去年の暮れ、四谷の「オテル・ドゥ・ミクニ」が閉店したという話を聞いて驚きました。
あんなに美味しい人気店だったのに何故?という興味から、自伝的エッセイというこの本を読んでみました。
冒頭で、店をあそこに開いた経緯を知って驚きました。
住宅街の奥の、人が住んでいる家のドアを叩いて、この家を貸してくれと言った、というのです。
四谷の樹木に囲まれたそのお店に、私も昔行ったことがあります。
日記(このブログはまだ始めておらず、mixi日記)を検索してみたら、2006年4月でした。
学習院初等科の裏手の住宅街の中、小さいながらも雰囲気のある洋館です。
そこで「21周年特別記念メニュー」を。
「黒トリュフのパイ包み焼き スープ仕立て ポール・ボキューズ氏が1975年にエリゼ宮のために創作した一品」は、そういえばその後、代官山のメゾン・ポール・ボキューズでもスペシャリテとして頂いたのでした。
以下の写真は、その時の料理の一部です。
著者は、1954年北海道増毛町の貧しい漁師の五男として生まれる。
4人の兄姉たちは全員中卒で働きに出るという家で、小学生の頃から父親の漁を手伝っていた彼自身もそれを当然として、15歳で米屋の従業員として住みこみ、夜間の調理学校に通う。
札幌グランドホテルの社員食堂の飯炊きに無理くり入れて貰い、その後帝国ホテルで修業する。
といっても、村上信夫に憧れて上京した帝国ホテルでは、2年間ひたすら鍋を洗っていただけ。
でもその姿を、村上総料理長は見ていたのですね(無論鍋洗いだけではなく、色々と策を弄するのですが)。
駐スイス日本大使館の料理人に抜擢されるのです。
本格的なフランス料理も、フルコースの料理も作ったことないのに、大使の招く各国の賓客12名の料理を用意しなくてはならない、それがそこでの初仕事だった。
しかし持ち前の機転と、寝る間を惜しむ努力でもって、彼はそれを切り抜け、アメリカ大使に褒められる。
結局4年弱、スイスの日本大使館の料理人を大好評のうちに勤め、その後はフランスのミシュラン三ツ星店あちこちで修行する。
帰国した後、市ヶ谷のビストロ・スカナザの雇われシェフとなり、1985年四谷に「オテル・ドゥ・ミクニ」を開店。
まったくお金がなかったのに、自分を担保として、ノリタケや佐々木硝子の社長に売り込んで。
「茨城・酒井栗園産有機質栽培栗とコニャック風味アイスクリームのモンブラン」
そして37年間、「オテル・ドゥ・ミクニ」は予約が取れない店として有名となる。
彼は「怒れるシェフ」として有名なようですが、実際、厨房では殴ったり蹴ったりしていたのだそうです。
ビストロ・スカナザを始めて間もない頃、厨房で「おまえらみんな辞めちまえ」と怒鳴り付けたら、本当にスタッフ全員にその場でやめられたこともあったのですって。
私が四谷に行った時にはもう、穏やかなシェフの顔をして挨拶して下さいましたが。
そこを閉店して一旦更地にして、カウンター8席だけの店を作り、自分一人で切り盛りしたいのだそうです。
しかしそこには世界中から客が押し寄せ、値段は恐ろしいものとなり、益々予約なんか取れないでしょうね。
「オテル・ドゥ・ミクニ」に行っておいてよかった…
あんなに美味しい人気店だったのに何故?という興味から、自伝的エッセイというこの本を読んでみました。
冒頭で、店をあそこに開いた経緯を知って驚きました。
住宅街の奥の、人が住んでいる家のドアを叩いて、この家を貸してくれと言った、というのです。
四谷の樹木に囲まれたそのお店に、私も昔行ったことがあります。
日記(このブログはまだ始めておらず、mixi日記)を検索してみたら、2006年4月でした。
学習院初等科の裏手の住宅街の中、小さいながらも雰囲気のある洋館です。
そこで「21周年特別記念メニュー」を。
「黒トリュフのパイ包み焼き スープ仕立て ポール・ボキューズ氏が1975年にエリゼ宮のために創作した一品」は、そういえばその後、代官山のメゾン・ポール・ボキューズでもスペシャリテとして頂いたのでした。
以下の写真は、その時の料理の一部です。
著者は、1954年北海道増毛町の貧しい漁師の五男として生まれる。
4人の兄姉たちは全員中卒で働きに出るという家で、小学生の頃から父親の漁を手伝っていた彼自身もそれを当然として、15歳で米屋の従業員として住みこみ、夜間の調理学校に通う。
札幌グランドホテルの社員食堂の飯炊きに無理くり入れて貰い、その後帝国ホテルで修業する。
といっても、村上信夫に憧れて上京した帝国ホテルでは、2年間ひたすら鍋を洗っていただけ。
でもその姿を、村上総料理長は見ていたのですね(無論鍋洗いだけではなく、色々と策を弄するのですが)。
駐スイス日本大使館の料理人に抜擢されるのです。
本格的なフランス料理も、フルコースの料理も作ったことないのに、大使の招く各国の賓客12名の料理を用意しなくてはならない、それがそこでの初仕事だった。
しかし持ち前の機転と、寝る間を惜しむ努力でもって、彼はそれを切り抜け、アメリカ大使に褒められる。
結局4年弱、スイスの日本大使館の料理人を大好評のうちに勤め、その後はフランスのミシュラン三ツ星店あちこちで修行する。
帰国した後、市ヶ谷のビストロ・スカナザの雇われシェフとなり、1985年四谷に「オテル・ドゥ・ミクニ」を開店。
まったくお金がなかったのに、自分を担保として、ノリタケや佐々木硝子の社長に売り込んで。
「茨城・酒井栗園産有機質栽培栗とコニャック風味アイスクリームのモンブラン」
そして37年間、「オテル・ドゥ・ミクニ」は予約が取れない店として有名となる。
彼は「怒れるシェフ」として有名なようですが、実際、厨房では殴ったり蹴ったりしていたのだそうです。
ビストロ・スカナザを始めて間もない頃、厨房で「おまえらみんな辞めちまえ」と怒鳴り付けたら、本当にスタッフ全員にその場でやめられたこともあったのですって。
私が四谷に行った時にはもう、穏やかなシェフの顔をして挨拶して下さいましたが。
そこを閉店して一旦更地にして、カウンター8席だけの店を作り、自分一人で切り盛りしたいのだそうです。
しかしそこには世界中から客が押し寄せ、値段は恐ろしいものとなり、益々予約なんか取れないでしょうね。
「オテル・ドゥ・ミクニ」に行っておいてよかった…