九州の片田舎の村で僕は生まれ、高校を卒業するまでそこで育った。
海岸線と背の低い山並みに挟まれた細長い村で、漁業と農業を生業とする人々がほとんどだった。そんな地域性を反映してか、小学校の校歌には、包みてあふる海の幸、宿してあまる山の富、という一節があった。
僕が生まれたのは、第二次世界大戦が終わって九年目の秋だ。
村に住んでいた大人たちは大半が戦争経験者だった。酒が入ると、当たり前のように戦地での話をしていた。軍歌とか戦争漫画とかが、日常生活と何の違和感もなく併存していた。白衣を着た傷痍軍人が、観音様の石段の前に立っていたりもした。
僕の父方の祖父や父親の兄弟、親戚も漁師だった。そんな中で父親は小学校の教師という異色の職業を選び、同じ教師の母親と結婚した。漁師という職業が嫌だったのか、たまたま、突然変異的に教師になるくらい頭がよかったのかはわからない。
その頃の教師というのは、医者や坊主と並んで、田舎町ではちょっとしたステイタスだった。中元、歳暮の季節には、生徒の親から贈られてきた贈答品の箱が、床の間に山積みだったのを覚えている。僕も小学校くらいまでは、学校の先生の息子というだけで、近所のオバちゃん連中にチヤホヤされたものだ。
そんなわけで、父親がそうだったように、僕は祖父の漁師のDNAをほとんど受け継いでいない。
子供の頃は、イワムシやゴカイといった釣り餌を触るのも嫌で、魚料理、とりわけ刺身が大の苦手だった。祖父たち漁師にとっては、生活の種であり糧であった魚も、僕にとっては鑑賞目的でしかなかった。そんなものを食べるわけにはいかない。僕はいつも食卓に上る魚介類には目もくれず、ふりかけや漬物をおかずにしていた。
記憶を辿れば、物心がついたのは、保育園に通うあたりの年齢だ。
家から保育園までは、両側に家並みが続く、未舗装の道を五分くらい歩く。僕は近所の友達連中と、道路の右端を一列になって通園した。
朝の通勤通学の時間帯の道路は、ボンネットバスやオート三輪が行き交う。近くの停留所にはバス待ちの人の列ができている。ほとんど知っている顔ばかりだ。
僕たちはお寺の山門を抜け、そこから石段を昇る。お寺に隣接した保育園は、山の小高い斜面にあり、毎日百数十段の石段を昇って通園したものだ。石段には十二、三段おきに踊り場があり、中間地点にはお地蔵さんが祭ってあった。
石段を昇り切ると、正面にお寺の本堂があり、右手には鐘つき堂、左手には樹齢何百年はあろうかという、銀杏の巨木が聳えていた。
後ろを振り返ると、眼下には、竹藪越しに小さな村の家並みが見えた。
ある時、その家並みの一軒から出火したことがある。
僕たち園児は、山の斜面のお寺の境内から、鈴なりになって、燃えさかる家を見ていた。火事も珍しかったが、半分は、もうすぐ来るであろう、消防車の勇姿を見ようという気からだ。
下界の半鐘やサイレンの音とともに、和尚さんが必死で付く釣鐘の音が、夏の空の下に響き渡っていたのを覚えている。
小学校に入るか入らないかの世代の、僕たちの社交場は駄菓子屋だった。
保育園や小学校から帰ると、他に遊びの用事がない時は、僕たちは五円玉や十円玉を握りしめて駄菓子屋に集まり、日が暮れる時間までそこで過ごした。
駄菓子屋といっても菓子だけでなく、日用雑貨の類いも置いているよろず屋みたいなものだ。夏は店内に蝿取り紙が吊るしてあり、その脂の臭いが、海から来る魚の臭いと混じって、どんよりと漂っていたのを覚えている。
僕たちはそこで当てもののくじを引いて、ハズレの甘納豆やスルメを食べたり、ビー玉やメンコ遊びをするのが日課だった。店内のラジオからは、大相撲中継や流行歌が流れていた。その流行歌を、耳コピして覚えたのもその頃だ。
村の家並みの向こうには、海が広がっていた。
我は海の子でもないが、生まれた時から海はそばにあった。実際、家から海岸までは、歩いて一、二分の距離だった。漁師をやっていた祖父の家から海まで五、六分だったので、教師をやっていた父親の家のほうが海に近かったのだ。
今では古い写真の中で、セピア色に褪色している海も、当時は季節や時間によって、青や灰色や緑色にその色を変えていた。内海だったので、荒れることはほとんどなかった。多分、台風の時は荒れたのだろうが、そんな時は家の中にいたので、荒れた海を見た記憶がない。
穏やかな海は、僕にとっては単なる見慣れた風景や生活の一部で、その向こうに広がる大海原や、遠い外国の街に思いを馳せることはなかった。僕が泳ぎ、祖父が漁をする場所だ。
父親が二眼レフのカメラで撮ってくれた僕の白黒写真には、海や波止場や漁船をバックにしたものが多い。写真を撮ること自体、一種の贅沢行為だったからか、背景のチョイスには気を使っていたのだろう。そんな父親にとって、海は身近で格好の背景だったに違いない。
海岸は細長い防波堤の右側が小さな港になっていた。
村の人は港と呼んでいたが、それはあまりにも小規模で、港というより船着き場という感じだった。その船着き場には、いつも数十艘の漁船が係留されていた。祖父や親戚の船もあった。
僕たちは船の持ち主がいない時は、義経の八艘飛びよろしく、船から船へ飛び移って遊んだ。たまにドジな奴がいて、海に落ちて泣いていた。みんな小さい頃から泳ぎは達者だったので、溺れることはなかった。
船はいつ出漁していたのか不思議だったが、今にして思うと、沿岸漁業だったので、僕が寝ている間に出港して戻って来ていたのだろう。
港のそばには小さな海苔の製造工場があった。
昔は天日干しオンリーだった海苔も、当時は、天日と工場での人工的な乾燥の二本立てになっていた。袋詰めされ製品化された海苔は出荷され、地元の人々は二級品や切れ端のもみ海苔を食べていた。
近所の家々の軒下では季節になると、養殖の生牡蠣を殻から外し、商品化する作業が行われていた。すべておかみさんたちによる手作業だ。山と積まれた牡蠣殻は、細かく砕かれて、山の畑の肥料になっていたみたいだ。
毎年八月の初めには、隣村の波止場で花火大会があり、僕は両親や、同居していた母方の祖母や、近所に住んでいた従兄弟たちと、祖父の船で会場まで行った。
まわりには、近隣の漁村から集まった船がひしめいていた。それらの船の上で大人は酒を飲み、子供はスイカやまくわ瓜を食べ、海岸から打ち上げられる花火を見ていた。
物心ついて、最初に花火を見た時は、船の真上の夜空に広がる、花火の圧倒的な巨大さと轟音に怯えて、僕は耳を塞いで目を瞑り、ベソをかいていた。
真っ暗な夜空一面に、突然の爆発音とともに広がる巨大な火の模様や、焼夷弾のように落ちてくる火の粉が、わけの分からない恐怖を引き起こした。
とにかく、逃げ場のない怖さを感じたのを覚えている。家の庭でやる花火とは桁違いの迫力が、僕の遺伝子の中に潜む、空襲の記憶を呼び起こしたのかもしれない。
防波堤の左側は遠浅の砂浜で、春は潮干狩り、夏は海水浴が楽しめた。
夏休みになると、山手のほうの集落から、保護者の代表に連れられた子供たちが、集団登校みたいに海岸へ通ってきた。子供の頃の僕は、ラジオ体操から帰り、朝食を取ったあと、日中は毎日そこで泳いでいた。
子供はみんな泳ぎは達者だったが、遠泳したりするものはいなかった。砂浜からせいぜい二、三十メートルほどの浅瀬で泳いでいた。大人たちから、穏やかに見えても海は怖いものだと、口酸っぱく教え込まれていたからだ。穏やかな海も、ちょっと沖へ出ると、潮の流れは複雑だ。漁師の子でさえあまり沖へは行かない。
親の帰省で連れられてきた町の子が、潮に流されそうになって、漁師に助けられたりしたのを、何度となく聞いていた。そうでなくともその頃の僕たちは、そんなに距離を泳げるほどの体力もなかった。
海岸横の広場には恵比寿様が祭ってあり、お盆には縁日が出たり、子供相撲大会が開催されたり、小規模な精霊流しが行われたりした。昼間はアイスキャンデー売りやスイカ売り、紙芝居屋が出張ってくることもあった。
長い海岸線沿いにはいくつもの集落が散在していた。
小学校に入ったばかりの僕たちは、近所の年長の小学生に連れられて、海岸線沿いに近隣の村へと遠征した。砂浜から岩場、時には海に面した崖を登り、隊列を組んで進んでいった。
目的地に着くと、海岸から海賊よろしく村の中心部へと上陸した。
辿り着いた村々には、小学校で一緒の子供たちの家々があった。それぞれの村の子供たちも徒党を組んで遊んでいた。僕たちのグループと友好関係にあるグループもあったが、反目するグループもあった。
時には上級生同士、喧嘩になることもあったが、僕たちのグループのリーダーはめっぽう喧嘩が強く、僕たちは、どの村に行っても肩で風を切って歩いていた。
海岸線のすぐそばには国鉄の線路が通っていた。
走っているのは、もちろん蒸気機関車に繋がれた列車だ。
単線で、踏切には警報機も遮断機もなかった。
家から海へは踏切を渡ると遠回りになるので、僕はいつも家の裏のトウモロコシ畑を横切って、線路を渡っていた。汽車が通る時刻など分からなかったので、左右を目視確認するだけだ。
線路では、レールに耳を付けて遠くの列車の音を聴いたり、レールの上に一円玉や五円玉を乗せて、汽車が通ったあと、ペチャンコになった硬貨を拾って、友達に見せて自慢したものだ。僕は人間だったらどうなるのかなあ、と思ったりもした。
僕の家には母方の祖母が同居していた。母ひとり子ひとりだったからだ。
戦前に祖父と死別した祖母には、末っ子の母を含め三人の娘がいたが、上のふたりは僕が生まれる前に病気で亡くなったらしい。家の仏壇にふたりの遺影が飾ってあった。どちらも十代後半だ。
すでに亡くなった祖母や母の出自を、大人になった今でも僕は知らない。
そんな祖母とふたりだけのある雨の日の夕方、鋭い警笛とブレーキ音とともに、家の裏で汽車が停まったので、祖母の制止を振り切り、僕は傘を差して、わざわざ外へ見にいった。
列車の窓やデッキから、何人かの人が首を出して外を覗いていた。
停まっている列車の横に人が倒れていた。
サイボーグのように額が割れて、大量の血が溢れていた。その血は赤い絵の具のように、そばの溝に流れ込んでいた。
あとから来た大人たちに、家に帰ってろと言われて、家に戻り、食べかけていた夕食を食べた。人の死というものが、まだピンと来なかった頃だ。これが思春期とかだったら、嘔吐したり、ショックを受け、悪夢にうなされたりしただろう。
近所にトラさんという飲んだくれがいた。
朝から酒を飲んで、誰彼となく絡むので、近所の鼻つまみになっていた。
酒を飲んだトラさんはよく、汽車を止めてやると言って、踏切に仁王立ちしたり、寝転んだりして、実際に何度か汽車を止めていた。僕たちは興味津々でその一部始終を見て、喝采を送っていた。
トラさんは何度目かの時に、運悪く汽車にはねられて死んでしまった。
残念ながらそれを見る機会はなかった。
両親や祖母は葬式には行ったようだ。厄介者だったから、みんなせいせいしたと思っていたら、やっぱり泣いていた人もいたらしい。
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