ジャカルタの邦字紙「じゃかるた新聞」(6月12日)によると、残留元日本兵
の一人、藤山秀雄さん(87)が亡くなった。藤山さんは佐賀県出身の元陸軍
航空隊軍曹で、戦後日本に帰らず、西部ジャワでインドネシア独立戦争に
参加した。独立後はインドネシア国籍を取得、フセンという現地名でジャカル
タで自動車整備工場を経営していた。藤山さんの死で、元残留日本兵の数
は僅か数名となった。
41年前、僕がジャカルタに勤務していた当時、元日本兵は百数十人いた。イ
ンドネシアへの賠償引当の貿易で、彼らは日本の商社に雇用され活躍してい
た。これが象徴するように、日イ関係は以来スハルト(第2代大統領)失脚ごろ
まで貿易通商を中心に黄金時代であった。その背後には彼らの独立戦争時の
活躍、またスハルトをはじめとする軍政時の義勇軍幹部の”謝恩”の気持もあ
ったと思う。
時代は移り、両国共に日本軍政当時を知る世代がいなくなった。日本ではイン
ドネシアに特別な”愛情”を持っていた世代が去り、逆にインドネシアでは戦後
の反日教育の結果、事実に反する反日史を書き出版した大使まで登場した。
日本の善意の援助にケチをつけ、中国に”色目”を使っている副大統領もいる。
今年第一四半期の日本からの投資額は世界で5番目の落ちた。在留邦人の数
も減少している。他国に比べて投資環境が悪く汚職がつきまとう国では、愛情
をもたなくなった今の日本人には魅力のない国である。
の一人、藤山秀雄さん(87)が亡くなった。藤山さんは佐賀県出身の元陸軍
航空隊軍曹で、戦後日本に帰らず、西部ジャワでインドネシア独立戦争に
参加した。独立後はインドネシア国籍を取得、フセンという現地名でジャカル
タで自動車整備工場を経営していた。藤山さんの死で、元残留日本兵の数
は僅か数名となった。
41年前、僕がジャカルタに勤務していた当時、元日本兵は百数十人いた。イ
ンドネシアへの賠償引当の貿易で、彼らは日本の商社に雇用され活躍してい
た。これが象徴するように、日イ関係は以来スハルト(第2代大統領)失脚ごろ
まで貿易通商を中心に黄金時代であった。その背後には彼らの独立戦争時の
活躍、またスハルトをはじめとする軍政時の義勇軍幹部の”謝恩”の気持もあ
ったと思う。
時代は移り、両国共に日本軍政当時を知る世代がいなくなった。日本ではイン
ドネシアに特別な”愛情”を持っていた世代が去り、逆にインドネシアでは戦後
の反日教育の結果、事実に反する反日史を書き出版した大使まで登場した。
日本の善意の援助にケチをつけ、中国に”色目”を使っている副大統領もいる。
今年第一四半期の日本からの投資額は世界で5番目の落ちた。在留邦人の数
も減少している。他国に比べて投資環境が悪く汚職がつきまとう国では、愛情
をもたなくなった今の日本人には魅力のない国である。