日本人は虫の音を音楽として聴き、そこに「もののあわれ」さえ見出しています。
さらに日本人は、自然と心を通わせるという特技をも持っています。
俳句などは、その好例です。
芭蕉の「枯れ枝に 烏の止まりたるや 秋の暮れ」という俳句を、ある欧米人に読んで聞かせその俳句の意味を説明したところ、その人は、「それで?」と答えたそうです。
つまり、欧米人のとって「枯れ枝に烏がとまっています。秋の暮れに」だけではスートリーが始まらないのです。
日本人なら「それで?」など聴き返すことなく、秋の夕日に沈む様子に枯れ枝が伸びて、その枝にポツンと止まっている烏の姿が思い浮かび、秋の憂愁がその村全体を覆っているイメージが湧いてきます。 烏の黒一点が秋の中心であるかの如くの風景を浮かんできます。
人によりニュアンスの相違はあれ、こんなことを日本人なら誰でも瞬間的に思い描いています。
今日の絵は、”松島”です。F8号
「古池や 蛙飛び込む 水の音」という日本人なら誰でも知っている芭蕉の俳句でも日本人なら、森閑としたどこかのお寺の境内の古池で、蛙が一匹ポチョンと飛び込む光景を想像し、その静けさを感じとることが出来ます。
しかし、日本以外の国では、古い池の中に蛙がドボンと飛び込む光景を想像するらしいく、これでは情緒も何もあったものではありません。
このように自然に心を通わせるような、素晴らしい感性を日本人は備えているのです。
つまり、これらは自然に恵まれたお陰で、自然にひれ伏す気持ちが生まれ、無常観が発達したのです。