■君を許す / ザ・タイガース (ポリドール)
この世で一番にハードボイルドなのは、相手を許す事かもしれません。
少なくとも器量の狭いサイケおやじは、これがなかなか出来ませんし、それに対して、何かと大義名分や言い訳を捻り出す作業が、どうにも上手くありません。
しかも当事者以外から、それがどういう風に見えているのか?
そんな部分にも配慮して、さらに周囲に気を配る……。
いや、居直ってしまえば楽なのは分かっているんですが、それでは相手と意志の疎通が足りず、後腐れを根に持たれてしまうのがオチでしょう。
さて、そんな事を思ってしまうのは皆様ご推察のとおり、ここ最近の民主党造反騒動を目の当たりにさせられたからで、おまけにマスコミの勝手な解説や憶測があまりにも主導的ですからねぇ。
第一、誰もが本音を発言せず、表面的には冷静を装いながら、所謂面従腹背!
ですから情けない醜態を晒し続ける総理大臣以下、国民よりも自ら保身にばかり力が入り、揚げ句の果てが組織に反逆した者を速やかに厳格処分出来ないテイタラクでは、とてもリーダーに相応しいとは思えませんよ。
現実的に自分達が主張してきた事がほとんど出来ず、今頃になって不可能問題に直面した時、変節するにはそれなりの態度を示さなければならないのが、この世の理でしょう。
どんな思惑があるにせよ、消費増税に反対票を入れた民主党員は、それなりにスジを通した点において、出来の悪い任侠映画程度の評価はされるべきだし、それに対して厳しい処分が下せない内部事情があるならば、潔く国民の前で造反者に一言――
君を許す!
そう言ってはいかがなもんでしょうかねぇ。
ど~せ、国民の大半は現内閣政府を見限っているでしょう。
ならば、良し悪しは別にして、スパッとした決断を見せるのも大切かと思うばかりです。
そこでマスコミにお願いしたのは、一連のゴタゴタを報じる映像のバックに、本日ご紹介のシングル曲を流して欲しいって事です。
う~ん、思わずベタベタの昭和歌謡フィーリングに麻痺させられるほど、ここでの沢田研二は見事にジュリーを演じきっていますからねぇ~♪
ご存じのとおり、これが発売された昭和44(1969)年末は既にGSブームが峠を越え、高い人気があったグループほど、其々に新しい路線を模索していた時期ということで、このシングル盤はタイガースというよりも、実質的には沢田研二のソロ扱い!
実際、同じ頃に出た沢田研二のソロデビューアルバム「ジュリー」にも、ほとんど同じテイクが収録されていたほどで、その仕上がりは賛否両論があろうとも、流石に素晴らしいとサイケおやじは思っています。
それは作詞:安井かずみ、作曲:村井邦彦、そして編曲:東海林修という都会派コンポーザーのお洒落感覚を如何にも下世話に解釈した沢田研二の歌唱が、制作者側が本来狙っていたロックではない、ニッポンの歌謡曲にジャストミートしているからじゃないかなぁ~~♪
つまりGSが大ブームになったのは、日本の歌謡界がイマイチ持ち得なかった本格的なロック指向に真っ向から挑んだ成果であり、それでも一般的な人気を得る為には演歌フィーリングをも滲ませた保守本流の歌謡曲を歌わざるをえなかった現実からの、ひとつの居直りだったように思うのです。
もちろん、それが好きか? 嫌いか? は別問題でしょう。
今となっては、こういう本格的な歌謡曲路線のジュリーは全く評価されていないに等しく、現実的にもソロシンガーとして活動を開始したジュリーは極めて洋楽的なスタイルで大ヒットを連発した歴史は揺るぎもしません。
しかし、それでも真・歌謡曲を歌う沢田研二が存在していたという事実だって、やっぱり不滅です。
君のねむりの中に
見知らぬ愛をうつして
僕を傷つけながら
君だけの夢をみてる
こんなに君を愛しているのに
わかってもらえない苦しさに
わがままな 愛の幻に
僕をひきつけてゆく
やっと捜した 白い指より
その心がほしいのに
愛がほしいのに
いつでも君を 許しているのに
ほんとの愛を 気づかないの
あぁ、現在のゴタゴタを演じている面々には、この歌が相応しいんじゃないですかねぇ~。
粘りつくようなストリングのアレンジも秀逸な曲メロの魅力を存分に活かしていると思いますし、全体の纏まりの良さは、例えなんであろうとも、美しい結果を残すのでしょう。
さて、そこで再び国民そっちのけのゴタゴタの話ですが、やっている事がもはや見苦しいばかりで、何ら先に希望を与えてくれそうもなく、しかも、この期におよんで親分子分の絆さえグラグラしているので、情けない……。
君を許す!
この一言が、今は必要なんじゃ~ないですかっ!?
尤も大方の国民は、そんなことすら無関心かもしれませんが……。