『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【連載・維新戦記】:②今から9年前、「維新の会」が落ち目の民主党に迫ったとき、内部では何が起こっていたのか?橋下徹と「維新」の闇を赤裸々に明かす
◆2013年、野党第一党をうかがう状況で
2012年の衆議院選挙の敗北は私にとって苦いものでしたが、私の政治意欲は失われていませんでした。日本維新の会代表・橋下徹氏をはじめとする執行部の対応には憤りもありましたが、落選後も連絡を取り合っていた同期の仲間と愚痴を言い合うことで自分を納得させるばかりでした。
私は、今後の立候補希望に対する党からのアンケートに、次期参議院新潟県選挙区への立候補を希望すると回答しました。
衆議院選挙で私は落選しましたが、民主党が230議席から57議席と激減する中で、維新はこれに迫る54議席を獲得し、野党第一党をうかがう状況にありました。世論調査によっては多少の違いはありましたが、2013年1月のNHKの世論調査では政党支持率が民主党7.6%に対して維新6.5%と迫っており(政治意識月例調査-2013年/NHK放送文化研究所)、当時定数2であった新潟県選挙区では、十分勝機があると考えたからです。
この年の新潟は大雪で、2013年の年明けから私は選挙のために、休んでいた弁護士、医師の仕事に追われていました。国会では誕生したばかりの安倍晋三首相が、3月16日、僅か3ヵ月前の選挙で掲げた「TPP絶対反対!」を翻し、交渉参加を表明していました。
そんな中で、維新の会への入党の声をかけてもらい、その後も親しくしていた松浪健太衆議院議員(当時・現大阪府議)から、あまり嬉しくない知らせを受けました。
「新潟は、今回凄い候補──我々の中では『特A』っていうんだけど──そういう候補が手を挙げているんだ。僕は米山君を推すけど、分からないよ」
新潟に維新の会の候補となりそうな人物は見当たらず、特に問題なく自分が選ばれると思っていた私は、「そんな奴がいるんだ」と驚きを禁じえませんでした。一方で「特A」の人物が誰なのか見当もつかず、最終的には自分が選ばれるだろうという思いもあり、比較的楽観的に構えていました。
◆「特A」候補者と名指しされた人物の正体
3月半ばになって「参議院選挙の候補者として認められた」との連絡がはいり、3月30日の第1回の党大会において、発表されることが伝えられました。
2013年3月30日の党大会は、上り坂の党の熱気にあふれていました。私も参議院選挙への勝利に向け希望に胸を膨らませていました。この時、候補者紹介で壇上に並んだ際、私の隣になったのは、広島選挙区から立候補する灰岡加奈候補(現広島県議・自民党)で、同じく2012年の衆議院選挙で敗れていました。
「いやぁ、衆議院選挙は参りましたよ。もうああやって、衆議院で比例上位に候補を突っ込まれるのは沢山です。予想ができる2人区の参議院がいいと思って、きたんですよ」
「本当に。私だってもう、1人区の選挙はこりごりです。今度は2人区で!」
という会話を交わしたことを今も記憶しています。(参考記事「維新、参院選で33人公認 選挙区11人・比例代表22人」日本経済新聞)
壇を降りた懇親の場で、松浪氏と目が合った私はお礼を言いました。
「御無沙汰しております。おかげさまで、無事候補となることができました」
松浪議員は笑顔で答えました。
「ああ、よかったな。『特A』の人、なかなかやったけど、米山君頑張ってるって、推しとったのを、執行部が聞いてくれたんやな。ところで『特A』の人、中学校の同級生なんやって? 齊藤君っていうんやけど」
私は記憶をたどり、この「齊藤」氏が、当時Pezzy Computingを創設し、国産スーパーコンピューターベンチャーの旗手となっていた齊藤元章氏であること気が付きました。
齊藤氏と私は長岡市と新潟市新潟大学附属中学校の同じ学年でした。私は長岡市のほうで、齊藤氏は新潟市でしたが、共通の友人が多く知己がありました。
「ああ、あの齊藤君なら、知っています。ご選任頂き本当にありがとうございます。先生のお力添えのおかげです」
私は当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった齊藤氏を抑えて、私を選んでくれたことに安堵と感謝を感じながら、その場を立ち去りました。
ちなみに齊藤氏は、残念なことに2017年12月、詐欺容疑で逮捕され、その後東京地裁で実刑判決を言い渡されています。
◆橋下氏の「慰安婦発言」の激震
3月30日の党大会から新潟に帰った私は、興奮冷めやらぬ思いで、すぐに選挙準備に取り掛かりました。私は2005年の郵政解散選挙に自民党から立候補して以来ずっと新潟5区で選挙をしていました。しかし、参議院の全県選挙区では、県庁所在地であり、人口の3分の1が集中する大票田の新潟市での得票が、当落の命運をわけます。
私は、4月に入ると新潟市の事務所探しや、スタッフを募集に奔走し、ゴールデンウイークには、新潟市内の行楽スポットで「日本維新の会」と書かれたタスキをかけて活動を始めました。
行きかう人々の声は、「お、維新か。いいね。頑張れよ!」と好意的なものが多く、
「このままいけば、2位に滑り込んで勝てるんじゃないか……」
私はそんな手ごたえを感じながら、5月の連休を終えました。
しかし、私の期待感は、長くは続きませんでした。
5月13日、当時、大阪市長だった橋下氏が、記者団からの「村山談話についてどう思うか」という質問に対して「慰安婦制度は必要だった」と発言し大炎上したのです。
また、これと同時に、5月初めに沖縄の米軍普天間飛行場を訪問した際、アメリカの司令官に対して「隊員の風俗業の活用」をアドバイスしたことも、ニュースで大々的に報じられました。
「馬鹿なことを言いやがって……」
私は呆然とするばかりでした。
それでも少しでも好意的な報道をしているメディアがあることを祈るような気持ちでテレビのチャンネルを変えていきましたが、どの番組でも、橋下氏への非難一色でした。
私はせめてもの弁明として、自身のブログ(「米山隆一の10年先のために」)に「従軍慰安婦問題」(我が党党首と言えど、「風俗発言」「慰安婦発言」には、私は反対します)や“You are the most beautiful in the world.”などの記事を書き、自分は橋下氏と同意見でないと表明。なんとか逆風を克服しようとしました。
◆「自分は正しい」と強弁する橋下氏
しかし、この橋下氏の「従軍慰安婦発言」を境に、街頭の空気は一変しました。
維新のビラを渡しても、演説をしても、
「維新? ありゃダメだね」
そういって立ち去ってしまう人が極端に増えました。
「せめて発言を謝罪・撤回してくれれば……」
と、私は毎日祈るような気持ちでニュースを眺めていました。橋下氏は、風俗発言は5月25日に撤回したものの、従軍慰安婦問題についての発言はかたくなに拒み、ただひたすら不合理で上から目線の自己弁護とマスコミ攻撃を続けるだけでした。多くの候補者、党員の思いや運命がかかっているにもかかわらず、橋下氏にとって大事だったのは、無理やり自らの暴言につじつまを合わせ、自分は正しいと強弁する事だけだったのです。
「この人は徹頭徹尾こういう人なんだ……」
私は、衆議院選挙後の総括で感じた苦い感情が再び胸に上ってくることを感じました。
それでももう、犀は投げられています。
私は、橋下氏の不合理としか言えない自己弁護に終始する姿に強い幻滅を覚えながら、しかし、兎も角も勝利を目指して突っ走りました。
5月14日に新潟市の県庁前に自費で大きな「日本維新の会」の看板を掲げ、18日に新潟、25日に長岡市で事務所開きをし、活動を継続したのです。
参議院選挙の前哨戦として位置づけられていた6月23日投開票の東京都議会選挙。
橋下氏の従軍慰安婦発言、風俗発言の影響が大きく、日本維新の会は大量34人を擁立しながら、当選わずか2人の結果に終わりました。このとき、今年7月の次期参議院選挙で維新から東京選挙区で立候補を予定している海老沢由紀氏も落選しました。
落選後、私は落胆する海老沢氏に電話して、
「次は私ですね。頑張っていますが、まあ状況は変わらないでしょう。橋下氏には、お互いとことん振り回されますよね。でもお互い諦めずに頑張りましょう」
と、慰めたことを記憶しています。
◆10万票は超えたものの
新潟県は平均的な大きさの県の三つくらいを集めた広大さで、参議院選挙の投開票日までできる活動は限られていました。
私は各地域の人口が多い中核都市に狙いを定め、自転車を積んだワゴンで赴き、ボランティアの若者たちと自転車で1日中回る「地上戦」を徹底しました。
また先に述べた、齊藤氏から紹介された評論家の三橋貴明氏と公開討論会をしたり、東国原英夫氏、アントニオ猪木氏ら知名度の高い、話題性のある応援弁士を依頼して街頭演説を行い、その動画をネット配信したりもしました。
維新本部からは、阿部賞久府議(当時)、岩谷良平府議(当時・現衆議院議員)などが応援に来てくれました。猫の手も借りたい状況で、一人で演説ができる応援議員は率直に有難く、そこは流石に維新だなと思いました。
そして、参議院選挙の投開票、7月21日、私の得票は10万7591票、1位の自民党候補の45万6542票には遠く及ばず、2位の民主党候補の20万4834票からも大きく引き離されました。しかし、巨大な組織力を持つ自民、民主両党に対して限界を痛感する一方で、個人で数か月間選挙戦を戦っただけの維新候補が10万票を超える得票を出来たことには、可能性も感じました。
◆中田宏氏の大上段な「演説」
選挙後の8月10日、私は大阪の本部に呼ばれ、次回の意向を聞かれました。この時点でも私は政治への意欲を失っておらず、再度立候補の意思があることを執行部に伝えました。真夏の炎天下、胸に去来する様々な思いを込めて私は、
「土の中 7年待つや 蝉時雨」
という句をブログにアップしました。
参議院選挙から2ヵ月ほどたった、9月に意欲が認められたのでしょう、維新の北信越ブロック会議に召集されました。
2012年の衆議院選挙比例1位で当選した中田宏氏が北信越ブロックの長としてマイクを
握り、大上段に振りかぶった「政治とは何ぞや」の様な話をされました。
北信越地域とほとんど何のゆかりもなく、自身で何一つ選挙活動を行っていない人の話に、耳を傾ける気にはなれませんでした。
それでも私は
(1) 橋下氏の「従軍慰安婦発言」が、それまでの上げ潮ムードを一気に冷やした。執行部は自らの発言が、党全体に大きな影響を与える事を自覚してほしい。
(2) ぜひ新潟の組織化について、ある程度のリソースを与えてほしい。それがあれば、3年間で、何らかの結果を出して見せるし、結果が出なかったら、首を切っていただいて構わない。
(3) 日本維新の会は、本来、「政治を変えよう」という熱い志を持った人たちの集まりだ。落選してなお志を失わない人達はたくさんいて、連絡を取っている。その人たち勉強の場・活動の場として、党の公的な機関を創らせてほしい。
と発言し、会議を終えました。
◆堺市長選と「大阪都構想」
それからほどなくして、私の下に、維新が一丁目一番地の政策に掲げる大阪都構想で、大阪市に加えて、政令指定都市の堺市を含めるか否かで注目となっていた堺市長選挙への応援要請が来ました。
議員でもなく、何の役職もない一党員に過ぎない私が、新潟から大阪府堺市まで行くのには、釈然としないものもありましたが、私自身、維新の府議らから参議院選挙で応援して貰ったこともあり、「これが維新」と思って参加しました。
維新の応援は独特で、演説を行うのはツートップの橋下氏、松井一郎氏のみで、全国各地から応援に来た国会議員や地方議員は、演説をすることなく、私たちやボランティアと一緒にメガホンをもって街を歩きました。
「大阪は一つ! 都構想の実現を!」
私も、緑のシャツに緑のメガホンを持って叫びながら、共に回る多くのボランティアの人たちの一心不乱さに、私は維新の大阪での強さの源泉を見る思いでした。
その一方で、「都構想」の中身がなんであるかを具体的に話す人はいませんでした。
時折合流する橋下氏の演説も、お決まりの二重行政批判のほかは、「東京23区はプレスティージ。大阪に港区ができたらみんなが誇らしくなる!」と言う内容のない抽象論に終始。何より、堺市長選であるのに、堺市や候補者である西林克敏氏のことも殆ど一切話さず、ただただ「都構想」のことを話すだけでした。
私は、
「堺市長選なのに、これで大丈夫だろうか……候補者、かわいそうじゃないか? それにしても大阪都構想というのはこの程度の主張なのか、みんななぜここまで一生懸命になれるのだろう……」
という疑問を禁じえませんでした。
このとき同じチームで誰よりも賢明に叫んでいたのが、森夏枝愛媛3区支部長(当時・前衆議院議員)でした。
こうして9月29日に投開票を迎えた堺市長選挙は、大阪都構想に反対の竹山修身氏が198,431票を獲得して、維新の西林克敏氏の140,569票を圧倒し、幕を閉じました。
振り返るとすでにこの時、大阪都構想には早くも、暗雲が立ち込めていたのです。
(近日公開の第3回につづく)
■連載第1回(前編/後編)もあわせてお読み下さい。