「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

百年前 ロンボク島にいた日本人

2017-06-07 06:27:32 | 2012・1・1
外資系会社に勤める男の孫が仕事の合間をぬってLCC(格安航空)を乗り継いでロンボク島へ遊びに出かけている。いくら外資系といっても日本人の”働き方””遊び方”も僕らの現役時代とは変わってきたものだ。                                                             ロンボク島とは、インドネシアの名の通った観光地バリ島の東隣の小さな島で、近年、マリンスポーツのメッカとして日本の若者たちの間でも人気がああるようだが、30年ほど前までは、訪れる日本人はほとんどいなかった。バリ島と違って、ヒンズー寺院遺跡や、ケチャ踊りといった観光資源があるわけではない。かってロンボクは、ヌサトゥンガラ列島の貧しい小さな小島の一つににすぎなかった。1966年僕が初めてバリを訪れた時も、ロンボクは飢饉に見舞われ、日本政府から義捐金が贈られている。ただ、戦争末期、南方戦線にいた日本軍兵士の中にはは、その末期、豪北から島伝いに西へ移動する作戦の中継地として短期間駐屯した人が多いが、全体的には少数にすぎない。

こんなロンボク島のアンペラという町に1世紀ほど前の大正5年、日本人の博徒13人が居住しており、和蘭人とのケンカで捕まり、親分格は1年3か月の刑に処せられている(「カメラとペン蘭印踏破行」渋川秀樹著 昭和16年)。東海林太郎の歌った”流れ流れて落ち行く先は北はシベリア、南はジャワよ”で始まる「流浪の旅」がヒットしていた時代である。

ロンボク島の博徒たちがどこから流れてきたのか。何を生活の糧にしていたのか。そして末路はどうなったのか。戦前、蘭印に居住していた日本人の記録集「じゃがたら閑話」には、往時の日本人の生活ぶりの一端が残されているが、今と違って大都会だけでなく、蘭印の島々の片隅にまで日本人の足跡を残さている。遊びではなく、生活のためにである。100年の時の流れを感じる。