EXPRESS DIARY~鉄人日記~

鉄道に関することを日々徒然なるままに書いて行こうと思います。

JR京都線

2007年02月07日 | JR西日本

041010kyoto1172  私がJR京都線に初めて乗ったのはおそらく幼少の頃と思われる。正直言って現在のJR京都線、国鉄時代で言う東海道線京都~大阪間ではあまり乗った記憶がない。梅田に出るのはほとんど阪急だったし、京都駅を利用した記憶もない。おそらく乗ったとすれば茨木~高槻間、茨木~大阪間ぐらいで、高槻~京都間は小学校に上がるまで乗っていないはずだ。茨木駅の陸橋からよく国鉄の列車を眺めていたことはあってもあまり乗った記憶がない国鉄東海道線だが、小学校に上がってから少年野球の冬山登山みたいなもので、湖西線方面へ毎年行っていたので、京都まで乗り潰しを達成することはできていた。茨木から比良まで国鉄(後にJRとなった)に乗ったが、途中乗り換えなしで行ったので、おそらく臨時の快速が運転されていたものと思われる。行きは曖昧だが、帰りは京都で117系が増結作業を行っていたのを覚えているから確かだ。茨木からだと113系か103系、201系しか乗れなかったので、年に1回117系に乗れる子鉄にはたまらない行事だった。

 幼少の頃に東海道線に乗った記憶はほとんどないが、一度153系ブルーライナーに乗ったはずという記憶はある。153系ブルーライナーと言えば新快速で、当時の新快速は高槻はおろか新大阪にも停車しない今からすれば超~新快速とでも言うべき存在だった。そのブルーライナーにどこで乗ったのかわからないが、確かに乗ったという記憶だけはある。117系がラッシュ時には快速で運用されていたのは知っているが、153系ブルーライナーもラッシュ時には快速で使用されていたのだろうか?ラッシュ時の快速で茨木から大阪まで利用したのなら納得がいく。もしかしたら七五三で熱田神宮へ連れられた時に新大阪へ出るのに153系使用の快速に乗ったのかもしれない。あやふやではあるが、証拠も何もないのでそういうことにしておこう。

060827kyoto583  JRが国鉄に転換する前夜に謝恩フリーきっぷなるものを限定発売し、小学生の身でありながら友人及び近所の中学生のマニアの人と親に連れられ徹夜で大阪駅に並んでそのきっぷを入手した。国鉄最後の日1987年3月31日の1日限り国鉄全線が特急も含む自由席乗り放題という夢のような切符で小人料金はなんと3000円(大人6000円)だった。このきっぷを使って3月30日の夜に大阪~京都間の料金を支払って急行きたぐにに乗り、直江津から碓氷峠を下って、関東へ行って新幹線で戻る(この後北関東へ向かう行程が立てられていたが小学生にはきっつい行程のため途中で根を上げてしまった)というルートで国鉄最後の旅を楽しんだ・・・というより最初のきたぐにの混雑があまりにひどく昼過ぎから並んだにも関わらず座れずじまいで、やりたい放題になっていた自由席で寝台を組んでもらってそこへ押し込められていたので、疲れで最後の方は何がなんやらわからん旅になっていた。同行した中学生の人や友人はケロっとしていたのに私が根を上げてしまったので予定していたルート(その中には当時珍しいアコモ改善車が走っていた485系ひたちに乗る予定があった)をこなせなかったのを今さらながら申し訳なく思う。この場をお借りして謝罪したい・・・あ~いつぅいまちぇ~ん(^^;)

 小学生の頃は謝恩フリーきっぷ以外は前述した雪山以外で国鉄=JRに乗ることはなく、謝恩フリー切符購入時とゴールデンウィークに阪神の試合を見に行くのに野球の練習をサボって以降は、土日は野球の試合と練習に必ず出ていたので、鉄活動などはできなかったし、当時は乗るより模型にはまっていたので、いつの日かレイアウトを作ることを毎日夢見ていた・・・今のところ実現せずに終わっている(>_<)

060816kyoto221a112  中学校に上がってからも野球に明け暮れてはいたが、日曜は休みだったので、鉄友達と安物のカメラを持って撮影に出たりはしていた。お金がなかったので、地元でなんとか写真が撮れそうな安威川の土手へ行ってブルートレインの撮影(そんな本格的なものではないが)をしたり、オリエント急行が来日した時にも時刻を調べて安威川の土手で見物したものだ。それを忘れずにいたので、リバイバル新快速や先ごろの485系ボンネット雷鳥復活時に混雑する有名撮影地を避けて、安威川の土手を活用することができた。安威川の土手ばかりでなく裕福なときには大阪駅へ写真を撮りに行ったりもしていた。また、一人でJR京都線~奈良線~大和路線~環状線と渡り歩いて大阪へたどり着く遊びも覚えた。私が中学生の頃はまだ221系が出始めで、新快速は117系が主体で高槻にも停まらなかったので、茨木から京都までは113系快速に乗っていた。奈良線には105系が走っていた時代で、大和路快速などは存在せず113系の春日塗りが堂々と?大和路線の快速として走っていた時代だ。今とは隔世の感がある。当時の写真があればいいのだが、あの頃はまめに写真など撮る人間ではなかったので、いいスナップは全く見当たらない。

 高校ぐらいになると大回り乗車を多用したり、乗り歩きもどきを近畿圏内では行っていたので、JR京都線に乗る機会も増え、お気に入りの221系新快速に乗るために京阪間を移動したりしたものだ。221系が登場して以来幼少の頃阪急電車でかぶりついていた血が騒ぎはじめかぶりつきこそが鉄の宿命みたいな感覚を持つようになってしまった。今でもかぶりつきは大好きで、最近では初乗り路線は必ずかぶりつくようにしている。

061105kyotoef8144  幼少の頃から振り返るとJR京都線の変貌ぶりの凄さに驚かされるばかりだ。本線とは名ばかりの2流路線が超~1流路線になったと言っても過言ではないだろう。それに比べて特急の没落をはじめ、車両更新も牛歩の歩みの阪急京都線を見ると利用者がJRに流れたのも仕方ないのかなとも思う。阪急から利用者を奪いつくしてしまった感じがするJR京都線が今後どういった方向で進んでいくのか非常に興味深いところだ。


山陽電鉄本線

2007年02月06日 | 乗り鉄

031214san5006  山陽電鉄本線に初めて乗ったのは小学校1年ごろだったと思う。お決まりのように祖父母に連れられて姫路城見物に出かけた際に行きは117系シティーライナー、帰りは山陽+阪神に乗せてもらった。子鉄の私にとっては姫路城よりも行き帰りに電車に乗せてもらえる方が嬉しかったのは言うまでもない。

 この頃は学校で流行っていた牛乳キャップ集めも私の趣味となっており、阪急沿線に住んでいた私には世にも珍しい山陽牛乳なるものを売店で見つけ、コーヒー牛乳を飲んで、おまけに売店のおばちゃんにごみになるはずのキャップを貰ってコレクションの中に入れさせてもらった。

050528sanyohan8241  山陽電車は上の画像のような5000系はまだ走っておらず、今とは違う塗り分けの3000系特急に山陽姫路からなんでか高速長田まで乗った。山陽の印象はあまり残っていないが、短いトンネルがあったのと明石付近がまだ地上で路面電車のような雰囲気があったのは覚えている。なんでか降りた高速長田で阪急に乗り換える予定だったが、私がなんでか阪神に乗りたいといったので阪神特急に乗せてもらって梅田へ出たのを覚えている。さらによく覚えているのは阪神特急よりも先に来た阪急特急・・・その頃は阪急も当然のように須磨浦公園まで乗り入れていた・・・が見事にオーバーランしたことだ。今ではオーバーランと言えばJR西の代名詞・・・のようなものだが、昔は阪急もしていたのだなと懐かしく?思う。

060816sanyo3078_1  初乗り以後山陽に乗ったのはあまり定かではないが、学生時代にJRの乗り潰しがてら姫路を訪れた時まで乗っていないはずだ。それ以降は直通特急運転開始直後に試し乗りをしたり、ホームページを開くようになってからは何度も撮り鉄や乗り鉄のついでに乗っている。乗るたびに明石以東と明石以西での走りの差異に毎度驚かされるが、明石以西でがんばっているのだから、もう少し明石以東の走りもなんとかならんものかと思う。山陽の改善策は評論家などのセミプロをはじめ、ファンの間で出しつくされた感じがするが、どの案も現実的なものであっても、画期的な改善策というものはない。全区間に渡って並行する新快速に対抗するのは並大抵ではない。今のままでは衰退していく一方だ。阪神とうまく連携して、難波延伸線の有効活用、近鉄特急の乗り入れ、近鉄特急を範にとったデラックス特急の導入など何とか知恵を絞って新快速に一泡食わせて欲しいものだ。


JR阪和線

2007年02月05日 | JR西日本

060617hanwa1135162  JR阪和線に初めて乗ったのは3歳か4歳の頃に親に白浜アドベンチャーワールドへ連れて行ってもらった時だ。当時はもちろん国鉄で、行きは特急くろしお、帰りは急行きのくにという黄金コンビを利用した。おそらく特急に乗ったのはこれが初めてで、それ以外で幼少の頃、小学校中学校の頃に特急に乗ったという記憶はほんの少ししかない。田舎がなく、遠出は全てクルマ移動という家庭で育ったので、田舎がある家庭が羨ましかった。今では家系のほとんどが関西で収まるのを都会人ということで誇りに思っている。

 初乗りの時はJR阪和線は通っただけで何も記憶には残っていない。帰りの急行きのくにも同様だが、行きのくろしおよりも帰りの急行きのくにに乗ったことの方がうれしかった記憶がある。今はそうでもないが、子供の頃の私は急行信者であった。急行の中でも関西のエース級と言える急行きのくに、急行立山の両列車は一番のお気に入りだった。

060617hanwa381b406_1   JR阪和線に本格的に乗ったと言えるのは、中学の時にふらふらと一人乗りを初めてからの話になる。中学の頃は貧乏だったので、大廻り乗車をして大和路線などに乗っていたが、当時は和歌山線が大都市近郊区間に入っておらず、大廻り乗車できなかった為、なかなか乗ることができなかった。阪和線に乗ったときは私鉄にあまり興味がなかったので、和歌山まで阪和線で往復するという芸のない乗り潰しをしていた。往復乗れば片道乗るよりも見えてくるものだが、悪いことに学生時代からたくさん乗ればいいという考えを持ってしまい、行きはJR、帰りは私鉄という片道乗りを基本にするようになってしまった。今でもその基本は貫かれているが、最近はじっくり乗る、じっくり撮る方がより効率的(もう一度行きたくなくなる)と思い、新規の乗り潰し路線はじっくり見て回っている。

060617hanwa223e804  阪和線は今でも短編成の快速が多いが、JR発足直後は車両増備なしで増発を行い、短編成の快速が走り回っていた為、昼間から混雑していた印象が強い。今ならファンが涎を垂らす113系の阪和色が走り回っていたが、輸送力不足の印象はあった。これが改善されるようになったのは関空が開港して関空快速が運転されるようになってからだろうか。関空開港当初は日根野止まりの快速が関空快速化された形で、阪和快速は113系のまま別立てで和歌山まで運転されていたが、関空輸送が思いのほか少なかったのと阪和間直行輸送の減少により、紀州路快速の設定という表向きは大幅に改善されたと思わせる処置をとりつつ、昔ながらの阪和快速(221系化されてはいるが)は60分毎に減便されてしまった。日根野以南は相変わらず短編成の快速が運転されているが、この区間はよほどでない限り混雑することはなくなっている。南海本線の衰退は阪和線以上と言えるが、阪和線もあまり他人事ではいえないぐらい阪和間の輸送は落ち込んでいるように思える。和歌山の地盤沈下は鉄道ではどうしようもできないが、旺盛な自動車交通に対抗する画期的な策が出てくることを期待したいものだ。


阪急嵐山線

2007年02月04日 | 乗り鉄

051002hky230923  阪急嵐山線の初乗りは大阪の小学生としては定番と言える遠足での乗車となった。嵐山へ遠足に行ったのではなく嵐山から歩いて当時の国鉄嵯峨駅まで歩いて、山陰線で保津峡へ向かうというちょっと凝った遠足だった。保津峡の河原でお弁当を食べて楽しかったこともあるが、それよりも山陰線で滅多に乗れない国鉄のディーゼルカーに乗ったことが嬉しくて今でもよく覚えている。嵐山線は観光シーズンだったのかかなり混雑していたのでそのときの印象はあまりない。その後は嵐山方面へ行く時に乗ったり、鉄活動で京福などに乗ったついでに帰宅するのに乗ることが多かった。

 嵐山線といえば、のちに嵯峨野エクスプレスというこじゃれた名前が付けられた嵐山急行の運転が思い出される。梅田~茨木市間だが、桜やもみじをあしらったヘッドマークを付けた急行に乗った記憶が蘇る。あの頃は2800系が運用の中心だったように思うが、嵯峨野エクスプレスになってからは3300系や5300系を中心に6連の7300系や8300系も運用されていたように思う。2001年のダイヤ改正で土休日も10分サイクル化されてしまい嵯峨野エクスプレスが廃止されてしまったのは嵐山線にとっては残念に思う。本線ダイヤはよくなったものの、行楽シーズンの輸送に関しては今一歩のイメージがある。次回改正では特急へより集中する傾向になるダイヤとなる。今一度嵐山直通の優等の復活を望みたいところだ。


阪神本線

2007年02月03日 | 乗り鉄

050327hanshin89012  私が阪神本線を乗り潰したのは阪急各線同様幼少の頃である。阪神だけはいつもの祖母に連れられてというわけではなく、両親に連れられて神戸へ行った時に初めて乗り、梅田~元町間を完乗した。幼稚園か小学校1年の頃で、親が商売をしていたので、休みが平日だったため、学校が終わってから何でか阪神に乗って神戸方面へ行った記憶がある。どこへ行ったかの記憶はなく元町で降りたのは確かなので、食事でもしに行ったのかもしれない。帰りの記憶はないが、おそらく阪急で帰ったと思われる。初めて乗った阪神電車は速いという印象を受けた。地上をはうように走るイメージそのものだったが、今では高架化が進んで昔ほどのスピード感はなくなっている。阪神は阪急と合併してしまったが、阪急神戸線がスピードアップした現在、阪神にも続いて欲しいと思うのは私だけではないはずだ。

070119hans1601  阪神は以後甲子園へ野球観戦をする時に利用するぐらいだったが、姫路へ行った帰りに本来なら阪急に乗るところを阪神に乗りたいと行って阪神にわざわざ乗せてもらったことがある。子供の頃はなんでか阪急よりも阪神の方が好きだったので、滅多に乗れない阪神電車に乗りたかったのだろう。それ以外で甲子園へ行く以外は乗っていないので阪神とはしばらく疎遠になっていた。学生時代は乗り歩きで直通特急の初乗りなどで乗っているが回数は知れていた。社会人になって、会社が阪神沿線にあり、通勤はもとより仕事で利用する機会があり、今では毎日乗る路線となっている。阪神にはタイガースともども愛着があるので、ライバル関係ではなくなってしまったとはいえ阪急に負けないように頑張って欲しいものだ。

040525hanshinkoshien7 今シーズンからタイガースの縦じまのユニフォーム黄色が入るようになった。阪神の新しい赤胴車はオレンジベースになっており、ジャイアンツカラーだとなじられることが多い。黄色地の電車は少ないが、伊勢志摩ライナーなどを見るとおかしくはない。阪神電車を縦じまにしろとは言わないが(優勝したらそんなペイント電車があってもよい!!)、9300系などの塗装は黄色ベースにした方が阪神タイガースファンへの受けもよくなる。阪神電車にとってはタイガースファンは上得意なので、タイガースファンを喜ばせることも考えて欲しいものだ。


阪急神戸線

2007年02月02日 | 乗り鉄

060816hky82014 私が阪急神戸線に始めて乗ったのは他の阪急の路線同様、幼少の頃である。ご多分に漏れず祖母に連れられて神戸へ行った際に乗せてもらった記憶がある。その当時は今津線のときにも書いたように西宮北口にダイヤモンドクロスが存在していた。はじめて乗ったのが何歳だったか忘れたが、5歳未満であることは確かだろう。先頭にかぶりついていたのを覚えているし、先頭部の側窓がなくワンハンドルマスコンだったので7000系か6000系だったこともほぼ確かだ。三つ子の魂百までではないが、少なくとも30までは覚えていることにはなる。帰りの電車は三宮で増結をしていたので、須磨浦公園始発の特急だったと思われる。肝心なことは忘れるのにこういうことは案外覚えていたりするのは鉄の習性だろうか?

061223hky70022 以後阪急神戸線には遠足などで王子公園・・・かつては西灘と称していた・・・へ行く時に乗ったし、先にも書いたように宝塚線から今津線経由で西北から梅田まで乗ったこともあった。中学時代は一度西宮スタジアムへ行った際に乗った以外は乗った記憶がないが、高校時代は校外学習とは名ばかりの遠足で一度利用して、他に趣味で何度か乗っている。高校あたりまでは阪急神戸線と言えばいつ乗っても混んでいる印象のある路線だったが、学生になり乗り歩きをするようになった頃からは昔ほど混んでない印象が先立つようになった。阪神大震災以降のへこみが主な理由だろうが、JRの攻勢の影響もあるのだろう。2006年10月28日のダイヤ改正からは特急が夙川にも追加停車するようになった。十三、西宮北口しか停まらなかった過去の特急に比べて現在の特急は2駅多く停まるようになり、所要時分は最速だった26分より1分遅くなっただけなので、見かけ上はそれほどへこんでいないようにも思えるが、実際乗ってみると岡本以西からの利用は随分減っていることを感じる。ATSの改良は今まで消極策しか見当たらなかった阪急にとっては、今後に期待を持てそうな施策であったが、時期がもう少し早ければと思えて仕方ない。京都線にしてもそうだが、JRとの競合に対して後手を踏んでいる印象がかなり多い。特急の夙川停車は事前の策だったと言えるが、防戦いっぽうの印象は拭えない。そろそろJRとの競合からは切り離した阪急独自の施策を見せて欲しいものだ。神戸市交との直通計画はその一案と言える。色々クリアしなければならない問題もあるだろうが、阪急神戸線の発展のために是非とも実現して欲しいプロジェクトだ。


阪急箕面線

2007年02月01日 | 乗り鉄

040704hky31574  阪急箕面線も幼少の頃の早い時期に乗り潰している。阪急のうち小学校あたりまでで乗り潰した路線は京都線、宝塚線、神戸線、箕面線、嵐山線のみで、あまり用事のない千里線、伊丹線、甲陽線、今津南線に乗ったのは乗り潰しを目的として乗った学生時代以降となっている。

 幼少の頃箕面線になぜ乗ったかは当然ながら乗り潰し目的ではなく、箕面温泉、箕面の滝などへの観光に連れられて乗車したものである。親に連れられると当然クルマ移動となるので祖父母に連れられて箕面温泉スパガーデンへ行った時に何度か乗車した。おぼろげな記憶では帰りに箕面から準急に乗ったこともあったはずなので、平日に訪れたこともあったと思われる。また、もみじのシーズンには臨時準急が出ていたような気もする・・・このあたりはかなりあやふや(^^;)一つだけ覚えがあるのは石橋で宝塚線の臨時特急に乗り換えたことがある記憶は確かだ。時期までは覚えていないが、正月近辺だったのかもしれないし、あの頃は15分サイクルだったはずなので、正月以外にも行楽シーズンには臨時特急が運転されていたのかもしれない。

 箕面といえば、箕面駅前からスパガーデンへ至るケーブルカーがあった。確か無料で乗車できたはずだが、1993年にエレベータに置き換わってしまった。また、実際には見ていないが、箕面駅前から観光の馬車が出ているのを本で見たことがある。子供の頃はそれに乗りたくて仕方なかったが、その時乗れなかった馬車が馬に化けて今現在は競馬に熱中しているのかもしれない。