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りそなの会計士はなぜ死亡したか(6)

2009-04-13 18:24:07 | 植草一秀氏の『知られざる真実』

りそなの会計士はなぜ死亡したか(6)
渡邉恒雄氏は『文藝春秋2009年1月号』掲載の御厨貴東大教授によるインタビュー記事「麻生総理の器を問う」のなかで次のように述べている。


「僕は竹中さんから直接聞いたことがあるんだが、彼は「日本の四つのメガバンクを二つにしたい」と明言した。僕が「どこを残すんですか?」と聞くと、「東京三菱と三井住友」だと言う。あの頃はまだ東京三菱とUFJは統合していなかったんだが、「みずほとUFJはいらない」というわけだ。どうして三井住友を残すのかというと、当時の西川善文頭取がゴールドマン・サックスから融資を受けて、外資導入の道を開いたからだと言う。「長銀をリップルウッドが乗っ取ったみたいに、あんなものを片っ端から入れるのか」と聞くと、「大丈夫です。今度はシティを連れてきます」と言った。今つぶれかかっているシティを連れてきて、日本のメガバンクを支配させていたらどうなったか、ゾッとする。」


竹中金融相は金融行政を「事前調整型」から「事後チェック型」に転換すると主張していた。上記記述から読み取れる金融行政の基本スタンスは、金融産業の国家による統制管理である。「事後チェック」はむろんのこと、「事前調整」をはるかに飛び越えた行政当局による強権支配の構図である。民主主義国家の行政とは完全に異質の、国家による金融市場の独裁的支配=「権力の横暴の構図」が鮮明に浮かび上がる。


2002年10月に竹中金融プロジェクトチーム(PT)が「金融再生プログラム」を決定した際、強烈な反発を示したのはメガバンク首脳だった。竹中氏が金融行政の根幹ルールを突然、強権によって変更しようとしたのだから、銀行首脳が猛烈に反発するのは当然だ。強烈な反発を示した筆頭が三井住友銀行頭取の西川善文氏だった。


繰延税金資産の自己資本への組み入れが5年分認められてきた。この上限が1年に変更されれば、ほとんどの大銀行が自己資本比率規制をクリアできず、破たんしてしまう。2002年10月に検討し始めた重要事項の変更を2003年3月期決算から適用するというのは、意図的な銀行潰しとしか言いようがなく、正気の沙汰ではなかった。


竹中金融相は結局、繰延税金資産計上ルール変更を断念したが、その後、スケープゴートを選定し、公認会計士協会と監査法人を活用して、大銀行破たんシナリオを演出していったと考えられる。


りそな銀行がいけにえとなって毒牙にかかったとき、私は西川善文氏がどのように金融庁に対して抗議するのかを注目した。しかし、西川氏の姿勢は2002年10月とは別人のものになっていた。金融行政に対して一切の反発を示さない、恭順の姿勢だけが観察されたのだ。


その裏側に、2002年12月11日の竹中金融相、西川善文氏、ゴールドマン・サックスCEOのヘンリー・ポールソン氏らによる密会があった。竹中氏は日本のメガバンクを二つにし、そのメガバンクを外国資本の手に渡すことをミッション(任務・使命)としていたと推察される。渡邉恒雄氏の証言は、この推論を明確に裏付けている。西川氏はこうしたプログラムに完全に取り込まれたのだと考えられる。


竹中金融行政の深い闇の第1幕が「りそな疑惑」だとすれば、第2幕が「新生銀行上場承認疑惑」であり、第3幕が「意図的なUFJ銀行潰(つぶ)し疑惑」である。


UFJ問題については、菊池英博教授、森永卓郎氏が記述し、また「Electronic Journal」様がさまざまな指摘をされている。


りそな問題に話を戻す。竹中金融相は表向き、「りそな銀行の自己資本不足はプロフェッショナルの監査法人が独立に判断したもので、金融庁は監査法人の判断に介入しなかった」と説明しているが、2003年5月17日のりそな銀行による公的資金注入申請に至る経緯を詳細に追跡すると、この公式発言を信用することはできない。


そもそも、なぜ「りそな銀行」の繰延税金資産だけが5年計上を否認されたのかについての合理的な説明が存在しない。りそな銀行だけが、「スケープゴート」として選定された可能性が高い。その理由の一部はすでに述べてきた。


りそな銀行の繰延税金資産5年計上の否認には、木村剛氏が密接に関わっていると見られる。木村氏は竹中金融PT、および金融問題タスクフォースのメンバーであり、朝日監査法人と新日本監査法人の海外提携監査法人であるKPMG系列の日本法人代表を務めていた。


『月刊現代2009年1月号』の佐々木実氏の論文によると、2003年3月17日に木村剛氏が朝日監査法人の亀岡義一副理事長と会食した理由は、亀岡氏が木村氏に株式会社オレガの代表取締役落合伸治氏を紹介するためだったという。


落合氏はその後、銀行設立の申請を金融庁に提示し、金融庁は異例のスピードで銀行設立の許可を出した。この銀行こそ、「日本振興銀行」である。日本振興銀行は当初、落合氏が社長で発足したが、その後に木村氏が名目的にも支配者の地位に就任した。しかし、発足時点から「木村銀行」の本質を内包していた。


落合氏は木村氏の協力を仰いだ理由について、木村氏がいつも「金融庁と竹中さんがバックについている」ことを述べていたので心強いと思ったからと述べている。この点も佐々木氏が『月刊現代』で指摘している。


2002年10月30日に発表された「金融再生プログラム」には、中小企業向け銀行の新規参入促進に関する記述が盛り込まれていた。


「中小企業の資金ニーズに応えられるだけの経営能力と行動力を具備した新しい貸し手の参入については、銀行免許認可の迅速化や・・・」との記述が唐突に盛り込まれた。


木村氏は中小企業向け銀行ビジネスに強い関心を有していたと見られる。「金融再生プログラム」に中小企業向け銀行設立促進に関する条項が盛り込まれ、落合氏を社長とする銀行設立の申請が提出された。金融庁は異例のスピードで銀行免許を付与した。設立された銀行=日本振興銀行では、結局木村氏が支配者の地位に就任した。「日本振興銀行」の深い闇についても、解明しなければならない問題が多い。


りそな銀行の自己資本不足を最終的に確定する役割を担ったのは新日本監査法人だったが、12月11日付記事に記述したように、新日本監査法人はりそな問題の着地点について公認会計士協会の奥山章雄会長に相談し、奥山氏は金融問題タスクフォースで金融庁の了解を何度も確認したとのことだ。


りそな銀行処理の着地点は竹中金融相、公認会計士協会、新日本監査法人との間の協議により決定されたと考えられる。実態としては、竹中氏の意向が最終決定に反映されたと考えられる。


りそな銀行の自己資本不足を強制する理論的根拠を提供したのは木村剛氏であると考えられる。木村氏は裸の自己資本が2%以上ある場合に繰延税金資産計上を1年認めるとの原則論に固執して、「将来の収益回復を前提に一定年数繰延税金資産計上を認める」との1999年11月の公認会計士協会指針第4項但し書きを認めないとするものだった。ここでいう「一定年数」とは5年以内の年数を指す。


木村氏の主張を採用するなら、りそな銀行の繰延税金資産計上はゼロないし1年しかありえなかった。木村氏は2003年5月14日の段階で、なお、強硬にこの主張を提示していた。


ところが、最終決着は「3年計上」だった。私は『知られざる真実-勾留地にて-』第一章第16節に「1・3・5の秘密」と題して、この問題を記述した。りそな銀行への公的資金投入の根拠とされた預金保険法第102条には第1項措置から第3項措置まで規定が存在した。このなかの第1号措置が「抜け穴規定」だった。「Electronic Journal」様が、この点についてのわかりやすい解説を示してくださっている。


「退出すべき企業を退出させる」=「自己責任原則」、を根本から否定する、「退出すべき企業を税金で救済する」=「自己責任原則の破壊」を意味する抜け穴規定が預金保険法第102条に盛り込まれていたのだ。


竹中金融庁はこの「抜け穴規定」を利用した。「抜け穴」を利用することを前提とすると、繰延税金資産計上「ゼロないし1年」の選択肢はなかった。「4年ないし5年計上」では、りそな銀行は決算をクリアしてしまう。これも選択肢から除外された。「3年計上」が「抜け穴」を利用する唯一の選択だった。


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「サンプロ」竹中平蔵氏「存在の耐えられない」誤謬

2009-04-13 18:17:59 | 植草一秀氏の『知られざる真実』

「サンプロ」竹中平蔵氏「存在の耐えられない」誤謬
 4月12日のテレビ朝日番組「サンデープロジェクト」に、度重なる国会での参考人招致にもかかわらず、国会への出頭を拒否し続けている竹中平蔵氏が出演した。竹中氏と仲良しグループを形成している御用電波芸者の田原総一朗氏も、竹中氏に対して国会に出頭すべきと苦言を呈する必要があるのではないか。


竹中氏がこの番組に出演するのは、番組コメンテーターの財部誠一氏が決まって援護射撃をするからだ。やらせのような出来レースの場以外に竹中氏は出て来ない。


しかし、郵政民営化は竹中氏が法案策定に深く係わって実行された政策である。竹中氏と法案策定の係わりは、竹中氏が自著で「大臣が法案作成にこれだけ直接かつ詳細に係わったのは前代未聞のことだった」と記述するほどのものだった。


2004年4月から2005年4月までの1年間に郵政民営化準備室は米国関係者と17回も会合を重ねて郵政民営化関連法案を策定した。このことを衆議院郵政民営化特別委員会の質疑で明らかにした城内実氏は、竹中氏サイドからこの質問を竹中氏に直接糺(ただ)すこと勘弁して欲しいと懇願されたことを明らかにされている。


かんぽの宿売却規定は法案確定の直前に、竹中氏の指示で日本郵政株式会社法の附則に盛り込まれたことも国会審議で明らかにされた。


貴重な国民資産が破格の安値でオリックス不動産に売却されようとしていた。ギリギリのところで、この不正売却は回避されたが、問題の全容はまだ明らかにされていない。竹中氏は、出来レースや「やらせの場」でのみ、稚拙な反論を繰り返しているが、単なる「犬の遠吠え」にしかなっていない。


国会で国民が十分に納得できる説明をする責任を負っている。竹中氏がどうしても参考人での出頭を拒否するのなら、国会は竹中氏を証人として喚問することを検討するべきだ。


今日の番組では、リチャード・クー氏との討論が行われ、経済の底入れが実現しつつあるのかどうかがテーマとされたが、そもそも竹中氏は内外経済の深刻な悪化を完全に見誤ってきたのであり、このような人物に先行き見通しを聞いても意味はない。


市場原理主義経済政策の破たん、セーフティネット破壊の経済政策の失敗が明らかになったいま、小泉竹中経済政策の破たんは誰の目にも明らかになっている。竹中氏と同じ主張を示した中谷巌氏もすでに、自らの過ちを認め、懺悔(ざんげ)している。竹中氏を出演させ、自己批判と懺悔を迫るのなら理解できるが、その竹中氏にさらに経済展望を聞こうとするのだから、笑止千万としか言いようがない。


実際に竹中氏の発言は「改革が不十分だから景気が悪くなった」の一点張りで、示唆に富む発言は皆無だった。


番組のなかで竹中氏が「日本の不良債権処理に失敗と成功があったことをはっきりさせなければならない」と述べて、小泉政権の下で竹中氏が実行した不良債権問題処理が、あたかも成功であったと主張しているかのような発言があった。


これは、客観的に見て完全な誤りである。小泉竹中経済政策は不良債権問題処理失敗の典型的事例である。米国は今回のサブプライム危機に際して、小泉竹中経済政策の失敗を「反面教師」として役立てた。公共放送で間違った情報を流布するのは大きな罪である。


グラフは1994年から2006年にかけての日経平均株価を示している。竹中氏は不良債権の金額を明らかにすることが必要で、竹中氏がそれを実行した趣旨の発言を示したが、これも正しくない。


日本は不良債権問題処理を三回間違えた。


一度目は1992-93年である。住専問題が最初に表面化したのは1992年である。この段階で不良債権の実態を明らかにして抜本処理を実行していれば問題の深刻化を回避することが可能だった。私は1992年秋に公的資金投入を含む抜本処理を主張し、多くの媒体に主張を提示した。日経新聞経済教室にもその主張を示した。しかし、大蔵省は不良債権問題に対して「場当たり、隠ぺい、先送り」の対応を示して、最初の抜本処理のチャンスを潰した。


二度目の失敗が1996年から1998年の対応だった。95年の本格経済政策対応の効果も表れて、1996年に日本経済はバブル崩壊不況から脱出した。私は経済の安定成長持続を最優先課題に位置付けるべきだとしたうえで、1997年の増税規模圧縮を強く主張し続けた。


不良債権問題の規模が巨大であり、行き過ぎた緊縮策が、経済悪化-株価下落-不良債権問題爆発、の悪循環を発生させることを強く警告した。


しかし、橋本政権は1996年6月に消費税増税方針を閣議決定した。株価は96年6月の22,666円から98年10月の12,879円まで暴落し、私が警告した通り、金融問題が爆発した。拓銀、山一証券、長銀、日債銀などが相次いで破たんした。


私は97年1月のNHK日曜討論で不良債権は100兆円存在すると発言した。経済企画庁の吉冨勝氏は「ふざけたことを言うな」との対応を示した。大蔵省は不良債権が20兆円台であると主張していたが、98年後半になってようやく約100兆円の不良債権の存在を認めた。


橋本首相はのちに、96年の政策が誤りであったことを正式に認め、2001年の自民党総裁選では、私の主張に沿う政策提言を示された。


1998年から2000年にかけて、小渕政権が経済改善の経済政策を実行し、同時に60兆円の金融危機対策を示し、また、日銀がゼロ金利政策を実行して、日本経済は浮上した。金融問題も確実に解決に向かい始めた。


三度目の失敗が2000年から2003年の経済政策対応だった。日銀は2000年8月にゼロ金利解除に踏み切る間違いを犯した。このとき、もっとも熱心にゼロ金利解除を主張したのが竹中平蔵氏である。


2000年から2003年にかけての最大の失敗は、不良債権問題が極めて深刻ななかで、史上最強の緊縮財政を実行したことである。私はこの路線を進めば橋本政権が犯した過ちを繰り返すことになることを主張した。2001年に小泉政権が発足したとき、日本経済は間違いなく戦後最悪の状況に転落するとの見通しを示し、一貫して小泉政権を批判した。


実際、日本経済は戦後最悪の状況に陥った。日経平均株価は2000年4月の20,833円から2003年4月の7607円に暴落した。この結果、金融問題が再び火を噴いた。


2003年、俎上(そじょう)に載せられたのは「りそな銀行」だったが、「りそな銀行」の処理がいかに不正と欺瞞に満ちたものであったかは、本ブログや拙著『知られざる真実-勾留地にて-』に記述してきた通りである。


竹中氏は「経営者の責任を追及した」と言うが、第一に責任を負うべき「株主責任」をまったく追及しなかった。株主に巨大な利益を供与したのが現実である。小泉竹中政治を明確に批判した有能な経営者を追放し、小泉竹中政権の近親者を新経営陣に送り込み、「りそな銀行」を実質的に乗っ取ったのが実態である。


「りそな銀行」はその後、自民党に対する融資金額を激増させたが、この事実をスクープしたと言われる朝日新聞記者がスクープ記事発表と同時に東京湾で水死体で発見されたと伝えられている。


不良債権問題が深刻な場合には、まず、マクロ経済政策で経済の改善を促進しなければならない。経済の改善を誘導しつつ、金融機関の資本不足に対応し、不良債権問題を解決する。


これが、金融危機への対応策としての「鉄則」である。マクロ経済政策とは金融緩和政策と緊縮でない財政政策である。私は96年も、2000-2002年も、この政策を主張し続けた。


竹中氏は何を主張したのか。


2000年に金融引き締め政策を最も強く主張したのが竹中氏であった。2000年8月にゼロ金利政策を解除した日銀は、結局2001年3月にはゼロ金利政策に復帰した。金利引き上げ政策が誤りだったことが判明した。


竹中氏は2001年から2003年にかけて激しい緊縮財政を主張して実行した。このために、日本経済は本来直面する必要のなかった「金融危機」に突入し、多くの国民が苦しみの地獄に追い込まれたのだ。


挙句の果てに、「自己責任原則」を踏みにじる「りそな銀行救済」が実行された。破たんする銀行を税金で救済すれば恐慌は発生しない。株価は反発する。2003年の事態改善は「猿でもできる金融問題処理」だった。


この過程で巨大な利得を獲得したのは、「不正な銀行救済」の情報を事前に入手し、資産価格が暴落するなかで喜んで資産取得を進めた外国資本と一部の事前情報入手者であったと考えられる。拙著『知られざる真実』で私が明らかにしたのは、この国家犯罪的ディールの全貌である。


竹中氏はマクロ経済政策における財政政策発動の主張は、世界の経済学の主流から完全に消滅したことを強調してきた。その竹中氏が、米国の財政政策発動を見るやいなや、「いまの局面では財政政策発動が必要だ」と発言するのだから驚愕(きょうがく)である。


竹中氏の驚異的な「厚顔無恥」ぶりには、学ばねばならぬ点もあるかと自省する必要を感じるが、このような曲学阿世の人物をテレビに登場させることに対する慎重な対応が、公共放送には求められる。


文藝春秋2009年1月号で渡邉恒雄氏が指摘したように、竹中氏はシティグループによるメガバンク実質買収を目論んでいたようである。また、昨年春の段階で郵貯資金での米国サブプライム危機への資金供給を提唱していた。この言葉に乗っていたら、日本国民は巨大な損失を蒙っている。


米国は小泉竹中経済政策の大失敗の教訓を「反面教師」として活用し、経済支援政策を発動したうえでの金融問題処理に取り組んでいるのだ。ブッシュ政権は昨年1680億ドルの景気対策を発動し、オバマ政権は本年2月に7800億ドルの追加景気対策を決定した。


竹中氏を出演させ、事実とまったく異なる弁明を流布することを、これ以上、容認するべきでない。事実に反する間違った情報の流布は国民の利益を損なうものである。竹中氏は出来レース番組で低質な情報を流布する前に、一国民としての責務を国会で果たすべきである。


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