木工芸・漆・道具        

 木肌の美しさに惹かれ、指物の伝統技術と道具に魅せられて・・・・・ 木工芸 市川 (宇治市炭山)

Art Challenge vol.2

2015-05-12 23:17:53 | 木工

 大学を卒業して、工業高校の教師なろうと京都府を受験。
採用がなく1年間中学校で技術の講師をした後、養護学校の高等部に採用されました。
そこで教えることになたのが木工を中心に、美術、数学つまり何でも。
知的障害の生徒12~13名を2つのグループに分け、ベンチ作りに取り組んだのを覚えています。
 結婚し、長女用にベビー椅子を作ったのをきっかけに家でもいろいろ作り始めました。
そして、父の友達の指物師が使っていた道具を譲り受けることになり、家の軒先に1坪弱の小さな工房を建て、道具の手入れをしながら何かしら作っていました。
 氷見晃堂先生のグラフを手に入れその作品の美しさに惹かれ、正倉院展や伝統工芸展に通い始めたのが1983年頃だったと思います。


近くの材木屋で見つけた黄蘗の板を削ってみたところ綺麗な縮杢。
その材と正倉院展で見た箱が重なり、はじめて工芸品らしきものを作ったのが初めの写真の箱。
街角のポスターで京都府主催の「工美展」があることを知り、無謀にも応募してみましたらなんと入選! この頃から自分も作品が作りたいと思うようになりました。
 そんな折り1987年の秋、新聞で黒田乾吉氏が「木工塾」を開くという記事を読み早速連絡し入れてもらいました。
当初の塾生は3人。自分が一番学びたかった「指物」ではありませんでしたが、「刳物」と拭漆を教えてもらいました。


 1992年に「工美展」から名を変えた「京都工芸ビエンナーレ」にタモの箱を出品。(次の写真)これも入選することができました。
 伝統工芸展はさすがに敷居が高かったのですが、木工塾の黒田先生以外の講師の先生方が出品され、勧められるがままに近畿支部展(第20or21回展)に初出品したのが3番目の写真のタモの隅切盆。


結果は「選外」。木工塾の先生が監査委員の先生から聞いた講評は「制作意図がわからない。」
実はこの隅切り盆は木工塾の課題作の4~5枚目の作品、つまり習作だったのですから当然の結果です。
 鉋も叩き鑿も一切使わず、丸と平、それと切り出しなど数種類の小道具だけで仕上げ、拭漆で仕上げるのが課題。「
黙って100枚彫れ!そうすればわかってくる。」それが黒田先生の口癖でした。


 当時作った作品をもう一つ。神代欅の平卓(ひらじょく)。
やはり近所の材木屋さんで神代欅を見つけたとき、氷見晃堂先生の桑八足平卓が頭に浮かび作ってみました。
これは鉋の刃を打っていただいた三木の鍛冶屋さんの新築祝いに差し上げました。
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