Sixteen Tones

音律と音階・ヴァイブ・ジャズ・ガラス絵・ミステリ.....

翻訳の授業

2020-06-27 08:34:00 | 読書
山本史郎 「翻訳の授業 東京大学最終講義」 朝日新書 (2020/6).

第1章は川端康成「雪国」の出だし,「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」に続く文「夜の底が白くなった」をどう翻訳するか,について.第2章で取り上げられるのは源氏物語と羅生門.はて,この本は和文英訳の本だったかと早とちりしたが,それは第3章まで.

第4章では「実用翻訳」は AI に任せておけばよく,議論の対象とするのは「文学翻訳」であると断じる.理工学の解説・論文なども実用翻訳の対象でしかないということになりそう.

直訳か意訳か程度の認識しかなかったのだが,第2章で同化翻訳と異化翻訳という用語が登場する.でも何と「同」か,何と「異」か,対象が分からないと分からない用語ではある.第5章では岩野泡鳴,野上豊一郎の直訳擁護論が批判される.

高校-大学時代には,原語すなわち英語で小説を読むことが奨励された.その後は原語で理工系の文章を読んできた.ほくはこうした文章を逐語訳的に理解する習慣がついている.山下先生は,原語で読むことは奨励せず,むしろ翻訳者が日本語という言語の上に移し替えた「意味空間」に浸ることを奨励しておられるようだ.

思い出したのが,伊丹十三によるサローヤン「パパ・ユーア クレージー」の訳.伊丹は明治・大正期の岩野泡鳴に近いこと,すなわち逐語訳で山本先生の逆を行ったようだ.

第6章ではトールキンのホビットものが登場する.確かにこれも原語で読んだ覚えがあるが,筋を追うのがやっとだった.個々のセンテンスに込められた著者の思いを感じるには,日本人にとっては優れた翻訳が不可欠であろう.
小説の語り方と映画の語り方が対比される.ここでは言及されないが,映画の字幕への翻訳と,そして吹き替えの翻訳について,山本先生のご高説もうかがいたいと思う.

第7章にはサリンジャー「ライ麦畑...」の野崎孝訳 (1984) と村上春樹訳 (2006) が登場.最後の第8章では石井桃子の訳文が俎上に上がる.このように至るところで原文と訳文が併記されている.最終章とそれに続くあとがきには,著者の主張が要領良くまとめられている.我田引水が鼻につく場面もあるが,最終講義とはそういうものだろう.
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