私がJR京都線に初めて乗ったのはおそらく幼少の頃と思われる。正直言って現在のJR京都線、国鉄時代で言う東海道線京都~大阪間ではあまり乗った記憶がない。梅田に出るのはほとんど阪急だったし、京都駅を利用した記憶もない。おそらく乗ったとすれば茨木~高槻間、茨木~大阪間ぐらいで、高槻~京都間は小学校に上がるまで乗っていないはずだ。茨木駅の陸橋からよく国鉄の列車を眺めていたことはあってもあまり乗った記憶がない国鉄東海道線だが、小学校に上がってから少年野球の冬山登山みたいなもので、湖西線方面へ毎年行っていたので、京都まで乗り潰しを達成することはできていた。茨木から比良まで国鉄(後にJRとなった)に乗ったが、途中乗り換えなしで行ったので、おそらく臨時の快速が運転されていたものと思われる。行きは曖昧だが、帰りは京都で117系が増結作業を行っていたのを覚えているから確かだ。茨木からだと113系か103系、201系しか乗れなかったので、年に1回117系に乗れる子鉄にはたまらない行事だった。
幼少の頃に東海道線に乗った記憶はほとんどないが、一度153系ブルーライナーに乗ったはずという記憶はある。153系ブルーライナーと言えば新快速で、当時の新快速は高槻はおろか新大阪にも停車しない今からすれば超~新快速とでも言うべき存在だった。そのブルーライナーにどこで乗ったのかわからないが、確かに乗ったという記憶だけはある。117系がラッシュ時には快速で運用されていたのは知っているが、153系ブルーライナーもラッシュ時には快速で使用されていたのだろうか?ラッシュ時の快速で茨木から大阪まで利用したのなら納得がいく。もしかしたら七五三で熱田神宮へ連れられた時に新大阪へ出るのに153系使用の快速に乗ったのかもしれない。あやふやではあるが、証拠も何もないのでそういうことにしておこう。
JRが国鉄に転換する前夜に謝恩フリーきっぷなるものを限定発売し、小学生の身でありながら友人及び近所の中学生のマニアの人と親に連れられ徹夜で大阪駅に並んでそのきっぷを入手した。国鉄最後の日1987年3月31日の1日限り国鉄全線が特急も含む自由席乗り放題という夢のような切符で小人料金はなんと3000円(大人6000円)だった。このきっぷを使って3月30日の夜に大阪~京都間の料金を支払って急行きたぐにに乗り、直江津から碓氷峠を下って、関東へ行って新幹線で戻る(この後北関東へ向かう行程が立てられていたが小学生にはきっつい行程のため途中で根を上げてしまった)というルートで国鉄最後の旅を楽しんだ・・・というより最初のきたぐにの混雑があまりにひどく昼過ぎから並んだにも関わらず座れずじまいで、やりたい放題になっていた自由席で寝台を組んでもらってそこへ押し込められていたので、疲れで最後の方は何がなんやらわからん旅になっていた。同行した中学生の人や友人はケロっとしていたのに私が根を上げてしまったので予定していたルート(その中には当時珍しいアコモ改善車が走っていた485系ひたちに乗る予定があった)をこなせなかったのを今さらながら申し訳なく思う。この場をお借りして謝罪したい・・・あ~いつぅいまちぇ~ん(^^;)
小学生の頃は謝恩フリーきっぷ以外は前述した雪山以外で国鉄=JRに乗ることはなく、謝恩フリー切符購入時とゴールデンウィークに阪神の試合を見に行くのに野球の練習をサボって以降は、土日は野球の試合と練習に必ず出ていたので、鉄活動などはできなかったし、当時は乗るより模型にはまっていたので、いつの日かレイアウトを作ることを毎日夢見ていた・・・今のところ実現せずに終わっている(>_<)
中学校に上がってからも野球に明け暮れてはいたが、日曜は休みだったので、鉄友達と安物のカメラを持って撮影に出たりはしていた。お金がなかったので、地元でなんとか写真が撮れそうな安威川の土手へ行ってブルートレインの撮影(そんな本格的なものではないが)をしたり、オリエント急行が来日した時にも時刻を調べて安威川の土手で見物したものだ。それを忘れずにいたので、リバイバル新快速や先ごろの485系ボンネット雷鳥復活時に混雑する有名撮影地を避けて、安威川の土手を活用することができた。安威川の土手ばかりでなく裕福なときには大阪駅へ写真を撮りに行ったりもしていた。また、一人でJR京都線~奈良線~大和路線~環状線と渡り歩いて大阪へたどり着く遊びも覚えた。私が中学生の頃はまだ221系が出始めで、新快速は117系が主体で高槻にも停まらなかったので、茨木から京都までは113系快速に乗っていた。奈良線には105系が走っていた時代で、大和路快速などは存在せず113系の春日塗りが堂々と?大和路線の快速として走っていた時代だ。今とは隔世の感がある。当時の写真があればいいのだが、あの頃はまめに写真など撮る人間ではなかったので、いいスナップは全く見当たらない。
高校ぐらいになると大回り乗車を多用したり、乗り歩きもどきを近畿圏内では行っていたので、JR京都線に乗る機会も増え、お気に入りの221系新快速に乗るために京阪間を移動したりしたものだ。221系が登場して以来幼少の頃阪急電車でかぶりついていた血が騒ぎはじめかぶりつきこそが鉄の宿命みたいな感覚を持つようになってしまった。今でもかぶりつきは大好きで、最近では初乗り路線は必ずかぶりつくようにしている。
幼少の頃から振り返るとJR京都線の変貌ぶりの凄さに驚かされるばかりだ。本線とは名ばかりの2流路線が超~1流路線になったと言っても過言ではないだろう。それに比べて特急の没落をはじめ、車両更新も牛歩の歩みの阪急京都線を見ると利用者がJRに流れたのも仕方ないのかなとも思う。阪急から利用者を奪いつくしてしまった感じがするJR京都線が今後どういった方向で進んでいくのか非常に興味深いところだ。