脱原発は集団ヒステリーでなく人類の叡智である
イタリアで脱原発の国民投票が可決されたことについて、自民党の石原伸晃幹事長が「集団ヒステリー」だと発言した。
日本では、東電の原子力事故損害賠償負担を国民に転嫁するという東電救済案を政府が閣議決定したところ、東電株がストップ高を演じた。
かたや、福島県では飼育していた乳牛を原発事故のためにすべて手放さざるを得なくなった酪農家が、将来を悲観して自殺したことが伝えられた。
原子力発電は他の発電方式に比べてコストが安いと言われるが、コストが安いのは、最終的な限界部分においてだけである。
原子力発電の設備をすべて整え、地元の自治体に巨大な補助金を政府が支払い、また、政府が巨大な費用を投じて使用済み燃料の処理費用を負担する。
これらの巨大な費用はすべて計算の外に置かれ、すべてのお膳立てができたところで、使用する燃料コストだけを比較すると、原子力発電が他の発電方式よりも安価であるというだけに過ぎない。
ただし、これは、電力会社の損益計算上の真実ではある。電力事業に対しては、政府が巨大な資金を投下している。これらの、広い意味での補助金を得て電力会社は事業を営んでいる。原子力事業に関しては、政府負担が圧倒的に大きいために、最終的な発電コストにおいて、原子力が火力や水力よりも有利になっているだけにすぎない。
しかも、電力事業では地域独占が許されており、価格競争が実質的に存在していない。だからこそ、法外な広告宣伝費を計上できるのでもあるが、電気事業法では、料金設定が事業の原価に利益率を乗せた形で決定される。この方式では、設備に膨大な費用が計上される原子力発電を採用した方が、獲得できる利益の絶対水準が大きくなる。電気料金の決定体系のなかに、巨大な設備投資を必要とする原子力発電が促進されるメカニズムが内包されているのだ。
今回、福島で極めて深刻な原子力事故が引き起こされた。事故発生の原因は、原子力発電所が想定される地震や津波に対する備えを十分に取っていなかったことにある。
原子力損害賠償法第3条は、原子力事故が発生した場合の損害賠償責任を無限で事業者に求めるとの定めを置いている。ただし書きに、「異常に巨大な天災地変」、「社会的動乱」によって事故が発生した場合は、「この限りでない」との例外規定を設けている。
事業者が免責される「異常に巨大な天災地変」については、1998年9月11日に開かれた「第3回原子力損害賠償制度専門部会議事要旨」によると、事務局から「関東大震災の三倍以上の震災」との説明があったことが推察される。
この、「関東大震災の三倍以上の震災」の根拠は、
1961年5月 杠文吉 科学技術庁原子力局長(当時)の国会答弁
「関東大震災の3倍も4倍にも当たる天災地変の損害が生じた場合、超不可抗力という考え方から事業者を免れさせる」
1961年5月 加藤一郎 東大教授
「人間の想像を超えるような非常に大きな天災地変がおこった場合にだけ免責を認める」
などにあるとみられる。
関東大震災では震度7が記録されているが、今回は6強までである。また、福島第一原発の震度はそれ以下であったとみられる。
津波については、1896年に発生した明治三陸地震津波で、今回と同規模の津波が観測されたことが記録として残されている。
また、西暦869年に発生した貞観地震において、今回と同規模の地震と津波が発生したことが確認されている。
こうした過去の地震と津波の記録から、独立行政法人産業技術総合研究所は、2009年に原発の津波対策、地震対策が不十分であるとの提言を公開しており、東電および政府は、この警告を無視したと判断できる。
こうした事実と経緯を踏まえると、今回の地震および津波は、「異常に巨大な天災地変」には該当しないと考えるのが正当であり、現に、政府はその見解を明確に示している。
こうなると、法律の規定に従い、東電は無限の損害賠償責任を負うことになり、東電がその責任を負いきれない場合には、政府が損害賠償を行うことになるはずだ。
手順としては、東電が支払うことのできる損害賠償責任を可能な限りにおいて負担する。これを明確化するには、東電を法的整理にかける以外に方法はない。しかるのち、不足する資金を政府が責任を持って支払うことになる。残余の損害賠償責任については、これを直接政府が支払っても、電気料金引き上げによって電力利用者が負担しても、国民が負担することには違いがない。
ところが、菅政権は、東電を救済して損害賠償を実施しようとしている。つまり、東電の経営者責任、株主責任、与信金融機関責任、社債権者責任、従業員責任は問わないとの姿勢を示している。
回りくどくなったが、原子力発電のコストは、他の発電方式と比較して決して低くないのである。設備を敷設する費用、電源三法に基づく地元自治体への資金投入、使用済み燃料処理費用、そして、事故が発生した場合の損害賠償費用のすべてを合わせて、原子力発電のコストを考えなければならないのだ。
東電が原子力事故の損害賠償責任を法律の規定通りに負わされるなら、東電は100%破たんする。ひとたび、事故を引き起こせば会社が破たんする現行法下の現実が、事業者に突き付けられるなら、事業者自身が原子力事業からの撤退を真剣に検討し始めるはずだ。この意味での、学習効果が働くような政策運営が求められている。
スリーマイル島、チェルノブイリ、そして福島で巨大原子力事故が発生した。この現実を踏まえて、賢明なる人類は、原子力は人間の手には制御不能であるとの無力を悟らねばならない。
ひとたび、事故を引き起こした場合の損失は、無限大に広がっているのだ。当然のことながら、脱原発の論議が生まれてくるはずである。生まれてこない方が不自然だ。これは人間の叡智であって、「ヒステリー症状」などではない。
また、日本の発電量に占める原子力の比率は3割に達しており、原子力発電を除外すれば、国民生活が成り立たないとの不安を煽る論調が流布されているが、これも事実に反する。
原子力の比率が3割なのは、電力会社が損益上有利な原子力発電を利用可能な上限で稼働させ、他の発電方式の稼働率を引き下げているからにすぎない。
藤田祐幸氏の計算によれば、過去のピーク時電力の水準は、火力と水力の二つの発電能力でカバーできるとのことだ。
10年なり、15年の時間視野のなかで、原子力発電への依存をゼロにしてゆくことは、十分に対応可能な施策である。日本においても、脱原発の論議が大いに喚起される必要がある。
ところが、国民的に人気のある日本を代表する作家である村上春樹氏が、脱原発をテーマに掲げた講演を行うと、日本のメディアが、直ちに「賛否両論」と報道する。「脱原発」のムーブメントが国民運動として広がることに対する激しい警戒感が示される。
「脱原発」の論議を封じ込めようとする巨大な力が働く理由は単純明快である。「欲得」を優先する人々にとっては、「脱原発の正論」よりも、「原発による現ナマ」にはるかに強い関心があるからなのだ。
経済産業省は、これだけの事故が発生したにもかかわらず、電力業界及び原子力関連団体への天下り根絶を、いまだに宣言しない。電力会社と官との癒着は、あまりにも根が深い。
経済界にとって、原子力関連ビジネスはまさに宝の山である。言い値で値段がつく、暴利をむさぼることのできる限られたビジネス領域なのだ。
マスメディアは、電力業界および原子力関連企業・団体から膨大な広告収入を得てきている。「脱原発」などありえない話なのだ。マスメディアに群がるコバンザメのような御用評論家は、この機会に積極的にアピールして、将来の収入増加を画策する。
原子力関連学会は、東電および政府からの巨大な資金投下の恩恵を受け続けてきた。「欲得」を優先する学者は、「脱原発」など決して口にできない環境に置かれ続けてきたのだ。
「欲得」から離れ、「真実」と「正義」と「良心」に支えられた良識ある学者だけが、恵まれない処遇をも厭わずに、真実の研究と情報発信を続けてきたのである。
財政再建で「子や孫の世代に負担を押し付けられない」と述べる人が、原発問題では、「子や孫の世代に膨大な放射性廃棄物を押し付けられない」と語らないところに、財政再建論者のいかがわしさが表れてもいる。
また、「脱原発」に強烈に反対する者のなかに、「日本核武装論」を唱える者がいるのも事実である。この論議も避けて通れないものだ。
これからの政治は、「欲得」を離れるべきである。「政官業の癒着」を断ち、米国への隷従のくびきを断ち切れる人物、日本政治構造を刷新できる人物を、新しいリーダーに選出しなければならない。欲得にまみれた薄汚れた政治家を排除すること、これが再生日本の第一歩になる。