昭和11年(1936年)2月26日、陸軍の一部皇道派将校に率いられた1400名の兵が首相・陸相官邸、内大臣私邸、警視庁、朝日新聞などを襲撃、陸軍省・参謀本部・警視庁などを占領しました。
この事件で斉藤実内大臣、高橋是清蔵相、や陸軍教育総監らが殺害されました。
政府は、あまりの出来事に動揺しましたが、めったに政治に意見を言わなかった昭和天皇が「反乱軍をただちに鎮圧せよ」と激怒され、翌日に戒厳令を施行し、戒厳司令部は次のような「兵に告ぐ」というビラをまきました。
高橋是清子爵
「今からでも遅くないから原隊へ帰れ。抵抗する者は全部逆賊であるからから射殺する。お前達の父母兄弟は国賊となるので皆泣いているぞ。」
これで兵や下士官たちに動揺が起き、やがて大勢は帰順、一部幹部は自決し、残るものは逮捕され、軍法会議により、17名が死刑にされ事件は収束しました。
しかし、この後、更に彼らの路線を引き継ぐものたちが軍部内で台頭し、やがてその代表として東条英機が登場し、日本は深い戦争の泥沼の中に引きずり込まれていきます。
と言う意味に於いてこの事件が、日本の不幸な歴史の始まりだったのです。