半世紀以上前、13年間勤務した新聞社の外信部の旧友会に昨日参加した。僕が勤務していたのは1956年(昭和31年)10月から68年12月だったが、振り返ると激動の時代であった。僕が社会部から外信部に異動して最初に翻訳した外電は、ハンガリー事件であった。首都ブダペストで市民が非スターリン、反ソ(ソ連)を叫んで蜂起した暴動である。世界が転換期にあったのであろうか。ハンガリー事件と並行したかのようにスエズ戦争(第二次中東戦争)が発生した。
それから13年間、僕は途中2年間(1966年―67年)のジャカルタ勤務を除いて外信部に勤務した。当時の外信部の主な仕事は外国通信社からテレタイプで流れてくる外電を翻訳することと、在外特派員が打電してくるローマ字電を「原稿」化することであった。”切った張った”の派手な事件を取材してきた社会部と違って、正直いって僕には何か物足りなかった。
スエズ戦争を機に僕は中東担当となり、主として中東地域のニュースを追ってきたが、世界は激動期であった。62年のキューバ危機で象徴される東西冷戦が、やがて崩れ、一方米ソ間の宇宙開発競争が激化し、アジアではベトナム戦争が起こり、中国では文化革命がはじまった。こういったニュースを13年間、僕はテレックスを前にしたデスクで取材してきた。ケネデイ大統領暗殺事件の朝、緊急召集で会社に駆け付けたのが、昨日のように思われるが、もう53年も昔になった。
時の流れである。昨日の旧友会では、僕は参加者の中で最長老になってしまった。現役を卒業したばかりの若いOBの一人が僕の挨拶を聞いた後、しげじげと僕の顏をみて”私は1951年生まれです”と語りかけてきた。。僕が外信部勤務になったのは、彼が5歳の時なのである。感無量である。
それから13年間、僕は途中2年間(1966年―67年)のジャカルタ勤務を除いて外信部に勤務した。当時の外信部の主な仕事は外国通信社からテレタイプで流れてくる外電を翻訳することと、在外特派員が打電してくるローマ字電を「原稿」化することであった。”切った張った”の派手な事件を取材してきた社会部と違って、正直いって僕には何か物足りなかった。
スエズ戦争を機に僕は中東担当となり、主として中東地域のニュースを追ってきたが、世界は激動期であった。62年のキューバ危機で象徴される東西冷戦が、やがて崩れ、一方米ソ間の宇宙開発競争が激化し、アジアではベトナム戦争が起こり、中国では文化革命がはじまった。こういったニュースを13年間、僕はテレックスを前にしたデスクで取材してきた。ケネデイ大統領暗殺事件の朝、緊急召集で会社に駆け付けたのが、昨日のように思われるが、もう53年も昔になった。
時の流れである。昨日の旧友会では、僕は参加者の中で最長老になってしまった。現役を卒業したばかりの若いOBの一人が僕の挨拶を聞いた後、しげじげと僕の顏をみて”私は1951年生まれです”と語りかけてきた。。僕が外信部勤務になったのは、彼が5歳の時なのである。感無量である。