苦痛に悲鳴を発したり、大声で泣いたり、助けを呼んだり、一般に何かそういう
声を発することを、ここではみんないっしょくたに「吠える」と称する。
シベリアでは熊が吠えるだけではなくて、雀や鼠もまた吠えるのだ。
「猫に捕まって吠えるのなんのって」と人々は鼠の話をする。
アントン・チェーホフ『シベリヤの旅』
Let's roor, your honor
【尚賢 情実人事は国中をくさらす】
「尚賢」は字義どおりに解釈すれば、賢人をとうとぷことである。だが、いわんとするところは、し
かく単純ではない。「官に常貴なく、民に終賤なし」(尚賢・上)―貴族がいつまでも貴族であって
いいはずもなく、人民がいつまでも卑賤であっていいはずもない。上のものが、いつまでも上にいられ
ると思うな。政治を、無能な貴族の手から解放せよ。当時、世襲的な貴族政治は、人々を窒息させよう
としていた。どんな才能があっても、低い身分に生まれた者に、門はかたく閉ざされていた。吊手は、
かれらの声を代弁した。したがって、「尚賢」は不平等と差別に対して平等無差別を主張するものであ
り、「兼愛」に通ずる。この停滞した社会の危機を救うものは「尚賢」であり、権力争奪の惨禍を救う
ものは「兼愛」である、というのだ。 なお、「尚賢」は上・中・下とあり、ほぼ同じ論旨だが、ここ
には最も整っている下編を訳出している。
今天下之士君子、皆欲富貴面詰貧
賎。然女伺為面得富貴、面避貧賎哉。
日、莫若為王公大人骨肉之親。王公
大人骨肉之親、貫故富貴、面目美好
者、此非可学面能将也。使不知弁、
徳行之厚、若出湯文武不加将也。王
公大人骨肉之親、壁疸聾軒、暴為梨
村不加失也。是故以貧不当賢、罰不
当暴。其所貧者已無功矣、其所剽者
亦無罪。是以使百姓皆放心塀体、温
以為善、舎其股肱之力、而不相労来
也、腐臭余財、而不相分資也、隠匿
良道、而不指教唐机。若此則肌着不
得食、寒着不得衣、乱着不得治。是
故昔者亮有舜、舜有両、両有皐陶、
湯有小臣、武王有閑天蚕順、南官括
教官生、而天下和、庶民阜。
是以近着安之、達者帰之、日月之
所照、舟車之所及、雨露之所願、粒
食之所養、得此莫不助言。且今天下
之王公大人士君子、中実将敵為仁義、
求為上士、上敵中聖王之道、下敵中
国家百姓之利、故尚賢之為説、而不
可不察也。尚賢者、天恵百姓之利、
而政事之本也。
いま天下の士君子、みな富貴を欲して貧賎を悪ひ。然るになんじ何をなしてか富貴を得て、貧賎を避く
るや。曰く、「王公大人の骨肉の親たるにしくはなし」。王公大人の骨肉の親と、貫故富貴なると、面
目美好なる者とは、これ学びてよくすべきものにあらず。知弁せざらしむれば、徳行の厚きこと、両・
湯・文・武のごときも得るを加えず。王公大人の骨肉の親なれば、壁稿聾軒、暴、梨糾たるも失うを加
えざるなり。この故にもって賞すれば賢に当たらず、到すれば暴に当たらず。その賞するところはすで
に功なく、その罰するところはまた罪なし。ここをもって百姓をして、みな心を放ち体を僻り、もって
善をなすを胆み、その股肱の力を舎きて相労来せず、余財を腐臭して、指分資せず、良道を隠匿して、
指教雨せざらしむ。かくのごとくなれば飢うる着食を得ず、寒ゆる着衣を得ず、乱るる着冶を得ず。こ
の故に昔は尭に舜あり、舜に萬あり、萬に皐陶あり、陽に小匝あり、武王に閔夭・素願・南宮括・教官
生ありて、天下和し、庶民阜んなり。ここをもって近き着これに安んじ、遠き着これに帰し、日月の照
らす所、舟車の及ぶ所、雨露の漸す所、粒食の養う所、これを得て誉れに勧まざるなし。かついま天下
の王公大人士君子、まことに仁義を為めんと欲し、上士たらんを求め、上は聖王の道に中らんと欲し、
下は国家百姓の利に中らんと欲せば、故に賢を尚ぶの説たる、察せざるべからず。賢を尚ぶは、天鬼
百姓の利にして、政事の本なり。
【解説】
君子なら、だれでも富貴を欲して貧賎をにくむはずである。だが、現状では、貧賎から抜け出て、富貴
を手に入れるためには、縁故関係を結ぶか、さもなければ財産、身分を手に入れるか、容貌をよくする
以外に、とるべき方法はない。しかし、それはかなわぬ相談である。縁故関係、財産、身分、容貌など
は、学んで手にはいるものはないからだ。つまり筋道の立った基準をもうけないかぎり、いくら聖王の
ような徳行の厚い人物であっても、とりたてられることはないのだ。その反対に、支配者と縁故関係が
ありさえすれば、イザリ、オシ、ツンボ、メクラで、しかも、桀王、糾王のような暴虐非道な者でも、
地位を失うことはないのだ。
現状では、賞をもうけても能力のある者には与えられず、罰をもうけてもよこしまな者には適用され
ない。反対に、功績のない者が賞をもらい、罪のない者が刑罰に処されているありさまだ。だが、その
結果はどうなるか。国全体が無気力状態におちいる。社会に貢献しようとしても足をひっぱられるから、
力があってもむだに消費して、人のために働かなくなる。財力があっても、持ちぐされにして、人に分
配しなくなる。学問を身につけていても、隠したままにして、人に教えなくなる。こうなれば、人々は
飢えと寒さにせまられ、社会は混乱状態におちいるばかりだ。聖王の時代はそうでなかった。
堯には舜がいたし、舜には爾がいた。萬には皐陶がいたし、湯王には伊尹がいた。また武王には閎夭、
泰順、南官括、教官生がいた。聖王の下では、天下は安定をたもち、人民全体が意気に燃えていたから、
領内の人民がその支配に満足したことはもちろん、遠く領外の人民までが善政を慕って帰服した。太陽
や月の光りの及ぶところ、舟や車の行き及ぶところ、雨や鱈のうるおすところ、穀類を常食とするとこ
ろ、この地上のいかなる場所であっても、能力のある人物を登用するならば、人々は勤勉な心と向上心
とをもつようになるのだ。もし、支配者および君子が、仁義の徳を身につけ、人材を尊重し、とは聖王
の道に合致し、下は国家人民の利益に合致することを心から求めるならば、能力のある人物をとりたて
ることこそ道理であることを認める必要がある。人材の登用は、天を利し鬼神を利し人民を利する道で
ありまた政治の根本でもあるのだ。
翻って現代中国はどうだろう。「生活水準の一括的向上」という共産主義革命の第一命題必達のため、
所得格差が拡大し、環境破壊は酷くなるばかり、国の覇を競うばかりに、国内の「筋道の立った基準」
はおろか国外の「筋道の立った基準」を打ち立てられずに、自国民、他国民を抑圧してはいないだろう
か。そのように現代の墨子は問うているように見える。
【越冬ラーメン】
インフルエンザが流行しそうだと米国では、予防接種、手洗い、免疫力アップのキャンペーンを繰り広げている。
特に三番目にビタミンBの摂取は欠かせないという。そこで、ランチタイムには、ハンドソープで手洗いし、日清
のラーメン屋さんの香味しおと食べるオリーブオイルと淡海昔玄米と酢、取れたての旬の白菜(余り余るほど家に
存在する)とビタミンBの豚肉を具材に、象印電気ポットの琵琶湖のお湯を中華ラーメン鉢に麺とスープを入れ、
白磁皿で塞いで五分間電子レンジでマイクロウェーブし、チンで取り出し麺と具材をかき混ぜ解し、玄米酢と胡椒
をふりかけ頂く。本当はタミフルの源の八角が欲しいところだが(これは買っておくことにしよう)、それでも、
これは、もう最高!白菜が実に甘く旨い、のだ。暖房も半時(約一時間)入れず身体はホカホカ。そういえば、昨
日からの眼精疲労による頭痛が嘘のように収まっている。まさに医食同源というところだ。極寒の極東シベリアを
チェーホフの詩をレイと春樹アレンジでイメージをブレンドし、ジュブリルタとひとりラーメンを充足。何んた
る至福!