落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

遠い太鼓に誘われて

2009年02月20日 | diary
Always on the side of the egg   By Haruki Murakami HAARETZ.com
【日本語全訳】村上春樹「エルサレム賞」受賞スピーチ 47NEWS
SHINZLOG - CLIPS 村上春樹の言葉(全文)  よりニュアンスがわかりやすい全訳

先日の記事の続き。というか今日の方が本題か。こないだはしょーもない思い出話しか書いてないもんね。
ぐりはブログでもどこでも在日コリアンという出自を明らかにしている。新しく知りあった人にも、機会があればなるべく早めに伝える。理由は、ぐりが日本名を名乗っていて(日本国籍だしね)日本人の側からはアジア人は見分けがつきにくいから、「ぐり=日本人」という無用の誤解を招かないため、そうした誤解がもとでお互いに無駄にイヤな思いをしないようにするためである。
こないだあるボランティアの若い人と話していて、「日本は拉致問題で北朝鮮を責めるけど、そもそも戦時中は日本が朝鮮の人を強制連行したんだから、まずその戦争責任を精算しないと」というようなことをいいだされてびっくりした。まあ在日コリアンや韓国人にもそういう考え方をする人はいるにはいるけど、日本人からそういう意見を聞かされるとは思わなかった。
ぐりが「ちょっと待って?それは別の問題じゃない?」というと、彼は「だって今も日本に強制連行の被害者や子孫はたくさんいるでしょう」という。
実際にはいわゆる強制連行、徴用で日本に連れて来られた朝鮮人は多くは戦後に帰国している。亡くなった人もムチャクチャいっぱいいたんだけどね。餓死とか病死とか怪我とかでさ。生きのびた人の大半はどーかこーかして帰国した。過去に在日コリアンにアンケート調査をしたところ、強制連行で来日した人は全体の2割程度だったというデータが出たこともある。ただ、強制連行そのものの厳密な調査研究は今のところ結論が出ていないので(うやむやのまま世紀またいでまーす)、この数字にも確定的な裏づけはない。どちらにせよ、現在日本に住む在日コリアンの来歴は、経済的事情=出稼ぎか留学での自発的な来日が多数派ということになる。ぐりの祖父母なんかは強制連行が始まるずっと以前に来日・定住してるから、そこのところの事情はいわずもがなでございます。

何がいいたいかってゆーと、つまりだから、どっちがいいとか悪いとか、どっちが加害者でどっちが被害者とか、そういう話の進め方は不毛だってことなんだよね。それいいだしたら終わんないじゃんよっていう。
要するにメチャ乱暴な言い方に替えちゃうとすると、多数派と少数派、強者と弱者ってことです。在日コリアンの問題だけじゃない。他の国籍の移動労働者(出稼ぎ外国人)、宗教を信仰する人、複雑な家庭環境を持つ人、性的マイノリティ、障碍者、犯罪歴のある人やその関係者etc.、世の中にはいろんな少数者がいる。細かいことをいいだせば「脛に傷持つ」人はみな少数者となる可能性すらある。そこまでいえば無傷の脚で生きてる人の方がむしろ少数になるかもしれない。
でもどんなに傷だらけの脚で歩こうとも、その傷ゆえに同情を必要とする人間はいない。かわいそうだとか気の毒だとかいう感情論は、裏を返せばそれもまた単なる差別意識と偏見の表れでしかない。少数者=被害者ではない。被害者であることはそのごく一面、一部分では真実だが、それだけをとりだして拡大解釈したところで何も生まれないのだ。

ではほんとうに必要なことってなんだろう。というときに使うべきメタファーが「壁と卵」なんじゃないだろうか。
ここまで来るのに話が長過ぎましたね。すんません。ふう。
村上氏は壁はシステム、卵は人間だといいました。壊れやすい殻の中に唯一無二の魂を持つ未成熟な存在という意味で、人種や宗教や帰属する社会を問わず人間はみな同じ卵だと。
そして壁はそんな人間がつくったものだ。村上氏ははっきり明言はしなかったが、国家とかイデオロギーとか宗教なんかがそれにあたるのかもしれない。それらはもともと、人間が人間同士、手を取りあって助けあって暮していくためにつくりだしたものなんだけど、いつの間にか人間はその壁を守るため、あるいは壁を口実に、傷つけあったり殺しあったりするようになってしまった。
当事者同士はお互いにあっちが悪い、これこれが間違ってる、なんて大義名分をもっている。でもその大義名分が互いにかみあわないのだから、正しいとか間違っているとかいう議論にはゴールがない。というかそれはもう議論にすらならない。争いが殺しあいに発展した時点で、どっちが正しいとか間違ってるとかいう議論には既に意味がないのだ。
だから壁のことは忘れて、卵は卵同士で心と心、魂と魂でふれあうしか方法はない。どんな壁に頼って暮そうとも、その内側にいるのはみんなもろくて不完全なただの生き物なのだから。
どっちが正しくてどっちが間違ってたって、そんなのどうでもいいんだよ。ようは卵は卵同士、いっしょにどう折り合って生きてくか、どうしたいかってことがいちばん大事なんだよ。

村上氏のスピーチはあっちでもこっちでも賛否両論いろいろあるけど、ぐりはふつうにいいスピーチだと思いました。
スピーチそのものはそんなに絶賛せにゃいかんほどのもんではないけどね(何様)。だって結局当り前のことしかいってないもん。けどその当り前のことを、みんなして止められたのをふりきってわざわざあそこまで行ってちゃんという、ってところがやっぱ村上流なんだよね。クールじゃないですか。ロックじゃないですか。それも「個人の自由や尊厳などをテーマに世界的に活動している作家に贈られる」エルサレム賞の受賞スピーチ。まさにその場に相応しいタッチでのメッセージ。オトナだ。
まあでもぐりがいちばんショックだったのは、「村上春樹(60)」というニュース画面のクレジット。あの村上サンも還暦かー!みたいな。本人もビックリかもしんないけどね。今でも夏はTシャツにショートパンツなのかな?
ぐりは彼の旅行記『遠い太鼓』が大好きなんだけど、この本にはタイトルの由来になったトルコの古謡が引用されている。

      遠い太鼓に誘われて
      私は長い旅に出た
      古い外套に身を包み
      すべてを後に残して

この本が書かれたのは1986〜89年、40歳になる前になすべきことをやりたいと思いたった村上氏が、ギリシャ・イタリア・オーストリア・イギリスなどヨーロッパを転々としていた時期である。
この間に彼は『ノルウェイの森』と『ダンス・ダンス・ダンス』という2篇の長篇を書き上げ、両方とも大ベストセラーになって彼をして国民的作家と呼ばれるようにまでなった。
思えば村上氏が一大決心で日本を出て行ったときと今のぐりは同い年にあたる。・・・・・・・・・・・・・・・。どうしよう(汗)。


中華街にて。瞳孔全開のペンギン。