阪神淡路大震災のとき、地震発生後1週間経った現地にバイクで入りました。不謹慎だったかもしれませんが、学生の頃にバイクで走ったことのあるまちがどうなっているか、自分の目で見るべきだと思ったからです。倒壊した阪神高速、液状化で浮き上がったマンホール、給水車に並ぶ子ども、現地からかなり離れたところから大渋滞の国道、後になってボランティアで入らなかったことを後悔しました。
次に見た大きな災害・事件は、夜中にチャットをしているとき、ふと気づいたらCNNで流れていたツインタワーの火災、そしてその後の倒壊。リアルタイムで流れていたそれは、報道の声も含めて、本当に今起こっていることなのかと思ったり、今まで自分たちが当たり前と思っていた世の中が、大きな転換点を迎えたという、ぞっとするような感覚、背筋が寒くなる感覚を感じさせました。
スマトラ沖地震の際は、子どもの頃に父親から聞いていた津波の怖さが、多くの映像とともに呼び覚まされた感じでした。考えれば、あのときから津波のリスクを意識していました。NHKやディスカバリーチャンネルなどでは津波のメカニズムも含めて、その怖さを紹介していたことを思い出します。
東日本大震災の時はちょうど選挙の時期でした。事務所の2階にいたとき、ゆっくりとめまいがしたように、長い時間部屋が揺れ、これは相当大きな地震じゃないかと思いテレビをつけたところ、まず目に入ってきたのは、お台場での火災の映像、そしてその後、仙台平野を襲う津波の映像が入り、尋常でない事態が起こったことがわかりました。父親と映像を見ながら、そのとき報道されていた被害状況や被害者数ではすまないだろうと話していたことを思い出します。
そして紀宝町の豪雨災害では、個人として現地に入り、現地に集まった有志のボランティアの方々と、家屋の泥だし作業を行いました。熊野川の水害の被災地ではありませんでしたが、小さな小川で土石流が発生し、それに襲われた家屋の様子と、かきだす泥の重さは、東北でのそれを想像させるものでした。
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その何ヶ月か後に熊野三山をまわったのですが、那智神社に行く途中では流された家などを見たり、本宮神社に行く途中では熊野川の氾濫のすさまじさを河床から10メートル近く上にある道路に痕跡があることから感じました。
そして、東日本大震災の津波被害について、石巻市と女川町の状況を視察しました。石巻市では門脇小学校周辺や大和煮のタンクを見て、小学校のプール跡地からから海の方角を見たとき、そこにはかつてまちが広がり、子どもたちがプールではしゃいでいただろう事を想像したとき、悲しさとやりきれない気持ちにとらわれました。
女川町では津波ですべてが流された状況と、津波に引き倒されたコンクリづくりのビルを見て、まちの復興のあり方について考えずにいられませんでした。
また、このブログにも書いていますが、南相馬市での経験は、原発事故と放射性物質による影響について、テレビを通した情報だけでなく、自分の五感で感じたことで、その重さをより感じることになりました。
だからでしょうか、感情的に災害対策を考えるだけでなく、科学的な検証を行って冷静に、長期的な視点から現在取り組むべき対策を考えるべきと、私は考えています。