ふくい、Tokyo、ヒロシマ、百島

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

広島宇品編 2 ~横川陸軍病院~

2010年06月11日 | 人生航海
それは、台湾や南支方面の何処かに集結するので、南方に向けていつでも移動できる態勢を整えて待機することになるだろうとの噂だった。

私は、宇品の運輸部官舎で当分の間休養する事になっていた。

その間に、健康診察を受けると、蓄膿症と診断された。

そして、三年間も支那に居たので、その慰労を兼ねて入院してゆっくり治すようにと言われた。

そうして、その通りゆっくりと入院する事になった。

だが、入院しても身体は元気なのである。

運輸部の人達からは、「永い間の疲れをしっかりと癒して来る様に」と言われたのである。

当時、戦時中にそんな事もあり、私は、とても嬉しく思ったのであった。

軍隊でも、こんな思いやりもあるものかと・・不思議に思ったぐらいであった。

私にとっては、生まれて初めての入院であり、また大きな病院であることにも驚いた。

初めて軍医の診察も受けて、当分の間様子をみると言う事になったのである。

百島の実家には、入院した事だけ知らせ、心配ないからと手紙を出した。

すると、祖父は、心配ないと言っても、入院と聞いて気になるのは当然で、老いた身で在りながら、病院を訪ねて広島の横川まで来たのである。

入院したと聞いて驚いた様子で、遠い支那の国まで行って働き、親の死に目にも会えず、可哀想な孫が帰って来たのにと・・。

交通の不便な島から、八十歳を過ぎた祖父は独り、船に乗り、汽車に乗り換え、電車に乗り継ぎて、逢いに来てくれたのである。

それだけでも嬉しかった。

当時の八十歳は、現在人の八十歳以上に随分老けていた。

広島宇品編 1 ~帰国~

2010年06月10日 | 人生航海
送別会の翌日、別れを惜しみ、揚子江を下った。

私は曳船に乗り数日後に上海に着いたが、早速、大型船の甲板に海上グレーンで吊り上げられて積まれた。

そして、四日目には、早懐かしの広島の宇品港に入港したのである。

そして、宇品に入港すると、目の前にある似島で検疫を終え、宇品の運輸部に復帰した。

転用軍属として、引き続き所属することになっていたのである。

当時の日本軍の行動は、全く知る由もなかったが、中国大陸でも陸軍部隊の移動が秘密裏に行われていた頃である。

既に、風雲急を告げ一触即発の時で、非常事態に至り、まさに真珠湾攻撃直前の太平洋戦争前夜とも言える時代だったのである。

広島は、古く日清、日露戦争の時代から大本営が置かれ、日本軍の玄関口としての役割を果たしてきた。

それ故、多くの軍人達が指揮を執り行ってきた処であり、広島の宇品港は、日本中から多くの兵隊や物資を戦地に送り出していた。

特に、陸軍の移動拠点であり、太平洋戦争でも先端基地として重要な港であった。

その宇品にいて、帰国早々早くも私達軍属にも何処かに移動するであろうという噂があったのである。

軍属時代 18 ~長江~

2010年06月09日 | 人生航海
昭和13年9月から昭和16年秋まで・・九江から安慶へと、三年間の歳月を揚子江流域で過ごし、若き日の想い出を多く残して、帰国の途に着く時が来た。

その前夜は、加藤班長主催で残留の人達から盛大に送別会を催して頂いた。

あの時の嬉しさは、今でも忘れずに時々思い出す。

過ぎしあの当時の事を思い出して振り返ってみると、揚子江流域で過ごした三年間に多くの人々に色んな知識を学ぶことが出来たのも、私の人生の基礎になったのかもしれないと思うのである。

そのため、今の私があると云っても、決して過言ではないだろう。

揚子江での数々の想い出は、いつまでも残したいものと思いながらも、再び訪れる事も出来ないであろう。

いろいろ多くの想いを揚子江すなわち長江に残したまま、私は、日本へ帰国したのである。

軍属時代 17 ~早春初恋~

2010年06月08日 | 人生航海
高速艇の繋留場所の岸辺に、いつも姑娘(クーニャン)達が洗濯に来ていた。

前にも述べたが、あの時に知った娘といつしか会話が弾み、慣れるに従い自然と親しくなっていた。

そのうちに気安くなって、石鹸や缶詰等を内緒にして渡していたが、彼女もまた何かを持って来るようになったのである。

そんな時期が当分続いて、気安さも増して、当時は珍しい羊羹や練乳等をそっと隠してあげると大変喜んで、次に会う時は、「シェシェ」と言って、また、何かを持って来てくれたのである。

彼女は、いつも銀細工の装飾品を身につけて、美しく清潔であった。

そんな楽しい日々の中で、いつしか誰が言うとなく噂されたが、勿論、私達の間には何もなかったのは当然であった。

戦時中のことでもあり、そんな事は、到底許されるものではなかったのである。

今思えば、あれが、早春時代に異国で咲いた一輪の可憐な清らかな花で、仄かに芽生えた初恋と言えたかもしれない。

そんな想いを残して、まもなく安慶を去る日が近づいたのである。

軍属時代 16 ~お国の為~

2010年06月07日 | 人生航海
休日には、多くの工員達は街に出て、食べて買い物等をして映画を観ていた。

その後、彼らは、街を歩きながら女性を求めて慰安所に行って遊んで、一日を過ごす事が楽しみだったらしい。

以前、私が、船に乗り始めた頃の日本の港町の遊郭や公娼街の話も述べたが、戦地でも何処へ行っても、多くの慰安所があった。

安慶にも多くの慰安所があり、一般の場所や日本人女性だけの将校や商社相手の料理風で高級な場所もあったのである。

その頃の私は、軍属のなかでも最年少者であり、そんな場所には行ったことがなかった。

ところが、ある日、加藤班長のお供で、そんな高級な場所に連れて行かれた。

加藤班長のいつも行く処のようで馴染みの女性もいて、私を連れて行ったのである。

「今日は、俺の子と一緒に来た」と班長が言ったので驚いた。

彼女が「本当にあんたの子なの?」と言って、私の顔をじっと見つめていた。

「あんた、歳は、いくつなの?」と聞かれた。

正直に「私は、十六です」と言うと、今度は頷いて「何しに、こんな支那まで来たの?」と聞いてきた。

私も負けずに「お国の為に働きにまいりました」と言うと、「感心だね」と言いながら笑ってくれて、沢山の菓子を出してくれたのである。

それから後にも、何度か連れて行ってもらい、いつも色々な菓子を出してくれて、ご馳走になっていた。

お国の為にである。

軍属時代 15 ~安慶~

2010年06月06日 | 人生航海
昭和16年春、転属した安慶においても一年が過ぎた。

毎日何事もなく、此処が戦地とは思えないほど平穏な日々が続いた。

月日は流れる如く過ぎ去ったが、同じ班の工員達は、いつもと変わらず、河岸での補強工事や作業、又は道路の整備などで相変わらず多忙な日々を過ごしていた。

しかし、作業は殆ど現地の中国人を使うので日本人の労働は少なく、班長や現場での責任者の指示通りの段取りや指図が主な仕事だった。

私は、高速艇の乗組員になったので、他の工員とは違った仕事をしていた。

部隊からの将校が乗る以外は、いつも艇の手入れをして綺麗にすることだけであったのである。

これも運勢なのか、まだ幼さが残っていた為だったのか、特に年長者の人達からは可愛がられた。

あの安慶の街では、いつも幸運がついていると思ったのである。

「毎日が幸せであること」を信じて、あの安慶な日々を過ごしていたのである。

軍属時代 14 ~纏足(てんそく)~

2010年06月05日 | 人生航海
中支(揚子江地域)において、既に二年が過ぎていた。

少しは中国語も話せるようになっていたので、街に出ても買い物ぐらいは何の不自由もしなかった。

安慶の街は、日本人の店や映画館も多くて、九江の街以上に日本人の商店が多くあって賑やかだった。

当時、上原謙と田中絹代主演の「愛染かつら」や長谷川一夫、李香蘭の映画も見ることが出来た。

言葉も少々話せたので、親しい姑娘(クーニャン)も出来て、自然にいろんな会話が出来て楽しかった。

そのうちに冗談も出るようになると、現地での珍しい話を聞いたり、日本語等も教えていたのである。

そのなかに一際目立つ可愛いクーニャンと自然と話す機会も出来て、そのうち親しくなって、いつも遊びに来るようになった。

毎日が楽しかったが、戦時中のこと故に言動には特に注意しながら気を使い過ごして、軍部に関しての会話は、当然出来なかった。

そんな事とは別に、中国では「纏足」と言って、女性は、生後間もない頃に小さな足型を嵌められたらしい。

足を大きくしない様にした為、成人女性でも4~5歳ぐらいの小さな足で歩くのである。

私は、ヨチヨチ歩きの中年女性と中国の各地において出会ったことがある。

それもお国柄の違いで、私たちには不思議に思う他はない。

昔、この中国では一夫多妻時代があって、富豪者達が何人も美人を金で買い、妻にして逃げられないようにするため、小さい時に足型を嵌める習慣を作ったらしい。

そして、いつしか足が小さい女性ほど美人だと行った時代があったのも事実らしい。

しかし、現地で若い姑娘(クーニャン)達に、その話を聞いても「そんな事は知らない」と笑うだけだった。

軍属時代 13 ~当番兵~

2010年06月04日 | 人生航海
そして、昭和15年4月、私は、安慶の停泊場に転属となった。

船長も機関長も帰国して頼る人もなく、そのうえ両親を亡くした寂しさもあって、心機一転の積りであった。

安慶の停泊場での作業は、陸の仕事が主であった。

責任者は、元海軍の兵曹長で、退役後に陸軍の嘱託軍属になったらしい。

その班長は、加藤さんと言って人柄も良く立派な人格者だった。

横浜出身との事だったが、此処の責任者であり、総て班長に責任が持たされていた。

その為、何事も班長の指図で決めることになっていた様である。

班長は、何故か最初から私には親切で、いつも楽な仕事を選んでくれた。

どこでも班長と一緒であり、私は、他の皆から当番兵と言われたぐらいであった。

そんな或る日、班長は、陸の仕事より、それまで船員だったので、私に「将校専用の高速艇に乗れ」と薦めたのである。

早速、司令部の承認を受けて、高速艇の乗組員になったが、乗員が艇長と私の二人だけで、艇内は狭い為、その日の夕方から陸の宿舎に移った。

仕事は、主に艇の手入れであって、いつでも動けるように準備しておくほかに別になく、それが役目で航走する事は余りなかった。

時々、遊び半分の将校が乗って来て、近辺の中隊や分隊に連絡に行くぐらいだった。

加藤班長のお陰で、宿舎も班長と艇長と私と三人だけが個室部屋であり、特別待遇を受けているように皆から思われていた。

追悼: ヨッちゃんへ。

2010年06月03日 | 百伝。
昨日の朝、鳩山首相の辞任表明のニュースを眺めていると、悲しい知らせが入った。

長兄からの電話である。

ヨッちゃんが、自分のアトリエで独り脳梗塞で倒れて、そのまま亡くなったという。

ヨッちゃんは、長兄と同級生の幼馴染の竹馬の心友。

私にとっても幼馴染の先輩で、幼い頃から可愛がってくれた大好きな先輩である。

高校を卒業して地元企業に就職。
4年後・・自力で大学に進学。
卒業後、高校教諭に。

そして、現在は、版画家として、めきめき頭角を現して、昨年は、ニューヨークで個展を開催したり・・これからだというのに!

ヨッちゃんは、中学生だった私の高校受験の時・・英単語頻出レベル順の参考書をプレゼントしてくれた。

あの参考書・・10数年後の英国生活で非常に役立ったんだよ。

思春期の頃、深夜遅くまで、いろんなことを話してくれたよね。

都会生活の話、音楽の話、大人の恋愛話・・。

社会人になっても、たまに百島に帰省して会うと、いつも微笑んでくれた。

モンゴルやインドへ行った時の話題、教育界の話題・・。

ヨッちゃんと会うと、心が洗われた。

自分がいい人間にならなければならないと感じたんだ。

ヨッちゃんが暮らしていた広島県安芸高田市吉田町・・。

どんな所に暮らしていたんだろう?と思いながら、今、NTT経由で弔電を送ったよ。

送って、テレビをつけたら・・吃驚偶然?

NHKのテレビ番組「歴史秘話ヒストリア」で毛利家の出「安芸高田市吉田町」が紹介されていたよ。

涙がでてきたよ。

生きること。

もっと強く生きること。

ヨッちゃんこと・・版画家 渡辺良文さん(享年60歳)。

ありがとうございました。

深く深く遥かなるご冥福を祈ります。合掌。

軍属時代 12 ~流行歌~

2010年06月02日 | 人生航海
その頃になると、中支方面では、いつしか落ち着いていたのか、揚子江流域では平穏が続いていた。

機帆船も安慶、蕪湖、南京、武漢三鎮までにも航行するようになっていたが、九江の配属機帆船も、いつのまにか減少して次第に何処かへ移動して、任務も終わったのかと思った。

が、実は木造船は、真水には案外弱く、船体の腐食が激しくなり、ドッグや造船所に入り修理をしていたのである。

その為、上海付近の造船所か、わざわざ内地まで帰って修理を行う船もあったので、船の数は減ったように思えたのである。

座礁した時、水牛に船を引かせたり、何とか難を逃れた事もあった懐かしい思い出もあった。

いつも揚子江の濁り水を見ながらの毎日だったが、番陽湖に行くと河の流れもゆるく、その為は、いつでもある程度水が澄んでいたので、ここに行くと必ず循環水をドラム缶に入れて入浴した。

それが、皆の楽しみだった。

また、支給される麦や乾燥食品が残るので、食料品も豊富にあった。

農民が卵や野菜をジャンク舟に積んで来ては、何かと交換を求めてきた。

よく物々交換をしたものだが、時には一斗缶に一杯の鶏卵と交換したりした。

そんなふうに歳月は流れて、揚子江にて既に二年が過ぎる頃になると、船員や工員に移動の噂が出始めた。

何隻かが何処かに配属替えになる噂や若い船員には、陸上で工員を募っている話もあった。

近いうちに移動する噂もあった。

しかし、停泊場からの別命がない限りは、待機している他にすることはなく、上陸して街に出て、日本人の食堂で食事したり、レコード等などの買い物をしていた。

その当時の流行歌は、「支那の夜」とか「蘇州夜曲」、そして「人生の並木道」も流行していた。

軍属時代 11 ~もうひとつの別れ~

2010年06月01日 | 人生航海
皆からの同情と厚意もあって、少しは気持ちも落ち着いていた。

それに機関長の提案で、その日から皆が、交代で炊事をする事になり、全員が賛成してくれた。

私の職名も「賄係り」から「機関員」に変更してくれた。

ただ、普通は、内地ならば二年ぐらいで賄係りは交代することになるが、外地故に新しい交代を雇う事が出来なかった。

その為、賄係りは交代できなかったが、その後は人並みの船員として、新たに仕事に励む気になれると思うと幾分か気持ちも落ち着いた。

ところが、思いがけなく頼みの綱として慕っていた機関長が、突然内地に帰る事になったのである。

それを聞き、急なことで驚いて、私は機関長に聞いてみたが、詳しい事は何も言わず、こんな事を言ってくれた。

「親はなくても、そんなに悲しむな。俺も小さい頃、両親に先立たれ幼くして別れたが、いつまでもあると思うな・・親と金と言うではないか・・元気を出して頑張れば、また好いことがあるよ」と言ってくれた。

あの時の言葉は、今でも忘れずによく憶えている。

別れ際、「お前には、いろんな物を残して置くから」と、ポータブル蓄音機とレコード、衣類なども、私に着れる物は全部残してくれたのである。

それよりも、別れる寂しさが辛く、その後の事を想い、悲しさで一杯だった。

最後に「おまえは、俺がいなくても、もう大丈夫だ。身体に気をつけて、元気で過ごせ」と言ってくれた。

あの別れの言葉が、本当の今生の別れになるとは、その時には、想像も出来なかった。