「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

半世紀前のカタールと「休戦土侯国」

2017-06-12 06:07:59 | 2012・1・1
今は”開店休業中”の僕のもう一つのブログに「1000都物語」というのがある。生まれてから80余年、自分が一日でも住んだ町の紹介と想い出を綴ったものだが、確か”1000都”には届かなかった。その海外編の中で、アラブの一国でありながら今、周辺の他のアラブ諸国から肘鉄を食わされいる国、カタールを書いたのを想い出した。

半世紀前の1962年11月、新聞社の中東移動特派員として僕は、アラビア語で「噴出」を意味する、カタールの首都ドーハを訪れている。取材の目的は「アラビアンナイトは生きている」という、当時まだ日本では秘境の地とされていたペルシャ湾湾岸の地を写真で紹介することであった。僕はカメラマンと一緒にイエメンから当時、「休戦海岸」(Trucial States)と呼ばれていたドバイ、シャルジャを取材し、砂漠の中の飛行場であったアブダビ経由、カタールに入った。つ
半世紀前のドバイは超高層建築など一つもなく、入江にそったスーク(市場)には伝統衣裳を着た鷹匠がたむろしていて,僕らの取材心を満足させてくれた。砂嵐が吹くと離着陸できないといわれたアブダビ飛行所には管制塔しか建物はなかった。アブダビで石油が採掘が始まったばかりの頃である。

僕らは新しい期待に胸を躍らせてカタールに入ったが、残念ながらドーハの町は近代化されていた。戦前1935年から西欧資本による「カタール石油会社」が出来て採掘がはじまっていた。その恩慶で町は発展し、「休戦海岸」の”土侯国”ではなかった。僕らは砂漠の中での中古自動車のセリ市場をカメラに収めただけで、早々にドーハを後にした。

湾岸諸国の石油可採年数は限られており、どこの国もポスト石油の国造りに入っている。今回の仲間内の争いも天然ガスの利権争いにからむという説もある。半世紀前、ドバイの小学校では、自前の教科書がなく、カタールの教科書を使用していた。”アラブは一つ”という半世紀前のスローガンも色褪せてしまった。