OLD WAVE

サイケおやじの生活と音楽

池玲子の結果オーライ

2010-05-11 14:39:59 | 歌謡曲

変身 / 池玲子 (ビクター)

グラビアアイドルなんていうジャンルが確立される以前、男性誌のグラビアのメインは成人映画の女優さんでした。

特に昭和40年代後半、日活ロマンポルノが社会現象になるほどのブームを呼んでからは、対抗する東映、そして末期の大映や独立系の作品に出演していたお色気満点のお姉様が大勢、普通に銀幕の中で日本男児を歓喜悶絶させていたのですから、これを雑誌メディアが無視することは出来ません。

というか、実は昭和40年代には既に成人映画の専門誌が存在していて、そこには映画のスチールを流用したグラビアや新作情報、女優さんへのインタビューや裏話が満載されていたのですから、何も新しい企画ではありません。

しかし成人映画では当たり前だった、ある種の陰湿さを幾分抑えた表現にしなければならなかったのは言わずもがな……。もちろん男女の重なりなんて完全封印だったんですが、それでも当時の男性週刊誌の両巨頭ともいうべき「プレイボーイ」と「平凡パンチ」は、それぞれに毎週、様々な企画を盛り込んだグラビアで覇を争っていたのですから、リアルタイムで思春期~青春時代を謳歌していたサイケおやじは幸せでした。

もちろんそこには成人映画という壁に阻まれ、街角に貼ってあるポスターや劇場前の看板、そしてスチール写真で妄想を刺激されていた多くの同時代の青少年をターゲットにする目論見があったわけですが、そんな裏事情よりも、さらに素直に夢中にさせられるものが確かにあったのです。

それは「プレイボーイ」が、どちらかと言えば日活ロマンポルノだったのに対し、「平凡パンチ」が東映エロアクションという傾向から、後者に池玲子という新進スタアが登場したことにより、尚更に過熱していきましたですねぇ~♪

その彼女については、これまで拙サイト「サイケおやじ館」でも少しずつ掲載しているとおり、とにかく昭和46(1971)年7月、「温泉みみず芸者(東映・鈴木則文監督)」に主演デビューした時が、なんと17歳!?! 現在の法律では不可能なところが当然ありますし、当時としてもアブナイと思った制作側は履歴を捏造し、昭和25(1950)年生まれとしていました。それは彼女が「日本のポルノ女優第1号」として売り出された所為でもあります。

こうして一躍スタアとなった池玲子は以降、「女番長ブルース・牝蜂の逆襲(昭和46年10月・鈴木則文監督)」「現代ポルノ伝・先天性淫婦(昭和46年12月・同)」「女番長ブルース・牝蜂の挑戦(昭和47年2月・同)」といった主演作を大ヒットさせ、ついには1971年度のゴールデンアロー賞・グラフ賞、製作者協会新人賞を獲得♪♪~♪

ですから同時期の男性誌グラビアや表紙に登場することが相乗作用として、彼女の人気急上昇に繋がったのは言うまでもありません。

しかしそれは両刃の剣というか、映画館という魅惑の暗闇から明るい一般社会でも人気を継続出来るという思い込みが、おそらくは彼女にあったのでしょう。もう脱がない宣言という、勘違いのお決まりコース……。歌手への転向を図り、昭和47年6月にビクターから発売したデビュー曲が、本日の1枚です。

それは作詞:なかにし礼、作曲:森田公一という、お色気歌謡ポップスの大名作♪♪~♪

イントロからの盛り上がりに貢献するグルーヴィなオルガン、バカラック調のホーンアレンジ、メリハリの効いたリズムと曲メロのコンビネーションも流石ですし、去っていきそうな男に縋りつくようなセックスを表現する歌詞もバッチリ♪♪~♪ しかも彼女の拙い歌唱力を逆手にとった仕上がりは、音程の不確かさをセクシーな息使いに変換するという、かなり強引なプロデュースが良い方向へ作用していると思います。

それでも結果はご存じのとおり……。そう思っていたのはコアなファンだけで、一般的な池玲子は裸のお仕事を常に求められている現実の厳しさに直面し、せっかくの名曲も全くヒットしていますせん。

幸いなことに、リアルタイムの私は某イベントで彼女の生ライブに接していますが、かなり体のラインが楽しめる衣装とセクシーなアクションで揺れる巨乳、ヒップから太股のエッチな雰囲気には、クラクラさせられた記憶が今も鮮烈です。う~ん、失礼ながら確かに歌はヘタクソでしたが、もっと見たかったですねぇ~♪

そして彼女の名誉のために書いておきますが、歌は上手くなくとも、あまり評価されていない確かな演技力ゆえに、醸し出されるムードは天下一品! そのあたりは、すっかり中年者になった現在のサイケおやじが、恥ずかしながら齢を重ねるうちに痛感したことであります。

ということで、池玲子は歌手転向に失敗し、結局は東映に泣きを入れて映画界に復帰したのですが、その間に同期の杉本美樹が池玲子の代役的な存在からブレイクしており、実に嬉しいツートップ体制が実現♪♪~♪ 傑作「女番長ゲリラ(昭和47年8月・鈴木則文監督)」が制作公開されたのは喜ばしいことでした。

ただし当時の映画女優は歌うことも大切な仕事のひとつでしたから、映画本篇の劇伴音源の中では歌っているものの、池玲子にはもう少し長く歌手活動を継続して欲しかったと思うのは私だけでしょうか。

世の中、本当に儘なりませんが、このシングル曲の不確かな名唱は、今も不滅に輝いているのでした。

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アグネス・ラムにTAKANAKAを

2010-05-10 17:24:13 | Rock Jazz

スイートアグネス / 高中正義 (Kitty)

1970年代後半の我国グラビアアイドル界で最高の人気を得ていたのが、アグネス・ラムでした。と言うか、当時は「グラビアアイドル」なんていう言葉もジャンルも確立されていませんでしたから、その元祖がアグネス・ラムだったということかもしれません。

まあ、それはそれとして、最初に注目を集めたのは昭和50(1975)年頃、シャンプーかリンスのテレビCMだったと記憶していますし、同時に水着や露出度の高い衣装とは正反対の愛くるしい面立ち、もちろんスタイル抜群のセクシーな肢体を出し惜しみしないグラビアが雑誌にガンガン掲載されたのですから、正常な日本男児ならば、瞬時に辛抱たまらん状態♪♪~♪

ちなみに彼女は名前からもご推察のとおり、日本人ではなくチャイニーズ系のアメリカ人で、主にハワイを中心に活動していた本職のモデルだったのですが、我国でブレイクしたきっかはカーオーディオメーカーのクラリオンが主催したキャンペーンガールの初代クイーンに選ばれたことでした。

そしてアグネス・ラムが大ブレイクしたことにより、そのクラリオンガールに選ばれることをスタアへの入り口として、芸能界で飛躍した美女が、例えば烏丸せつこ、宮崎ますみ等々大勢いますし、中には開いた口がふさがらない蓮舫なんていう仕分け代議士の過去も、クラリオンガールでありました。

しかしやっぱりダントツだったのはアグネス・ラムに他なりません。

とにかく彼女さえ載せていれば雑誌は売れるし、盗難が相次ぐCMポスターゆえに対象商品が絶好の宣伝となり、またテレビでは夥しいCM以外にもバラエティ番組や英会話番組に出演していました。

また写真集も大量に出版されていたは言うまでもなく、ついには東映によって「太陽の恋人(昭和51年・三堀篤監督)」なんていう短篇映画さえ作られ、本日ご紹介のシングル盤は、そのテーマ曲♪♪~♪

ただし決してアグネス・ラムが歌っているのではなく、同じ頃に、やはり人気急上昇中だったギタリストの高中正義が演じるフュージョンインストが、その正体!? ということは、ジャケットからして彼女の歌声を期待したファンを裏切ることにもなるフェイク商品なのですが、そのあたりは彼女の素敵な笑顔に免じて、気持良く騙されれば結果オーライでしょうね。

もちろん収められた演奏そのものは、如何にも楽園的な爽快フュージョンになっているのは当然が必然! ですからキュートな彼女のジャケ写を眺めながら、あるいは映画館で鑑賞した前述の短篇映画の美味しい場面を思い出しながら、刹那の気分に浸るのは決して罪悪ではないのです。

また、それを演じている高中正義の履歴については、昭和42(1972)年に参加したサディスティック・ミカ・バンドでの鮮やかにしてアクの強いギタープレイが強い印象となり、以降は継続発展的に結成されたサディスティックスでの活動や、その傍らでの各種セッション参加、そして自身のソロデビューと、常に時代の流行を裏と表の両面から支え、リードしつつ今日に至っているわけですが、それ以前から我国のロック界では、例えば成毛茂のバンド等々でベースをやったり、自己のバンドを率いていたりという下積みがあったそうです。

実は私は、その高中正義がベースをやっていたという昭和46(1971)年末頃の成毛茂&つのだ★ひろのライプに接しているのですが、全く印象にも記憶にも残っていません。それが前述したサディスティック・ミカ・バンドでは加藤和彦やミカを見事に盛り立てると同時に、それ以上の目立ちまくる熱演まで披露していましたですねぇ~♪

それゆえにフュージョンインストがメインのリーダー盤ともなれば、ツボを押さえた作編曲とサンタナやリー・リトナーを想起させるギタースタイルが冴えまくり! ファーストアルバムの「Seychelles」が昭和51(1976)年7月、次いで同年8月に最初のシングル盤として発売されたのが、本日ご紹介の1枚というわけです。

ちなみに、この「スイートアグネス」は、そのデビューアルバムではなく、翌年5月に発売されたセカンド作「TAKANAKA」に「Sweet Agnes」として同一テイクが収められています。

ということで、最後になりましたが、実はこのシングル盤は私が買ったものではなく、リアルタイムで熱烈なアグネス・ラムのファンだった友人からの貰いものでした。それは友人が結婚することになった昭和57(1982)年のことで、その頃になると彼女の人気も下火になっていたのですが、あえて友人は「けじめ」をつける意味でアグネス・ラム関連の膨大なコレクションを処分した中のひとつとして、これを私にプレゼントしてくれたのです。

う~ん、もともと竹を割ったような性格の奴でしたから、流石に往生際が良いというか、結婚する男が何時までも昔のアイドルをオカズにするわけにもいきませんからねぇ。

ちなみに前述した短篇映画「太陽の恋人」は、わざわざハワイまでロケ隊が出張ってのイメージ作品で、私もリアルタイムで観ています。それは確か舘ひろし主演の「男組少年刑務所」や岩城晃一の「爆発!750cc族」あたりとの併映だったように記憶していますが、客層の大部分はアグネス・ラムがお目当てだったと思います。しかしそれは本当に30分に満たない短さで、内容は彼女が買い物やドライブ、テニスや乗馬をしたりというプライベートなところから、お約束の水着姿で海辺に遊ぶという、これが当時はボインと称していた彼女の巨乳を徹底マークした、如何にもしぶとい仕上がりでしたねぇ。

もちろんそこにジャストミートしていたのが、高中正義が演じるフュージョンギターのインスト天国だったというわけです。

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EL&Pのアコギスタイル

2010-05-09 15:40:34 | Rock

From The Beginning / Emerson, Lake & Palmer (Island / ワーナー)

昭和47(1972)年の日本で一番人気があった洋楽スタアと言えば、エマーソン・レイク&パーマー=EL&Pも候補にあがるグループでしょう。

それは同年に国内盤が出たアルバム「展覧会の絵」の大ヒット、そして7月の来日公演はフリーを前座にした後楽園&甲子園という野球場コンサートをやってしまうという、当時としては破格の扱いでした。

もちろん観客は大熱狂で、私も今は無くなった後楽園球場でシビレまくったひとりでしたが、確か大阪公演の甲子園ではエキサイトした観客による暴動が発生し、途中で中止になる騒ぎが一般新聞やテレビニュースで報道されたと記憶しています。

つまりそれほど当時のEL&Pは絶対的な勢いがあったグループで、それは来日に合わせるかのように出た通算4作目のアルバム「トリロジー」が各方面から絶賛され、売れていた事実でも明らかだと思います。

しかし例によってサイケおやじは、そのLPを買うことが出来ず、なんとか順番待ちまでして友人から借りての鑑賞でしたが、流石上り調子のバンドという充実の仕上がりに震えがきましたですねぇ。

まあ、今となっては幾分古臭い手法が散見されますし、次作アルバムの「恐怖の頭脳改革」に接してしまえば、それは発展途上の段階だったことも事実として感じます。

ただしシングルカットされた本日ご紹介の「From The Beginning」だけは、今日でも不滅の響きが魅惑の名曲名演だと思うんですが、告白すれば、リアルタイムでLPが買えなかったサイケおやじが苦し紛れに入手したシングル盤という事情も、当然ながら加味された強い思い入れになっているのは、ご理解願えるでしょうか。

イントロの繊細なアコースティックギターに導かれ、ボサプログレとでも申しましょうか、リズミックな展開に入ってからの曲メロは、作者のグレッグ・レイクが十八番のフレーズがテンコ盛り♪♪~♪ 全く好きな人には、たまらないはずです。

しかも間奏には珍しくもエレキギターのソロがありますし、本職のエレキベースにしてもメロディ優先主義を貫いた、所謂「歌うベース」が独得の味わいを増幅させています。

またカール・パーマーのラテン風味のパーカッションも潔く、そして気になるキース・エマーソンは終盤になって十八番のシンセとオルガンを駆使した、これぞっ、ロックジャズ&プログレの真骨頂! しかも立派な王道ロックになっているんですねぇ~♪

ちなみに、この曲が収録された前述のアルバム「トリロジー」はグレッグ・レイクのプロデュースによるもので、内容は組曲構成された長尺演奏のトラックも目立つんですが、あえてシングルカットした「From The Beginning」は当時の流行だったシンガーソングライター的なものが強く打ち出された、なかなか意味深な企画です。

というのも、EL&Pは1973年頃をピークに、以降は急速に煮詰まりを露呈し、長い沈黙の後の1977年になってようやく発表された新作には、これまでの特徴だったバンドとしてのコンセプトの追及よりも、トリオの各人が自己の音楽性を披露する、言わばビートルズのホワイトアルバム症候群を患っていたからで、その成り行きを知ってしまえば、この「From The Beginning」は尚更に印象深いというわけです。

う~ん、それにしてもグレッグ・レイクの弾くアコースティックギターって、イカシています。なにせアコースティックギターがほとんど苦手のサイケおやじにしても、これはコピー出来るかもしれないと無謀な挑戦を試みるほど、シンプルに素敵なツボがあるんですよねぇ。まあ、その結果は言わずもがなの途中棄権でしたが、鑑賞に限っては、なんらの問題も無く、いつも感動しているのでした。

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シーサイド・バウンドの衝撃

2010-05-08 17:43:57 | 日本のロック

シーサイド・バウンド / ザ・タイガース (ポリドール)

タイガースはGSブームの中では飛び抜けたアイドルバンドで、欧州クラシック趣味に彩られたプログレ歌謡ともいうべきジャンルを得意にしていましたが、しかし実際のライプステージでは、なかなかワイルドなロック魂を発散させていました。

ですからデビューから2枚目のシングル曲にして、これが大ブレイクの端緒となった痛快ロックな「シーサイド・バウンド」こそが、バンドイメージの決定なヒットだったと思います。

実際、今でも演奏しながら歌って飛び跳ねる「シーサイド・バウンド」のステージアクションを、カラオケやりながら真似る中年者が確かに存在しているはずです。もちろんその後の腰痛&膝痛は覚悟の上の狂騒でしょう。

まあ、それほど「シーサイド・バウンド」は、当時がリアルタイムの若者に待ち望まれていた、これぞっ、日本語ロックの決定版!

我国ではロックファンを一徹に自称する大勢が、GSを軽視する傾向にあった1970年代以降、しかしサイケおやじは頑なに「シーサイド・バウンド」は最高っ! と叫び続け、実際に演奏しては顰蹙だった過去があります。と言うよりも、仲間と一緒のバンドであれば、その演目を相談する時に「シーサイド・バウンド」を提案しては、なかなか受け入れてもらえないという繰り返しが続きましたですねぇ……。

現在ではタイガースの演目の中では、どちらかと言えば地味な「花の首飾り」とか「青い鳥」みたいな歌謡フォーク系の歌が好きなんですが、昭和42(1967)年の確か子供の日に発売された「シーサイド・バウンド」が、この時期になると無性に聴きたくなるのです。

とにかく当時、初めて「シーサイド・バウンド」を演じるタイガースをテレビで見た瞬間、それまでGSの代表格だったブルー・コメッツやスパイダースが、おっちゃんぽく感じられたほどです。

ご存じのとおり、この時期からブルー・コメッツは歌謡曲度数を上げ、またスパイダースはエンタメ路線も含む娯楽主義のヒットを連発していくのですが、それはもちろんバンド側主導による自作自演がメインでありましたから、タイガースに顕著な行き過ぎたアイドル性とは一線を画すものだったことが、今日の歴史からしても明らかでしょう。

しかしタイガースが凄かったのは、企画優先のプロジェクトを演じながら、全く評価されていないロック魂を捨てなかったことにあるんじゃないでしょうか。

そのあたりは決して庇うことの出来ない部分も認めているんですが、少なくとも「シーサイド・バウンド」のリアルタイムでの衝撃度は、圧巻でした。

ちなみに作曲:すぎやまこういち、作詞:橋本淳の名コンビは昭和を代表するソングライターチームとしても、決して忘れられませんよねぇ~♪

ということで、昼間はこのシングル盤A面を聴きまくり、夜は誘われているカラオケ大会で、この歌を熱唱する覚悟が出来ているのでした。

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レオン・ラッセルの刹那の歌声

2010-05-07 15:48:19 | Rock

Tight Rope c/w This Masquerade / Leon Russell
                                                       
 (Shelter / 日本フォノグラム)

今では広く洋楽ファンに熟知されているレオン・ラッセルも、その実際の貢献とは逆に、我国では日本盤がリアルタイムで発売されなかったミュージシャンのひとりでした。

ここで書いた「その実際の貢献」とは、まず日本で熱烈に紹介されたのが所謂スワンプロック関連の活動で、例のジョー・コッカーやデラニー&ポニーとの連携、またジョージ・ハリスンが主催したバングラ・デシュ救済コンサートにおける圧倒的な存在感等々は、1970年代に公開された音楽映画のハイライトでもありました。

そこでは肩よりも長いシルバーのロングヘア、顔の大部分を覆う髭、そしてその中からの鋭い眼差しは、ある種の偏執さえ感じさせる異様な風体が!?!

ですから、もうひとつの側面として、当時が全盛期だったカーペンターズの大ヒット曲「A Song For You」や「Superstar」、そして「This Masquerade」といった素晴らしいメロディとせつない歌詞の名曲をこの人が作ったと知らされても、それは到底、信じ難いものがありました。

そこでいよいよ昭和47(1972)年になって、ようやくレオン・ラッセルが自ら主宰していたシェルターレコードからの諸作が日本でも発売されることになり、当然ながら洋楽マスコミは挙って大プッシュだったんですが、既に海外では1970年に制作発売されていたソロデビューアルバムの「レオン・ラッセル(邦題はソング・フォー・ユー)」を筆頭に、それはそれは味わい深い充実作ばかりだったことは言うまでもありません。

ただし当然ながら、当時のサイケおやじは小遣いが足りず、それらの名盤は国営FMラジオからのエアチェックや友人から借りて楽しむの精一杯……。

しかしその中で、どぉ~して買わずにいられなかったのが、本日ご紹介の素敵なカップリングシングルでした。

まずA面はリアルタイムの1972年に出た最新アルバム「カーニー」からのシングルカット曲で、自らが弾くホンキートンク風と言われるピアノの響きが刹那的な曲メロを引き立て、さらに独得の悲しい歌声が、たまりません。

またB面収録の「This Masquerade」は今日、カーペンターズやジョージ・ベンソンの代表的なヒット曲のひとつとして、そのメロディは知らぬ人もないはずですが、ここでは作者の強みとでも申しましょうか、なんとイントロから宇宙的な広がりを追及したようなプログレ風の味付けが??? しかし歌声の味わい深さは、まさに絶品! 仮面の夫婦を綴った悲しい歌詞を、こうやって表現するのも、決して演技過剰では無いという証明かもしれません。

ただし、それにしてもジャケ写のポートレイトは悪趣味の決定版で、当時はグラムロックなんていう化粧バンドの流行があったとはいえ、ますます素敵なメロディを書ける天才性とのギャップが!?!

尤も後に知ったところでは、このシングル曲両面が収録されたアルバム「カーニー」そのものが、大衆芸能一座の刹那的日常とか祭りの後の虚しさを表現したものだったというのですから、こういう道化のメイクも狙っていたんでしょうねぇ。

まあ、なんにせよ、レオン・ラッセルは当時の洋楽の世界では裏方から飛び出したスタアとして、その実力者ぶりは今も強い印象を残していると思います。

そして知るほどに凄いと思わざるをえない音楽的キャリアの中では、例えば1960年代のハリウッドポップスの制作現場での活躍として、ピアノやギター、ベースやドラムスまでも巧みにやってしまうマルチプレイヤーとしての存在、また作編曲の腕前も確かだったという実績が、例えばフィル・スペクター関連の音源やザ・バーズ、ハーブ・アルパート、ゲイリー&プレイボーイズ、さらにベンチャーズ等々、数えきれないヒット曲の中で自然に聞けていたという真相にも驚かされるばかりだったのです。

そうしたレオン・ラッセルの名盤名唱は今日でも手軽に楽しめますが、個人的に熱望しているのが、当時のNHKで放送されたスタジオライプの映像復刻です。これは、その頃の仲間達と繰り広げた楽しくも儚い狂熱のパーティという感じで、もう一度、本当に楽しみたいですねぇ。

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言い訳ご免のユーミン

2010-05-06 16:41:50 | Singer Song Writer

コバルト・アワー / 荒井由美 (東芝)

これは私が初めて自腹で買ったユーミンのアルバムです。

 A-1 Cobalt Hour
 A-2 卒業写真
 A-3 花紀行
 A-4 何もきかないで
 A-5 ルージュの伝言
 B-1 航海日誌
 B-2 Chinese Soup
 B-3 少しだけ片想い
 B-4 雨のスティション
 B-5 アフリカへ行きたい

ユーミンとの出会いについては昭和48(1973)年に発売された最初のアルバム「ひこうき雲」のところで既に書いたように、以降の鑑賞主導権は妹に握られていたのですが、昭和50(1975)年春になってユーミンがカッ飛ばした初めての大ヒット「ルージュの伝言」、そして同年6月に発売されたこのアルバムからは、私が積極的になりました。

というか、そこには当然ながら経済的な事情があり、なんとかバイトで自由になるお金を得られるようになった兄の面目もあったのです。

しかし同時に日頃の言動から、ユーミンのレコードを買うことは、自分の中の少女趣味を見透かされているようで、あまり堂々としたものではありませんでした。

実際、この「コバルト・アワー」を入手したのは、またまた成人映画たる日活ロマンポルノのSM作品「お柳情炎・縛り肌(藤井克彦監督 / 谷ナオミ主演)」を観に行った帰り道、意図的に何時もとは違うレコード店に寄っての事だったんですが、なんとそこには高校時代の同級生だった女性が働いていたという、なんとも気まずい現実が……!?

もちろん彼女は私がフォーク歌謡なんか軽蔑していたのを、よ~~く知っていたので、かなりイヤミな微笑みを浮かべていたんですが、さらにまずかったのは、「いゃ~、バックの演奏が、最高なんだよねぇ」なんていう、実にブザマな言い訳を自分がしてしまったことです。

しかし帰宅して針を落とした瞬間、それはリアルな真実として歓喜悶絶の大噴出!

そのA面ド頭「Cobalt Hour」におけるバックの演奏は、ご存じキャラメル・ママ~ティン・パン・アレーを当時構成していた鈴木茂(g)、松任谷正隆(key)、細野晴臣(b)、林立夫(ds) が中心となり、この布陣はアルバム全篇で最高のサポートを披露しているんですが、特にここでのファンキーロックなフュージョングルーヴは強烈無比! 蠢きまくる細野晴臣のエレキベースはジャコ・バストリアスに先駆けた凄いものですし、煌びやかにビシバシ炸裂する林立夫のドラミング、彩り豊かなコードワークとオカズの魔術を聴かせる鈴木茂、さらに全体を俯瞰してカッコ良すぎるキーボードは松任谷正隆の真骨頂でしょうねぇ~♪

霞のようなユーミンのボーカルよりも、このトラックに関しては完全に演奏ばかりを楽しんでいましたし、もし当時、1980年代のような12インチなんていうブームがあったら、この曲は真っ先にそれが作られていたと思うばかりです。ちなみにしばらく後になって放送関係の仕事についた友人からのプレゼントだったんですが、この演奏パートと歌をループで繋ぎこんだ片面30分のカセットを車で流しまくっていた時期もありました。

それほどに、この「Cobalt Hour」は強烈な一撃だったんですが、惜しまれつつフェードアウトしたところから、続く胸キュンソングの決定版「卒業写真」に入っていく流れの素晴らしさにも絶句です。もちろんバックの演奏は夢みるように気持良く、そのあたりはユーミンならではのセンチメンタルな歌詞と曲メロを十二分に引き出していると思います。

ですから尚更にせつない「花紀行」や懐かしさも微妙に漂う「何もきかないで」、そして如何にも和製洋楽テレビ番組の「ザ・ヒットパレード(フジテレビ)」直系じゃないか? という嬉しい疑惑も濃厚な「ルージュの伝言」のオールディズ趣味丸出しは、R&Rリバイバルという当時の局地的な流行を職業作家的に展開させた流石の名曲♪♪~♪

そしてB面には欧州系ジャズ趣味が露骨に出たというよりも、実はパクリが悪質寸前という「Chinese Soup」が、その歌詞の本当に上手い表現によって憎むことが出来ませんし、その前段としてすんなりと置かれた「航海日誌」の存在が、安心感を増幅させているんじゃないでしょうか。

その意味でソングライティングとアレンジ、そして歌と演奏が、これ以上ないほどのコラポレーションを完成させている「少しだけ片想い」は決定的でしょう。詳細なクレジットが不明なアルバム全篇におけるコーラスワークも、この曲に代表されるように吉田美奈子や山下達郎あたりが個性的な声を聞かせてくれるのも高得点♪♪~♪

さらに個人的には、このアルバムの中で一番好きな「雨のスティション」へと続いていくイントロのコードの響き! それは今でも至福としか言えません。

こうして迎える大団円「アフリカへ行きたい」は、これまた冒頭の「Cobalt Hour」と同じようなファンキーロックのユーミン的展開なんですが、率直に言えば出来の悪いサンタナみたいでちょいと残念……。しかし打楽器優先のミックスや吉田美奈子中心主義のコーラスは明らかに当時の邦楽の常識を超えていたと思います。

つまり洋楽ファンにも許容される要素が、このアルバムで確立したことにより、ユーミンはメジャーになれたんじゃないでしょうか?

ご存じのとおり、同年秋には「あの日に帰りたい」という歌謡ボサノバのウルトラメガヒットを出し、いよいよ第一次黄金期を迎えるのです。

全体的な印象としてはパラード系の曲にしても、不思議な高揚感が滲んでいるアルバムなんですが、松任谷正隆との翌年の結婚を思えば、なんとなくわかる感じですよね。しかも驚いたことに、「荒井」から「松任谷」に姓を変えて活動を継続したという、およそスタアらしくないところも、ニューミュージック~ニューファミリーという当時の流れを象徴していたのかもしれません。

というかユーミンの存在があって、そうした流行が定着したのは、言わずもがなでしょうね。

今になって思えば、当時の私は日本のロックなら外道という硬派のバンドが一番好きでしたが、もうひとつの側面としてユーミンが好きになっていながら、それを決して口外出来ないという情けなさ……。

こういうイジケて弱気の本性は、今も決して拭い去れないものがあるんですが、ネットいう匿名性の強い懺悔の場がある以上、値打もない告白を今日も書いているのでした。

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夕陽が泣いていた……

2010-05-05 15:34:58 | 歌謡曲

夕陽が泣いている / ザ・スパイダース (Philips / 日本ビクター)

GSのトップバンドだったスパイダースが、そのブームと人気を決定づけたシングル曲ですが、ジャケットにも記載されているとおり、職業作家の浜口庫之助の作詞作曲によるフォーク・タッチ!?! というのがミソでしょう。

発売されたのは昭和41(1966)年9月で、秋から翌年にかけて本当に大ヒットしています。ただしスパイダースがリアルタイムでこの曲をテレビやステージで演じていたことはそれほど無かった記憶があり、実は後に知ったことですが、その頃のグループは海外にプロモーション巡業に出かけていたそうですから、さもありなん……。

ご存じのようにスパイダースは徹底した洋楽指向で日本のロックを追及していたわけですが、それはトーキョーサウンドと自称するほどの優れた勢いでしたし、音楽面の中心人物は、かまやつひろし! この才人が書いた「フリフリ」「ノー・ノー・ボーイ」「ヘイ・ボーイ」「サマー・ガール「なればいい」といったシングル曲は、今日でも不滅の輝きを放っていると思います。

しかし大衆的なヒットが出せなければやっていけないのが、当時も今も芸能界の掟でしょう。特に地方巡業では前述した名曲群や先端ロックのカパーはあまりウケず、しかもベンチャーズよりはジョン・ミークやブッカーT&MG's をやってしまうバンドの特性が裏目に……。

そこでマネージメントと制作の現場は、スパイダースも出演した映画の主題歌「青春ア・ゴー・ゴー」なんていう職業作家の作品を歌わせていた経緯もあり、おそらくはバンド側も観念して、この「夕陽が泣いている」をレコーディングしたんじゃないでしょうか?

尤も以上はサイケおやじの完全なる妄想なんですが、それにしてもジャケ写にミエミエなメンバーのノリの悪い表情とポーズは、あまりにも印象的じゃないですか!?

しかし流石は大ヒットするだけあって、楽曲そのものの出来の良さ、そして歪み気味のギターやストリングスに混濁したオルガンの響かせ方が印象的な演奏は素晴らしく、幾分下世話なボーカル&コーラスを実に上手くバックアップしています。

ちなみに編曲はスパイダースとチャーリー脇野がクレジットされていますが、なかなか当時のサイケデリックを研究したんじゃないでしょうか。

現在の歴史では、この曲がGSブーム端緒のひとつとされ、それがモロに歌謡曲な所為もありますから、後追いで楽しまれるファンの皆様には敬遠される傾向もあるんですが、やっぱりスパイダースは侮れません。

この「夕陽が泣いている」がバンド不在の間に大ヒットしたのを受けて、帰国後に発売したホノボノタッチのオリジナル「なんとなくなんとなく」のB面には、その作者のかまやつひろしが熱唱するジョン・リー・フッカーの「Boon Boon」が収められているとおり、ロックバンド本来の道行も疎かにしていません。

ちなみに「Boon Boon」はアニマルズの十八番演目でもありましたから、当時のGSの多くがやっていたんですが、レコード化された中ではスパイダースと並んで、テンプターズのバージョンが白眉ですよ。ぜひとも、お楽しみいただきとうございます、

ということで、実は「夕陽が泣いている」を取り上げたのは、昨日の鳩山総理大臣のあまりの情けなさをテレビで見ているうちに、ついつい口ずさんでしまったからなんですが、それはそれとして、ジワジワと胸に迫ってくる哀しみとせつなさ、ある意味での情熱は、あの海の夕焼けに相応しいと思うばかりなのでした。

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ケイト・テイラーの素敵なカムバック

2010-05-04 14:22:49 | Pops

Kate Taylor (Columbia)

ケイト・テイラーはご存じ、ジェームス・テイラーの妹にして、私の大好きな歌手のひとりです。

ただし曲作りの才能はそんなに無かったらしく、それゆえに1971年というシンガーソングライターの大ブーム期にアルバムを1枚出しただけで結婚・引退していたのですが、育児も一段落したのでしょうか、1977年秋には突如としてオールディズのカパー曲「The Shoop shoop Song」を歌ったシングルを出し、小ヒットさせてくれたのはファンとして嬉しかったですねぇ~♪

そして翌年になって発売されたのが、待望久しい本日ご紹介のアルバムです。

 A-1 A Fool In Love
 A-2 Smuggler Song
 A-3 Harriet Tubman
 A-4 Stubborn Kind Of Woman
 A-5 Happy Birthday Sweet Darling
 B-1 It's In His Kiss (The Shoop shoop Song)
 B-2 Slow And Steady
 B-3 It's Growin'
 B-4 Tiah's Cove
 B-5 Rodeo
 B-6 Jason & Ida

前述した復帰のシングルヒット「The Shoop shoop Song」がジェームス・テイラーとの掛け合いボーカルアレンジであったことから、ここでも兄妹の絆とカパー曲の面白さが満喫出来ると予想はしていたのですが、実際にジャケットに記載された上記演目を確認した瞬間、本当にサイケおやじは期待に胸が高鳴りました。

もちろんプロデューサーとして、ジェームス・テイラーの名前がきっちりとあります。

で、まずはA面ド頭「A Fool In Love」からして、アイク&ティナ・タナーが1960年に大ヒットさせたR&Bのカパーですから、本来が白人ゴスペルや黒人音楽からの影響も色濃いケイト・テイラーの歌いっぷりにはジャストミート♪♪~♪ サイドボーカルとしてアレックス&ジェームス・テイラーの兄貴2人が介添えを演じているのも、実に心温まるところです。

ちなみに前述した1971年のデビューアルバム「シスター・ケイト(Coitllion)」でもR&Bやゴスペルは歌っていたのですが、それが7年の歳月を経て尚更に味わい深く、歌の上手さそのものが飛躍的に向上しているのは、全く嬉しい誤算というか、本当に凄いことです。

それは他のR&Bカパー曲においても同様以上で、マーヴィン・ゲイの「Stubborn Kind Of Fellow」を少しばかり改作した「Stubborn Kind Of Woman」、テンプテーションズの「It's Growin'」、そして既に述べたベティ・エベレットの「The Shoop shoop Song」の楽しさは格別ですよ♪♪~♪

歌いっぷりも良いんですが、声質そのものがサイケおやじの好みにぴったりで、実は我国の黛ジュンに一脈通ずる魅力があるんですねぇ~♪

まあ、そんな風に感じているのは私だけかもしれませんが、そのあたりのフィーリングは兄のジェームス・テイラーが提供した「Happy Birthday Sweet Darling」や「Slow And Steady」のハートウォームでシミジミした世界でも変わることは無く、また弟のリヴィングストン・テイラーが書いた「Rodeo」や自作の「Jason & Ida」おける素直で内省的な表現も流石、音楽一家の血筋を強く感じさせてくれます。

ところで、このアルバムが発売された当時の流行のひとつに、セッションミュージシャンの存在がありました。主役の歌手よりも、演奏パートを作っているメンツに魅力を感じてレコードを買う層が確かに存在したのですが、もちろんここでも、それは超豪華!

コーネル・デュプリー(g)、ジェフ・ミロノフ(g)、リチャード・ティー(key)、ドン・グロニック(key)、ウィル・リー(b)、ロン・カーター(b)、スティーヴ・ガッド(ds)、ラルフ・マクドナルド(per)、ランディ・ブレッカー(tp)、マイケル・ブレッカー(ts)、デヴィッド・サンボーン(as) 等々のお馴染みの面々に加えて、テイラー兄弟やカーリー・サイモンまでもが集まっていますので、その安定して濃密な演奏はピカイチ♪♪~♪

レコードを聴きながら、内袋に印刷されたメンツの名前を確認して楽しむという、実に1970年代後半的な楽しみが、今でも満喫出来ますよ。

そしてケイト・テイラーは翌年にも同傾向のアルバムを作っていますが、結局は再び家庭に戻って……。

ですから実際にライプをやっていたかは不明なんですが、個人的には生歌を聴いてみたかった女性シンガーのひとりです。どうやら近年はネット販売のインディーズ盤も作っているようですから、まだまだ望みは捨てていません。

それまでは、このアルバムを聴き続けることが、ファンとしての私の使命なのでした。

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クインシー・ジョーンズ発ブラコン行き

2010-05-03 17:00:14 | Soul Jazz

Body Heat / Quincy Jones (A&M)

昭和49(1974)年頃になると輸入盤を安く販売する店があちこちに開店しましたが、同時に嬉しかったのは洋楽の新譜がこれまで以上に早く聴けるようになったことです。もちろん店内では、そうしたピカピカのイチオシ盤をBGMで鳴らしていましたから、レコードをあれこれ物色する前に、耳でピンッと感じたアルバムを買ってしまうことも度々でしたねぇ~♪

で、本日の1枚もその1974年のちょうど今頃、輸入盤屋の目玉商品となっていたクインシー・ジョーンズの大ヒット盤でしたが、結論から言えば、それまでのモダンジャズ寄りの作りからニューソウル路線に大きくシフトした内容は、イノセントなジャズファンからは敬遠されたのが本当のところだったと思います。

しかし節操がないサイケおやじは、その店内BGMに一発でシビレが止まらなくなり、速攻でお買い上げ♪♪~♪

 A-1 Body Heat
 A-2 Soul Saga (Song Or The Buffalo Soldier)
 A-3 Everything Must Change
 A-4 Boogie Joe , The Grinder
         ~ Reprise:Everything Must Change
 B-1 One Track Mind
 B-2 Just A Man
 B-3 Along Came Betty
 B-4 If I Ever Lose This Heaven

例によって豪華絢爛なメンツが参集していることは言うまでもありませんが、このアルバムで特に活躍しているのが、リアルタイムで有名無名を問わず、クインシー・ジョーンズの目にとまったソングライター&ボーカリストの存在です。

中でも個人的に瞠目させられたのが、アルバムタイトル曲「Body Heat」、さらに「One Track Mind」と「If I Ever Lose This Heaven」の3曲を作り、自ら歌っているレオン・ウェアの素晴らしさ♪♪~♪ もちろんそれにはクインシー・ジョーンズも大きく関与しているわけですが、実は後に知ったところでは、レオン・ウェアは1960年代後半からモータウン系列での仕事として幾つかのヒット曲を書いていた才人だったのです。

そして1972年頃には既にソロ名義のリーダーアルバムも出していて、後追いで聴いたそこには当時の流行だったスワンプロックや元祖AORとしか言えないような、なかなか白人的な音楽が披露されていたのですが、その根底にはもちろん、黒人ならではのメロウなフィーリングと粘っこさが隠しようもなく存在しています。

そうしたレオン・ウェアならではの資質をクインシー・ジョーンズは懐の深いプロデュースで引き出したのが、このアルバムの成功に繋がったんじゃないでしょうか。

それは実際、後のレオン・ウェアの活躍を鑑みれば本当に顕著で、例えば1976年に出たマーヴィン・ゲイの大ヒットアルバム「アイ・ウォント・ユー(Tamla)」は本来、レオン・ウェアがコツコツと書き溜めた曲のデモ録音をマーヴィン・ゲイが強引に横取りしたという裏話は有名だと思いますし、マイケル・ジャクソンやリサ・マンチェスター等々への楽曲提供やプロデュースの仕事の傍ら、時折に発表するリーダーアルバムは全てが黒くてメロウな楽曲揃いという傑作ばかり!

ですからサイケおやじも心底夢中にさせられて今日に至っているのですが、そのきっかけは、このアルバムだったのです。

じっくりと粘着質のビートと新鮮なフィーリングを演出するエレピやシンセのキーボード類が、黒いボーカルやコーラスと最高に有機的な融合を聴かせる「Body Heat」、思わせぶりな演出がたまらないファンク歌謡の「One Track Mind」、そして憂愁の歌姫だったミニー・リパートンと共演した「If I Ever Lose This Heaven」はメロウファンクの極みつきとして、今日までに幅広い支持を得ていると思います。その絶妙の軽さがクセになるんですよねぇ~♪

そして、もうひとり侮れないのが、今ではスタンダード化した名曲「Everything Must Change」を自作自唱しているベナード・イグナーの存在でしょう。もう、ほとんどこの曲だけで音楽史に名を残したといって過言ではないほどの強い印象が残るのですから、幾多の新しいスタアを表舞台に出してきたクインシー・ジョーンズにしても、会心の起用だったと思います。

もちろん、このアルバムはボーカルパートだけでなく、演奏とアレンジも実に秀逸で、唯一のインスト「Along Came Betty」は、ご存じベニー・ゴルソンが書いたハードバップの人気曲なんですが、それをここまでメロウフュージョンに仕立て上げたクインシー・ジョーンズは恐るべし!

ちなみにバックアップのミュージシャンは曲毎のクレジットは無いものの、ビリー・プレストン(key)、デイヴ・グルーシン(key)、ハービー・ハンコック(key)、ボブ・ジェームス(key)、エリック・ゲイル(g)、フィル・アップチャーチ(g)、アーサー・アダムス(g)、デヴィッド・T・ウォーカー(g)、チャック・レイニー(b)、マックス・ベネット(b)、ポール・ハンフリー(ds)、ジェイムス・ギャドソン(ds)、バーナード・パーディ(ds)、グラディ・テイト(ds) 等々、本当にお馴染みの名人達の参加が記載されていますから、濃密な充実感はお約束以上なんですが、特筆しておきたいのが、当時のスティーヴィー・ワンダーのブレーンだったロバート・マーグレフとマルコフ・セシールのふたりが、キーボードプログラマーとして参加していることです。

それゆえに同時期のスティーヴィー・ワンダーが出していた「心の詩」や「トーキング・ブック」あたりの音と共通する感覚が滲んでいるのもムペなるかな! そういう人脈にまで手を伸ばしているクインシー・ジョーンズは流石の目配りだと思います。

あとプロデュースのクレジットがクインシー・ジョーンズと並んでレイ・ブラウンになっていることも要注意でしょうか。もちろん、あのオスカー・ピーターソンの黄金のトリオで活躍しながら、ハリウッドポップスの世界でも確固たる実績を残し、さらにクインシー・ジョーンズが実際に率いていたビックバンドでも1970年前後からプレイしていた天才ベーシストと同じ人物でしょう。

そういうモダンジャズの偉人の名前があるからこそ、このアルバムが現実的にジャズの分野でも無視出来ないものになっているのは確かですし、収められた全てのトラックから立ち昇るジャズ本来の悪魔性が、秘めた魅力になっているのかもしれません。

あぁ、クインシー・ジョーンズは本当に上手いですよ♪♪~♪

作編曲の面では当然ながら自分でやったものに加え、トミー・パーラーとデイヴ・ブルンバーグという子飼の弟子を適材適所に起用したのも、新しさに繋がったところだと思います。

ということで、実に時代にジャストミートした素敵なアルバムでした。

一般的に言われているとおり、クインシー・ジョーンズは確かに「良いとこ取り」のプロデューサーかもしれませんが、所詮はマイナーで終わってしまうはずだった才能を表舞台に引き上げる手腕は、繰り返しますが、最高!

現代に聴けば、このアルバムから流れてくる魅惑の楽曲は当たり前になった感が強いところに、クインシー・ジョーンズの新しさと普遍性の同居があるのでしょうねぇ。

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バド・パウエルの避暑地の思い出

2010-05-02 16:19:30 | Jazz

Hot House / Bud Powell (Fontana)

久々にガッツ~ンとしたジャズが聴きたくて、これを出してみました。

内容はフランス移住時代最末期のパド・パウエルが親しい友人達と過ごした避暑地の思い出ライプで、もちろんプライベート録音ながら、演奏の好調さもあって、なかなか生々しい雰囲気が素晴らしいかぎり♪♪~♪

録音は1964年夏、メンバーはパド・パウエル(p)、ガイ・ハヤット(b)、ジャック・ジェルベ(ds)、そして3曲だけですが、ジョニー・グリフィン(ts) が客演しています。

A-1 Stright No Chaser (Quartet)
 セロニアス・モンクが書いた本当に厳しいビバップのブルースで、作者本人はもちろんのこと、モダンジャズでは他にも幾多の名演がどっさり残されている中でも、この日のパド・パウエルとジョニー・グリフィンの共演は特筆されるべきものでしょう。
 というか、全盛期ジャズ喫茶の人気最右翼のひとつでした。
 それはいきなり豪放にスタートするテーマ演奏のド迫力!
 ブヒブヒに吹きまくるジョニー・グリフィン、ジャカスカ煩いシンバルが逆に最高のドラムス、そして突っ込んでくるベースが存在感を示せば、親分のパド・パウエルは例の呻き声を伴った直截的なピアノで厳しく応戦するという、まさにモダンジャズ本来の魅力が徹頭徹尾に堪能出来ます。
 あぁ、こんなライプの現場に居合わせた観客は幸せですよねぇ。拍手の雰囲気も本当に熱く、また呼応してノリまくるバンドの面々の中では、特にジョニー・グリフィンが、どうにもとまらないという山本リンダ現象! エキセントリックな咆哮の連発から一転してリラックスした有名曲引用フレーズへと流れる十八番のアドリブ構成が、実にキマっています。
 ちなみに企画と録音はパド・パウエルのバリ時代のパトロンだったフランシス・ポウドラであることは言うまでもなく、このふたりの繋がりは後に名作映画「ラウンド・ミッドナイト」へと昇華されるのですが、このアルバムに収められた演奏には、そうした友情と尊敬があってこその良い雰囲気が確かに感じられると思います。

A-2 John's Abbey / Bean And The Boys (Trio)
 これはパド・パウエルが主役のトリオ演奏ですから、なんともたまらない呻き声とドライヴしまくるビバップピアノの確固たるパウエル世界が現出しています。
 確かにそれゆえの好き嫌いはあるでしょう。
 しかし、これほど真っ当に厳しいモダンジャズを弾けるピアニストはパド・パウエル以外に存在しない事実にも愕然とする他はなく、とても2年後の他界は想像出来ないのですが……。

B-1 Wee (Quartet)
 再びジョニー・グリフィンが加わった白熱のビバップ演奏で、まさに速射砲の如く熱いフレーズが連発されるモダンジャズのテナーサックスが魅力の中心! アップテンポで些か単調なドラムスとベースの伴奏が、逆に効果的だと思います。
 それはパド・パウエルの好き放題に十八番のフレーズを弾きまくるという展開にもジャストミート♪♪~♪ 結果的に晩年となった時期にしては、なかなか力強いタッチと音の粒立ちの良さが、決して良いとは言えない録音の中で際立っているのは流石です。

B-2 52nd Street (Trio)
 これはトリオによる短い演奏ですが、パウエルの呻き声が尚更に迫真のピアノと相まって、強烈な印象を残します。というよりも、こうした日常的なリアルさが楽しめた当時のモダンジャズは、やっぱり最高だったという証かもしれません。

B-3 Hot Houes (Quartet)
 オーラスもジョニー・グリフィンが大活躍!
 最初はベースだけをバックに抑えた吹奏ですが、そこへパド・パウエルのピアノが割り込んでからは一転! ド派手なドラムスを従えての猛烈な勢いは、まさにジョニー・グリフィンの真骨頂という白熱のテナーサックスが炸裂します。
 ちなみにこの曲はスタンダードの「What Is This Thing Calles Love?」を元ネタに作られていますが、ジョニー・グリフィンは全く躊躇することなく、その原曲メロディを堂々と吹いてしまう憎めなさ!?! ようやくラストテーマで我に返るというミエミエをやっています。

ということで、バド・パウエルはこの録音を残した直後に帰米し、同年秋にはリーダー盤を作ったり、ライプ出演も頻繁にやっていたようですが、ご存じのとおり、それらは決して芳しいものではありませんでしたから、このレコードに記録された演奏が奇蹟的と言われるのも無理からん話です。

既に述べたように、同時期の音源は他にもフランシス・ポウドラによって私的に録音され、後年になって様々な形で世に出ていますが、最初に纏まったのは、このアルバムからでしょう。ただし我国では一時期、本当に入手が困難で、日本盤でも中古屋の目玉商品となるほどでしたし、バブル期の欧州盤ブーム以降はオリジナルLPがウルトラ級の高値の花!?!

ですから私有は再発盤で、しかも疑似ステレオ仕様の所為もあり、不必要なエコーが効きすぎていますが、それでも演奏の凄みは変わりません。もちろんCDが発売された時には飛びついて買ったのも本音ですが、今はこのアナログ盤を楽しむことが多いです。

またCDには前述した同時期のトリオ演奏が加えられていますが、今は入手が再び困難になりつつあるフランシス・ポウドラのプライベート音源を、ぜひとも集大成して欲しいものです。

最後になりましたが、録音が悪いと書きながら、実は率直な生々しさが如実に出ていますから、ファンにとっては苦にならないと思います。

そのあたりも同時に楽しむのが、所謂ジャズ者の掟というやつじゃないでしょうか。とにかく、これだけの熱演が聴けるのですから、御の字です。

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