます。「なぜ、あの女ばかりがもてはやされる?」慎ましやかに伝統を守って生きるより、メディアに出て批判する方がよっぽどラクですもんね。でも、彼女の心の奥底には、何が渦巻いていたのでしょう?ダイアナへの嫉妬か、国民への失望か、理解者を得ぬ孤独か。その辺、もっともっと研ぎ澄ませて欲しかった。意を決して、バッキンガム宮殿に降り立つ彼女の後ろ姿に、もっと心の奥底から込み上げるような感情を味わいたかったのにできませんでした。

ハーヴェイ・ミルク

2008-10-02 | 外国映画(は行)
★★★★ 1984年/アメリカ 監督/ロバート・エプスタイン リチャード・シュミーセン
「これもまた、銃社会アメリカの一面」




ゲイやマイノリティの差別撤廃に尽力したサンフランシスコの市政執行委員ハーヴェイ・ミルク。彼の命はひとりの白人同僚議員によって奪われる。ゲイという差別の元の殺人、その事実に身もよじれる哀しさがあふれるドキュメンタリーかと思えばさにあらず。これは、「ボウリング・フォー・コロンバイン」同様、アメリカの銃社会の悲劇とも捉えられる作品ではないだろうか。

関係者のインタビューを元に事実ベースで進行する物語。観客に感傷的な気分やゲイ差別者への嫌悪を抱かせるような小細工は一切なく、淡々と進む。しかし、彼が初当選した1977年以降、つまり今から30年ほど前のアメリカのゲイを取り巻く環境がどのようなものであったのか、初めて知る事実が多く、とても勉強になった。そして、彼はゲイだけではなく、中国人コミュニティなど、マイノリティの人権のために戦い、法案作りに精を出す。その彼の行動力は、ゲイだけではなく多くの人々の信頼を得るように。つまり、ハーヴェイ・ミルクはひとりの政治家として大衆の支持を受けていたのだ。そんな彼が凶弾に倒れる。実にあっけなく。

そして、その後の裁判では犯人であるダン・ホワイトに同情票が集まり7年8ヶ月というあまりに軽い刑が言い渡される。大衆から指示を得ていた市議と市長があっと言う間に射殺されてこの世を去るということ。そして、白人で固められた陪審員が白人優位の評決を出すと言うこと。本作はゲイの活動家の偉大さにスポットをあてつつ、アメリカの歪みを「銃」と「陪審員制度」という実にアメリカ的なテーマで鋭くえぐっている。

現在、ガス・ヴァン・サントがハーヴェイ・ミルクの映画を撮影中だとか。ミルクを演じるのは、ショーン・ペン。どんな作品になるのか、とても楽しみだ。