昨夜、老妻が一泊二日の「三峰講」の旅から帰宅した。「三峰講」とは
秩父(埼玉県)の三峰神社に参拝する講で、首都圏では「富士講」、
「大山講」などと並んで江戸時代からの庶民の楽しみの一つだ。住ん
でいる地域、職能単位で講を組み、毎月少しずつお金をだしあって年
に一回、信仰をかねて旅行をする。
戦前までは東京でも「頼母子講」があった。庶民がいざという緊急時
に、お金を融通しあう互助制度である。今でも農村地域では残っている
のだろうか。このような講は、お互いの人間関係が稠密でなければ成立
しない。残念ながら、僕の住んでいる地域では消滅した。
かって住んでいたインドネシアでは「頼母子講」と同じ形態の組織、アり
サン(Arisann)が盛んである。(Kampung)や(Suku)ごとにアリ
サンがあり、定期的に集まっている。互助の目的もあるが、集まること自
体が親睦を深め楽しみのようである。数年前、映画にもなっている。
老妻の話によると、今回の「三峰講」には、70人の参加があり、バス二台で
出かけたという。ゲスな話だが、参加費は2万5千円、宿は数人の相部屋で
ある。普通の旅行感覚では高い。しかし、旅行社が企画した「旅」では味
あえない楽しみがある。人間関係である。隣に誰が住んでいるのかわから
なくなった東京にもまだ”熊さん、八さん”的江戸の名残が残っている。
秩父(埼玉県)の三峰神社に参拝する講で、首都圏では「富士講」、
「大山講」などと並んで江戸時代からの庶民の楽しみの一つだ。住ん
でいる地域、職能単位で講を組み、毎月少しずつお金をだしあって年
に一回、信仰をかねて旅行をする。
戦前までは東京でも「頼母子講」があった。庶民がいざという緊急時
に、お金を融通しあう互助制度である。今でも農村地域では残っている
のだろうか。このような講は、お互いの人間関係が稠密でなければ成立
しない。残念ながら、僕の住んでいる地域では消滅した。
かって住んでいたインドネシアでは「頼母子講」と同じ形態の組織、アり
サン(Arisann)が盛んである。(Kampung)や(Suku)ごとにアリ
サンがあり、定期的に集まっている。互助の目的もあるが、集まること自
体が親睦を深め楽しみのようである。数年前、映画にもなっている。
老妻の話によると、今回の「三峰講」には、70人の参加があり、バス二台で
出かけたという。ゲスな話だが、参加費は2万5千円、宿は数人の相部屋で
ある。普通の旅行感覚では高い。しかし、旅行社が企画した「旅」では味
あえない楽しみがある。人間関係である。隣に誰が住んでいるのかわから
なくなった東京にもまだ”熊さん、八さん”的江戸の名残が残っている。