「新宿二丁目」が”ニューハーフ”の町であるこいとをNHKのラジオで知った。僕ら
後期高齢者の世代にとって「新宿二丁目」の町名は、ほろ苦い響きがあり、昔は
昼間他人の前で口にするのをはばかった。都心からの都電が靖国通りの方角に
右折した一角で、昭和33年3月31日、売春禁止法が施行されるまでまで、ここで
公然と売春が行われていた。
昨日、品川の荒神様で知られる海雲寺の春の例祭に詣でたあと、足を伸ばして
東海道五十三次の品川宿をぶらり散歩した。品川宿も半世紀前までは、宿場と
いうより、遊郭として知られていた。京急線の北品川駅で降りて旧東海道に入る
とすぐに「土蔵相模跡」の石標がたっている。幕末、高杉振作らの志士が密議をし
た大妓楼があった跡である。僕の記憶では昭和30年代初期まで、この「土蔵相
模」の独特の海鼠壁は残っていた。
売春が政府公認で行われた場所を当時「赤線」と呼んだ。取締りの役所は非公認
地域を青線で囲み、公認の場所を赤線で囲んだことから来ている。都内にはこの
「赤線」は、新宿二丁目のほか、吉原、須崎、亀有、新小岩、武蔵新田など数か所
あった。東京だけでなく全国の主な都市にはどこにでも赤線があった。小田原の抹
香町は川崎長太郎の私小説でとくに有名であった。
こうした遊郭の世界は、いまや落語の世界にしか残っていない。若い世代には解り
にくくなってきた。多分、建物も「土蔵相模」と同じように壊された。文化財として残
すほど価値があるのかどうか解らないが、日本のかっての文化であったことには違
いない。
後期高齢者の世代にとって「新宿二丁目」の町名は、ほろ苦い響きがあり、昔は
昼間他人の前で口にするのをはばかった。都心からの都電が靖国通りの方角に
右折した一角で、昭和33年3月31日、売春禁止法が施行されるまでまで、ここで
公然と売春が行われていた。
昨日、品川の荒神様で知られる海雲寺の春の例祭に詣でたあと、足を伸ばして
東海道五十三次の品川宿をぶらり散歩した。品川宿も半世紀前までは、宿場と
いうより、遊郭として知られていた。京急線の北品川駅で降りて旧東海道に入る
とすぐに「土蔵相模跡」の石標がたっている。幕末、高杉振作らの志士が密議をし
た大妓楼があった跡である。僕の記憶では昭和30年代初期まで、この「土蔵相
模」の独特の海鼠壁は残っていた。
売春が政府公認で行われた場所を当時「赤線」と呼んだ。取締りの役所は非公認
地域を青線で囲み、公認の場所を赤線で囲んだことから来ている。都内にはこの
「赤線」は、新宿二丁目のほか、吉原、須崎、亀有、新小岩、武蔵新田など数か所
あった。東京だけでなく全国の主な都市にはどこにでも赤線があった。小田原の抹
香町は川崎長太郎の私小説でとくに有名であった。
こうした遊郭の世界は、いまや落語の世界にしか残っていない。若い世代には解り
にくくなってきた。多分、建物も「土蔵相模」と同じように壊された。文化財として残
すほど価値があるのかどうか解らないが、日本のかっての文化であったことには違
いない。