秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

南山城の綺原座健伊那太比賣神社

2023-02-05 | 古代史のミステリー
蟹満寺本堂後ろのお地蔵さんピラミッドを写した道、
山背(やませ)古道というようですが、向かいに鳥居がありました。
昔の山背国の漢字ですね。



綺原座健伊那太比賣

知らんなぁ〜なんとよむんだろう。
初めて出逢ったひめ神さまです。

きはらにいますたていなだひめ 




縮めて、綺原(かんばら)神社とも呼ばれます。

住所は、京都府木津川市山城町綺田山際16

地名では、綺田(かばた)のようです。


「綺原」は「カムハラ」「カンバラ」と読む説がある。
奈良時代に織物を生業とした綺一族の氏神という伝承がある。
木津川の支流天神川が山峡から平野部に出た地点の山麓に鎮座する。
蟹満寺の北接。

明治10年6月に式内社と決定されるまで梶原社と呼ばれていた、
梶原社の梶原は綺原の言い誤りであろう。近世に於ては綺田村の産土神。


綺原神社由来

ここに鎮座されます綺原神社は「大日本史」「日本書紀」「延喜式」にも
綺原座伊那太比売神社として記述されており
祭神は「タテイナダヒメ」とされタテは健康イナダは稲田で
達者で農耕にいそしめるよう祈願されたものだと考えられます。
ここの地名「綺田」はその昔、紙織または神織とも呼ばれ、
神に献ずる衣服を織る技術者及び養蚕技術者を祀った社とも言われており
綺氏一族(秦氏一族)の創起だと言われております。
現在は菅原道真公を祭神とする天神社及び八王子社をおまつりしております。

社頭掲示板






参道階段傍に立つ立看板は経年で薄くなりよく読めませんでした。

社名や地名で頭ぐるぐる。
境内の本殿、天神社、八王子社の写真は撮ってません。



創建の詳細不明。
平安中期927年『延喜式』では、相楽郡六社のひとつ。

【鎮座地】明治23年蟹満寺の南西より現在地に遷されたという。








元の鎮座地、蟹満寺の南西ってどのあたりなんでしょうね。

井手には、橘諸兄の邸があったり、さらに北に小野小町ゆかりの地。
中臣鎌足が落馬したのは山科とされるので、近いかな。


現在の京都の行政区では



ブルーが南山城で、グリーンが北山城です。

奈良時代大和国の背後あるところから山背(やましろ)と記すも、
平安遷都により山城と改訂。



701年の大宝律令により、現在の山城町域は蟹幡(かむはた)郷と大狛郷に分割され、
地名の綺田(かばた)の「綺」も「かむはた/かにはた/かんはた」と呼ばれた。
綺は、錦に似た薄い絹織物を意味し、
「かむはた」は、神の美称(かむ)と織物(はた)に由来
神に献ずる衣服を織る人々か、養蚕に携わった綺(かば)氏(秦氏)が住していたともいう。

また、「蟹のいるような河庭原(かにははら)」の意味であり、
天井川の天神川出水に因んだものともいう。



蟹満寺は、白鳳時代(645~710)に
秦和賀(はた の わか)によって創建されたと伝わる。





ツクヨミ尊は、月夜を見、月を読む、同じようでいて実は…

2022-11-23 | 古代史のミステリー
けっこう降りしきる雨の中、月夜見宮へ。



2013年遷宮の翌年春に来た時はもっと雨風強かった。


春の嵐に、記憶に残る伊勢参り - 秋麗(あきうらら)

天気予報では雨風強い春の嵐になるが午後からあがるということで、思い切って予定通り出かけることになりました。遷宮後の旧宮は今月いっぱいで、新宮と二つ並んだ状態は20...

goo blog

 

あの時に比べればマシ。
でも傘さしての参拝は写真どころじゃない。

鳥居の奥が暗くてわかりにくいですが、真っ直ぐに参道伸びてません。
通せんぼするみたいに石積みが遮ります。
直角に2度曲がります。
お城で言えば枡形の防御仕掛けだそうです。
 


言い伝えでは、
月夜見宮入口の石垣の一つが、夜になり月夜見尊が鞭を当てると白馬と化す。
その白馬に跨って月夜見尊は夜な夜な外宮へ通うそう。
人々は夜この道を通ることを避け、やむを得ず通る場合には神の馬に触れないように、道の端を歩く。








社殿を横から写しました。
屋根の千木や鰹木から御祭神ツキヨミ尊は男神ですね。

毎晩白馬に跨り外宮へ通われたという伝承。
神さまの世界にもいろいろあるんですね〜


別宮・月夜見宮:斎王 05

別宮・月夜見宮:斎王 05

伊勢神宮別宮の「月夜見宮」と外宮「豊受大神宮」を結ぶ道を「神路通」(かみじどおり)と言います。 夜になると「月…

偲フ花

 
こちらのブログによりますと、

富家の伝承が伝えるところでは、外宮は、もとは「月読みの神」を祀っていたと云います。
やがて度会氏が外宮に宇佐の豊姫を「豊受大神」(トヨウケノオオカミ)として祀ったので、
月読みの神は当地に遷座したそうです。





左奥のお稲荷さんの老木根元が焦げてるのは、戦争末期の空襲で焼夷弾が落ち燃えたんだって。




手水舎脇の楠大木は、幹周り太さからして生き延びたんですね。


空襲の記録探してみました。

第二次世界大戦終戦間際の全国的空襲は、神都である宇治山田にも及んだ。

1945(昭和20)729日午前1時頃、宇治山田市街地に6ポンド油脂焼夷弾1万数千発も投下された。

アメリカ軍の資料によると、この時B-2993機で焼夷弾734.6tの攻撃を仕掛けたとされる。

被害は市街地面積の5割に及び、全戸数の34,517戸を焼失、総人口の35%22,600人が罹災した。

月夜見宮は、周辺の住宅がすべて焼失した中で、軍隊による懸命の消火活動と、萱葺屋根に突き刺さった焼夷弾が不発だったため、

社殿だけが焼け跡に建っているという状態。しかし宿衛員嘱託は空襲で命を落とし宮掌が大火傷を負った。



なんかすんごい御神威ですね。


月夜見宮

由緒は定かではないが、古くは高河原(たかがわら)と呼ばれ、農耕の神を祀る神社であったという。

927年の延喜式では外宮摂社の首位とされた。

『止由気宮儀式帳』では「月讀神社」、

『延喜式神名帳』では「月夜見神社」、『伊勢大神宮式』では「月夜見社」と記載。

1210年別宮に昇格した。

明治になって、同じくツキヨミの神様祀る「つきよみのみや」は、

外宮別宮は「月夜見宮」、内宮別宮は「月讀宮」と表記するようになった。



同じツキヨミ尊をお祀りするのに、なんで名前あえて変えるんだろうと思ってました。

もともと「月読」と「月夜見」はそれぞれ別々の氏族に祀られていた別神で、

外宮の月夜見宮は度会神主によって祀られ、

内宮の月読宮は中臣氏が祀るものだったようです。

古くからその区別が付かなくなってしまい、100%納得できる答えはないそうですが。


やっぱり異なる説あるんだ!


古代より、月を読む、月を観測して暦を定め、農事を占う専門家もいました。
吉凶を占うことにも通じます。
月を読むことを専門とする職能者は、
亀卜の神に仕える神主か巫女のような存在だったのではないかという説も。


先にリンク貼らせてもらったブログには、こんなことも書かれてました。
月神はもともと、びっくりなこと引用コピペさせてもらいます。



月神はもともと宇佐の豊玉姫が祀る神でした。
月には兎がいると信じられていたので、その場所が「宇佐」と呼ばれるようになったのだとか。
当時は太陰暦で、稲作や様々な祭り事が月齢を頼りに決められていました。
つまり月で暦を読むので、「月読みの神」と呼ばれるようになったのだそうです。

豊玉姫の後を継いだ豊姫は、物部イクメ王の東征軍に加わり、
大和の三輪山の麓「大和笠縫村」で月読みの神を祀る姫巫女となりました。
そこで民衆の人気を得た豊姫自身を、月読みの神と呼ぶ一部の人もいたと云います。

記紀の日本神話において、豊姫は「豊鍬入姫」(トヨスキイリビメ)と表記され、
天照大神の御神体を遷宮した、最初の斎王としていますが、
実際は太陽の女神を祭祀することはなかったのです。



富士御室浅間神社、初めて知りました。

2022-09-08 | 古代史のミステリー
富士山SPをTV視聴しての続きです。


画像引用元は


2合目にある神社の拝殿壊れてた!
小さな祠だけが網で囲われ、何かの神事してた映像映ってました。

ものすごく気になりました。
いつなんで壊れたんだろう?
そのまま朽ちたままにしてていいの?

調べてみて、へぇ〜そうだったんだレポートです。


864年 貞観の大噴火(青木ヶ原樹海を作った)
869年 貞観地震
878年  関東地方で巨大地震

貞観の大噴火を契機に、大和朝廷は富士山を取り巻くように浅間神社を放射状に配置。
浅間神社の本社は、静岡県富士宮にある富士山本宮浅間神社、駿河国一宮です。
富士山山頂に奥宮が祀られていて、8合目以上は富士山本宮浅間大社の境内だそうです。




『富士本宮浅間社記』によれば、
垂仁天皇3年(紀元前27年)に富士山の噴火を鎮めるために浅間大神を山足の地に祀った。
景行天皇40年(西暦110年)日本武尊が東征の際に山宮の地に磐座を定め、浅間大神を遷座して祀った。

「山足の地」が噴火で荒廃し、「山宮の地」に遷したという記載。
山足とは山裾のことで、山麓の森に山宮のようです。
名前が似通っててややこしい。


Wikipediaより
社伝では、垂仁天皇3年とされる創建から大同元年(806年)までは山宮浅間神社で祀られており、同年に現在地に遷座したという。
なお、遷座して来るまでの当地には式内社・富知神社が鎮座し、湧玉池を祭祀していた(現在は北方に遷座)
この遷座は、富士信仰が水の神たる「フクチ・フジ」信仰から
火の神たる「アサマ」信仰へ転換したことを表す象徴的な出来事だと解されている

興味深いブログ見つけました。
『富士山信仰のルーツを解き明かす(3) 浅間神社と浅間山』

『富士山信仰のルーツを解き明かす(3) 浅間神社と浅間山』

3回シリーズ「富士山信仰のルーツを解き明かす」の最終回は、浅間神社と浅間山について考えます。→[富士山信仰のルーツを解き明かす(1) ] →[富士山信仰のル…

西陣に住んでます

 
サラ〜っと読み流せないので、ぼちぼち精読してみます。



はるか以前の太古から、富士山のエネルギーを古代人が感じていた場所は、
富士山頂より山梨県側2合目にもありました。
そこが、TV放映で映し出された朽ちた拝殿の神社だったのです。
その名は、富士山最古の冨士御室浅間神社本宮

699年 文武天皇の時代に冨士御室浅間神社として奉斎
722年 雨屋建立 
807年 坂上田村麻呂が社殿造営


この社のある場所は背後に富士山を控え、少し広い溶岩の大地で水が豊富に湧く風水的にも理想の立地場所だった。
富士山の噴火や厳しい自然の環境により、何度となく焼失、倒壊、破損をくりかえしながら、そのつど再建されてきたという。
中世には富士山における“修験道”の、戦国時代には“武田家三代の祈願所”として、また近世には“富士講”と結びついて発展した。
ところが1964年富士スバルライン開通により登山口が五合目になった。
富士講の本道であった吉田口登山道が衰退。
恒久的保存のために、御室浅間神社は、1974年現在地に移された。


主要な浅間神社は山中に祀られた山宮と、麓の集落に鎮座する里宮が対をなして祀られる。
山宮が富士山を遥拝する場所、里宮は湧水池・湖沼周辺で鎮火を祈る場所であると解されている。


河口湖を背にした里宮の本殿は、富士山を正面に仰いでいるそうです。
2011年2月河口湖の宿で宿泊しましたが、参拝できてない。
当時も今も、つい最近までそんな神社のあることすら知らなかった。

TVでは、元から鎮座した本宮=奥宮の拝殿が、何年か前から倒れ朽ちたままになってるのが映し出されました。
いつそうなったのか調べてもわかりませんでした。

ものすごく大事な富士山の聖地があれ荒んだままになってるのは気になります。


参考サイトは





天文学者が議論した卑弥呼「最期の地」

2022-06-10 | 古代史のミステリー
AIがおすすめするニュースに、



先月発刊された本の解説記事が出てきました。

これぞサイエンス? 邪馬台国の場所は「日食」で特定できるか(播田 安弘)

これぞサイエンス? 邪馬台国の場所は「日食」で特定できるか(播田 安弘)

邪馬台国はどこにあったのか? 古代史最大の謎といわれるこの難問に、意外な分野から斬り込んだ研究者がいました。日本史のさまざまな謎を当時の天文現象をもとに解明する...

ブルーバックス | 講談社

 

国立天文台報に載ってる論文が引用されてて、論文最後の締めで

卑弥呼の死の前後と見られる紀元247年に、
北九州で、皆既または皆既に近い日食があったことは、注目に値する」



このストーリー、以前書いたことありました。
思ってたのと同じで、それが科学的に実証されそうなかんじ。


13年前、2009-7-3のブログは
日食×卑弥呼以って死す - 秋麗(あきうらら)

日食×卑弥呼以って死す - 秋麗(あきうらら)

今月22日に今世紀最大の皆既日食が日本でも見られます。奄美諸島の場所によっては皆既の始めから終りまでの時間が最長6分44秒と、21世紀に起こる皆既日食としては最も長く、...

goo blog

 
あの時の日食で思ったことを次のように書きました。


皆既日食によって太陽が隠れることは、古今東西人々に甚大な恐怖を与えたことでしょう。
中国では太陽は君主の象徴とされ、
日食時に国家行事を行えば臣下によって国が滅ぼされる前兆になるとされていたそうだ。

そして日本の古代、248年9月5日にも皆既日食が起こり、このとき卑弥呼が殺害されたという説があります。
太陽に仕える巫女(日巫女→卑弥呼)の霊力が失われ「卑弥呼死す」にいたったとしても分からなくもない。

もう少し詳しく調べてみると、
卑弥呼の没したとされる年代あたり、247年3月24日と248年9月5日の2回日食が観測されたようです。

AD247/3/24は夕刻6時半頃のまさに沈まんとする夕日の蝕。 
欠けながら沈んでしまった太陽、そしてそのまま夜になってしまう。
日食は新月の時におこりますから、月のない夜は暗い。
一生暗闇の世界が続くかのような恐怖感を与えたのではないでしょうか?

そしてAD248/9/05は早朝6時頃の昇る朝日の蝕。
地平線近い太陽がすぐに欠けだして昇ってくる、これも不気味です。
でもそのあと蝕が終わればあっという間に明るくなるのだから、希望を与えてくれそうです。

もし殺害されたのだとしたら、248年の朝日よりは247年の夕日の蝕のときのような気がする。

そしてどちらの蝕も、地平線すれすれの角度の低い太陽です。
盆地で山に囲まれた場所なら見にくいね。

シャーマンとして「共立」された卑弥呼。
他の王たちも日食が見えて恐怖などの感情を共有したことが重要なんではないかしら。




八丁子紋とゾグド人

2022-05-12 | 古代史のミステリー
買っただけで満足してた本



急に思いたってパラパラめくってみました。


というのは、


御杖神社の神紋が初めてみたもので、八丁子紋とわかりました。




他に情報ないか調べてみると

 

このツィートがヒットしたちょうどその時、
このブログのリアルタイムアクセスで多くのアクセスあったのが、
2009-4-23
シルクロード謎の民・ソグド人 - 秋麗(あきうらら)

シルクロード謎の民・ソグド人 - 秋麗(あきうらら)

東京国立博物館「法隆寺宝物館」に展示されている白檀・栴檀2点の香木って、どんなだろうと探しに探して見つけた画像です。この画像ではよくわかりませんが、白檀表面には...

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ゾグド人❣️

で、なんか情報あるかと本探したのでした。
なーんも見つからんかった。

追記
丹波亀山藩の初代藩主である松平信岑も八丁子紋だった。


丁子紋 | 家紋無双

丁子は非常に強い香気がある植物で、開花前のつぼみを乾燥させたクローブと呼ばれる香辛料が有名です。 原産はインドネシアですが、五~六世紀頃には日本に輸入されており...

家紋無双

 

【家紋】丁子紋(ちょうじ)の意味・由来を解説!植物紋の一種

【家紋】丁子紋(ちょうじ)の意味・由来を解説!植物紋の一種

「丁子」という香辛料をご存知ですか?現代ではブームでもあるスパイスカレーに使われる「クローブ」を指します。 かつてはカレーなどありませんでしたので、独特な香りを活...

お役立ち!季節の耳より情報局

 



阿吽の吽ちゃんブサカワイイ@大枝神社

2022-05-06 | 古代史のミステリー
ネットで見た情報を確かめに大枝神社へ。
何度もブログに登場してる氏神さまです。
でもちゃんと見てこなかったことに気づきました。




こんなにカワイイ顔してたんですね。
そして確かめにいった頭のツノ❣️






ブログ内検索したら
2019-6-1 
3年前の記事は、狛犬阿吽像の阿の後側刻印メイン。
顔ちゃんと見てなかった。


吽像にツノがある、
他所はどうなんだろう。

今まであちこちの神社参拝して記録残してます。
狛犬に特に関心強いわけではないので、ときどき。
獅子じゃない場合は甚く反応。
龍だった真名井神社、伏見の神宝神社。
鞍馬の虎、三尾神社の兎とか。


確か白山比咩神社で写したかすかな記憶、
2015-10-30

確かに写ってましたが、
頭てっぺんのトンガリ、確かに。
ツノなのか耳なのか分からんので、ネットで検索


白山比咩神社では重文で、木造りの古い狛犬が保存されてるそうです。



吽像頭にツノが取れた跡残ってます。

一般的な狛犬の説明はあちこちでみられますし、
たとえばキリン公式サイトとか


阿吽像の阿は獅子、吽は麒麟という説は、
「グリフィス 麒麟」で検索しヒット、触発された情報は

まだ読んでないけど、



けったいな名の波牟許曽神社は蛇の社?

2022-03-21 | 古代史のミステリー
JR長瀬駅で下車して
駅前の地図看板写す。
下蛇草公園やって!

一般的に公的な地図とかに神社記されないの、なんでかな。
Google maps もそうだけど、まぁ日本の会社ちゃうもんね。

駅前の低い建物は昭和時代の団地らしき住宅街で、道はぐちゃぐちゃ。

事前予習で、近鉄長瀬目指して歩くとしたらという設定で、
地図見てた時に発見した 波牟許曽神社
はむこそ、と読む。
なんともけったいな名前で興味津々。

弥刀神社への途上なので立ち寄りたいと連れに事前了承える。


地図マピオンのほうが、神社もバス停も表記されますね。




隣に生協病院まで確認してたのに、
ややこしい道を結局はスマホナビで歩いて、
Googleは車道誘導するから わけわからんように。

ありゃりゃ、ここかな?


12:38
シンプルな木の鳥居がいい。
左側石柱に、波牟許曽神社

左手樹木奥に、天龍不動明王。


参道を進むと右側に手水舎あって



由緒書案内文より一部抜粋

平安時代の延長5年(927)法令(延喜式)神明帳には、全国2861社が記載
東大阪市内では、波牟許曽(はむこそ)、彌刀(弥刀 みと)のほか枚岡神社など16社が記載…
伴信友(神名帳考証・河内誌)に 蛇草と書イテ今イカニ唱フニカ知ラネド
波牟久佐(ハムクサ)トカ唱フベキ也。云々と記載す…
波牟は蛇にして、許曽は社の義なり、蛇を祭れる者にや村名は、これ社名より起こると述べて
その昔、物部の氏人の村であり、蛇草と云う地名の起源はこの宮の名より起こったものと伝えられる。 
『神社要録』には、北蛇草村神明とあり、河内明記には大社天神とも伝え、神明考証には、大杜神社と呼んでいた。
御祭神は埴安神(はやすのかみ)、波牟埴安姫(はむはやすのひめ)なりと記されています。
また一説には、蛇を祀れるものかとも伝えられる。



上記の由緒抜粋を茶色に指定したのに、なぜか一部黒のまま。
何度やっても変わらん、不思議〜
そこに注目ってか?
後半部分、論理的じゃなくて意味不明…





おもかる石が置かれてました。


拝殿全景を撮り忘れて


今の御祭神は、天照皇大神、伊弉那岐大神、伊弉那美大神

河内国 渋川郡「波牟許曽神社」に比定される式内社です。
明治に合祀され、昭和になって北蛇草の氏子さんらが再建された。

地名は蛇草で、社名は波牟。
元々の神さまや如何?


左側から裏へまわると

本殿はこれまたシンプルで素敵です。
紙垂が風に靡いてました。



猿田彦大神と天鈿女命が並んでるのもうれしい。
夫婦神が並んでるとこ他にあったかな?

拝殿右側には

素戔嗚尊

他にも祠いっぱい。
松龍大神、榎大神、白龍大神、縞姫龍神と龍神こんなに集まられて、
白光大明神は巳ーさん?
子守勝手大神に、伊勢神宮遥拝所も。



ネット検索してて見つけました。
1704年大和川が付け替えられるまで、現代の長瀬川は大和川主流だった。
川幅200mと広く、今でも堤跡残ってるそうです。

上の地図の緑鳥居が弥刀神社。
川の対岸(地図左上)長瀬町、生協病院あたりの印がはむこそ神社。

共に荒れる川を護ってもらうのに祀ってたのでしょう。


渋川郡北蛇草村の式内社は
明治22年(1889)北蛇草村を含めた7ヶ村合併し長瀬村に
大正元年(1912)に村内八社を合祀して新たに長瀬神社が創建
昭和51年(1976)社殿が再建された

同じく長瀬神社に合祀された神社に、
北蛇草字奥宮に鎮座してた蛇斬神社があるそう。
御祭神は須佐之男命とされるが、奥宮鎮座のヘビを斬る「じゃさき」


長瀬神社調べで長背氏が出てきて、苗字検索したら

長背連(高麗鄒牟王子孫)の子孫。
近年、和歌山県西牟婁郡串本町にみられる。
「長」は長くのびている地形、器物、生物などの意味。


長い生物→蛇 ですね〜



和歌山県東牟婁郡串本町に
ごく少数10人程居られるようです。
長背氏は河内から紀州へ落ちのびたのか、それとも西牟婁が発祥なのか。

謎は深まるばかり…




弥刀神社でハヤアキツヒメに…

2022-03-20 | 古代史のミステリー
3/13(日)正午過ぎてJR長瀬に到着。
ここまでお昼食べるとこ見あたらなくて、エネルギー枯渇気味。

JR長瀬駅高架下もなーんも無い。
近鉄の長瀬駅へ歩くうちに見つかるの期待して。



最終目的地は弥刀神社でした。
2020年9月まで全く知らぬ神社だったのに

2020-9-10

いつか行きたいと、
地図見ても道が入りくんで迷路のよう。
車だと迷いそうな生活道路エリアです。
あっという間に1年半が過ぎてました。

で今回、長居公園からスタートして大阪東部探索お出かけ。
大阪市東住吉区から東大阪市へ、思いついた移動プラン。
いつもの連れが同行してくれることになりました。

近鉄長瀬駅は近大の最寄駅、
学生時代に一度行った記憶あります。
しかし今はコロナ禍もあり、飲食店は閉まってたり潰れてたり。
はぁ〜食べるとこない。
結局コンビニ弁当買って、
やっと 
13:19 到着




天平宝宇6年(762)6月 長瀬川(旧大和川)堤が決壊した際、
字切所・切下切の浦からの激流のために社殿が流出したという記録。



1704年に大和川付け替え工事が行われるまで、
今の長瀬川は、上の地図の久宝寺川で、川幅は200mもあって大和川主流だったそう。
洪水が度々あり、水戸(みなと)の守り神として弥刀神社が祀られたようです。

ネットでみた由緒略記によれば
「古い時代、この辺りで一番高い台地の上に、そう大きくない社が齋き祀られていたと思われる。・・・
神社から西に延びる参道が旧大和川(長瀬川)の東堤(右岸堤)まで達し、そこに船着場があり水戸(ミナト)であった。
弥刀神社の祭神がミナト神であることと符合するのでなかろうか。
神代の昔、この地が河海の水戸であったため、高天原より天の浮橋により天降られた神々が、大阪湾の入江であった河内潟から当地水戸に着き、水戸の神の許しを得て大和川筋をさかのぼり、大和へ入られた」



またもや拝殿写真撮り忘れ(*´꒳`*)

右横に八坂神社でスサノオが祀られてました。


隙間からスマホ差し入れて撮影

左に本殿が木々に隠れて写ってます。

この八坂さんに向かい合って

大己貴命を祭神とする常世神社。
なんでこんなとこにと思って調べました。

大己貴命が出雲の国から大和の国へ国造りへ向かう途上、
この水戸に寄航し決意を固めた伝承があり、常世神社が創建されたそう。


かなり古そうな石彫り物

隣接する近江堂公園で

  ネット拝借画像


近鉄大阪線眺めながらベンチでコンビニ弁当広げました。

疲れてたのもあるけど、
長瀬川から離れてるし、全く水戸は感じれず。
ハヤアキツヒメは降りてこられず感応するものなかった。


実はこの弥刀神社までに立ち寄ったとこが印象深くて。
これは次回で


長瀬の次の弥刀駅まで歩いて帰りました。
近鉄大阪線の俊徳道でJRおおさか東線に乗り換えて


高架電車ではありますが
大阪でこんなに空見えるエリアあるんですね〜。
ホンマ何もなくて昭和へタイムスリップしたみたいな。





和布刈神社の磐座とめかり神事

2022-01-23 | 古代史のミステリー


大きな磐座(いわくら)は古代よりここにあり、
海をわたる船乗りや漁師たちの道標となり、灯台の役割も果たしてきたという。
和布刈神社やっと行けました。
関門トンネル同様気になってたのが実現しました。


神主?さんのお話伺えました。
15:25





帳のご神紋が右側だけ。
なぜ片方だけか説明聞き流したかな。
聴きながら写真撮ってたから、どこか抜けますわね。


大潮の時は階段下の灯籠際まで干上がり、和布刈神事行われます。

公式サイトより画像もらってきました。




和布刈神事は、毎年旧暦の元日に執り行われる祭事2022年は21)

神功皇后が海の神から授かった「満珠・干珠」を、和布(わかめ)や荒布(あらめ)に見立て、神職が刈り取る儀式で福岡県無形民俗文化財に指定されている。


和布刈とは「わかめを刈る」という意味。わかめは万物に先駆けて自然に繁茂するという縁起の良いものとされている。

門司駅前でみたオブジェ 
和布刈神神事ですね。

以前ワカメもらった時に記録してますが
2015-3-12

そのブログ記事で、
2013年6月初め出雲大遷宮で日御碕神社参拝して、和布刈神社を知った
2014年門司駅で和布刈神事オブジェみた。
ともに記事にできなかった。

やっと時節は巡り、です。
分からないなりにコピペで記録残しておきます。





片方だけにご神紋で調べてみると
神紋は八重桜。
御祭神が陰の神さまであることから片方だけなんだそう。

中川政七商店のサイトがヒットしました。

創建1800年。社伝によると、三韓(現在の朝鮮半島)討伐に向かう神功皇后(じんぐうこうごう/勇敢なる女帝と称される)が、神の教えを受けて勝利を収めたことからこの神社をつくられたとか。

その神というのが、天照大御神の荒魂「瀬織津姫(せおりつひめ)」という月の女神である。月の女神は陰陽において陰の神であるとされ、穢れを払う禊ぎの神さま。
さらに瀬織津姫は、潮の満ち引きを司る“導きの神”として、関門海峡を望み、人々の行く道を照らし続けてきたという歴史をもつ。

詳しくは⤵︎




説明聞き終わり、本殿裏に廻ってみると




松本清張文学碑「時間の習俗」より




集合が15:55
残りあと20分で何をしたかは、
つづく




陶邑のオオタタヒコとアマノコヤネ

2021-12-30 | 古代史のミステリー
陶荒田神社の続きです。

まず本殿お参り済ませました。
左手にこんもり木々茂ってて





小さな白い鳥居左前の樹木は、
幹がすでに洞なのに生命力すごい。


太田社 玉の緒社と記されてます。


太田社の方はお掃除中。
先に玉の緒社にご挨拶しました。
玉の緒社、今までであったことない。
12/18に天理の石上神宮で「玉のを」守り賜ったとこです。




この祠も磨かれたガラス戸付。
正面の鏡に自分の姿がくっきりうつります。

太田社お掃除中の男性に、
玉の緒社と石上神宮の「玉のを」と関係あるかと尋ねました。
すると、こちらはアマノコヤネを祀ってますと言われた。
おうむ返しで再確認したぐらい。
それぐらいびっくりした。

太田社はオオタタネコです、
と言われて前を譲ってくださった。


エェ〜 アマノコヤネ、やって
聞き間違いかと妹に聞いても興味ないわね。

オレンジ色ジャンバーきた壮年男性は、この神社の宮司さん禰宜さんに見えた。
境内掃除されてるシニアのおっちゃんは氏子さんや崇敬会員みたいで。




神社の説明板も撮影しただけで読みもしなかった。
で家に帰り由緒書みて驚きました。
あの時ちゃんとみてたらすぐに聞けたのに。

玉の緒社 
祭神 天御中主命

ネットどこみても、そう書いてる。

あの若い壮年男性は誰?

「アマノコヤネ 玉の緒」で検索したら
霊還し 魂返がわずかにヒット。

そうやったんや、知らんかった〜


アマノコヤネは、
天児屋命 天屋根命 天之子八根命 天兒屋命
ワカヒコ カスガマロ
春日権現 春日大明神

春日大社はもちろん、枚岡神社の祭神ですね。
昨年暮に幸先詣した蜂田神社の御祭神も
私の産土、菅生神社も。
きてますね〜アマノコヤネ!


なんで玉の緒社祭神がアマノミナカヌシに?
太田社のオオタタヒコも、なんで本殿じゃなくて境内社?
周りの地名が太田の杜、太田内なのに、神社名が陶荒田神社!

不思議はいっぱい、
謎は深まるばかり…




鵺の眠るまち都島で、大阪港紋章に痕跡残すを知る

2021-11-05 | 古代史のミステリー


都島神社境内の三重宝篋印塔。
大阪市内最古の石造文化財で鎌倉後期嘉元2年(1304)の銘があります。




都島神社は後白河上皇がこの地に行幸された折に、
何度も洪水に苦しむ農民に鎮守社を設けるよう命じられたのが始まり。
昭和になって都島神社と改名されてます。

すぐ近くに母恩寺がありまして


階段下から見上げただけですが
説明文には以下のように記されてました。

御白河上皇が十五社神社を建立させ
さらに生母待賢門院の供養のため母恩寺建立。
浄土宗尼寺として代々皇女が住職務める格式高いお寺だったようです。
度重なる洪水と兵火で衰微したそう。

何度も洪水という言葉が出て来ましたが、
現代の大川堤防が築かれるまでは治水で苦労した地のようです。




鵺が眠るまちの元になった鵺塚は、都島駅の南側にあります。
上の地図の8番
自転車ならあっという間ですが行きませんでした。


都に出没して当時の天皇を苦しめた鵺を源頼政が射落とした。
その亡骸は淀川に流されてこの地に流れ着いた。
祟りを恐れた住民が母恩寺住職に弔ってもらい鵺塚をたてた。

今でも大阪港紋章に取り入れられてます。



両側に『ぬえ』。
『ぬえ』とは、近衛天皇(1139~1155)の時、源頼政が宮中で射殺したといわれる怪獣。
頭はサル、胴はシシ、尾はヘビ、手足はトラ、声はトラツグミに似ていたといわれる。

詳しくは⤵︎



鵺とは、2017/7/15 

謎は深まるばかり…


ふるさとミュージアム山城

2021-10-31 | 古代史のミステリー
今春4/3に花見兼ねてお寺参りしたダンシングクィーン三婆。
コロナ落ち着いて来たから近場でお出かけすることに。
行き先は南山城と決まりました。
前からなんか山城にミステリー感じてたので、山城郷土資料館を行き先に加えてもらった。

朝10時に家近くでピックアップしてもらい、国道163号線ずーっと東へ。

11時過ぎに到着。

すでに10台ほど駐車あり、うちらの後続車も停めたらさっさと館内へ入って行かれた。
へぇ〜来る人いるんだと、失礼ながら(*^^*)

入場料200円を支払おうとすると、
なんと65歳以上は無料❣️
年重ねたことに感謝できることは滅多にない。
免許証の年齢確認で、とてもその年齢に見えず若いと煽てられエヘヘ。

館内特別展案内が始まったとこですからお急ぎくださいと促された。
それで多人数来館されてたのね。
リュック背負って駅から歩いて来られたような方もチラホラ。
マニアックな歴史好きはちゃんと情報収集されてるのでしょう。





特別展は写真撮影不可ゆえ、入り口から撮った以下一枚だけ。

須恵器専門と話された学芸員さんか大学の先生か、お名前も不明。
20名ほどの参加者皆、的確な説明を聞きながら展示物見ました。
1時間余り立ってたのがちょっと辛かった。

山城の地理、勢力図、歴史、古墳、須恵器等よく分かりました。

越の国、若狭湾、丹後の国からの流通路、尾張の国の埴輪の話も興味深かった。
動物の埴輪は鶏が最初で次に白鳥、馬と発展していくそうだ。
神話で鶏が登場し、伊勢神宮や石上神宮にいる鶏の意味も、へぇ〜そうだったんだ。

木津川の水運が如何に大きなものだったか。
道理で天智天皇や中臣鎌足などが山城で狩しただの落馬しただの、
聖武天皇が瓶原の恭仁京に一時遷都した話だの、
歴史の細切れ情報がやっと繋がって納得できました。

常設展は





南山城の縄文時代遺跡跡地図も興味深い。

今の地図は





館内で見かけたポスター、

若狭湾三方五湖近くの鳥浜遺跡が発見60年だって。
若狭歴史博物館は小浜にありますね。
11/28までには行けそうにないな、残念。



過去の記録です、よかったらみてくださいね。

2012/5/27  瓶原を歩く
>百人一首に、三十六歌仙の一人藤原兼輔(紫式部の曾祖父)の歌。
みかのはら わきてなかるる いつみかは いつみきとてか こひしかるらむ

この歌の「いつみかは」はいづみかわ、木津川の古名だと、やっと頭に定着しました。





亀ふたつ★亀型花留と黒子亀置物

2021-08-08 | 古代史のミステリー




亀ふたつ店より持ち帰りました。



とりあえず引き出し小タンスの上に飾ってます。
新たに移動整理した文房具等どこに収納したか忘れてしまうので表札付けてます。



生け花で使う亀型花留めの彫りなどもみごとでネット検索してみました。




こちらは七宝という名が付いてたとは知らなかった。
共にご不要なご家庭多いようで、ヤフオクやメルカリに多数出品されてました。
確かに大きな花器や壺を飾るスペース無いですもん。
今回もすべて処分しましたが、この亀ちゃんだけ剣山の中から取り置きました。
鉄製でしょうか、ずっしり重くて650gありました。

もう一つの黒い亀ちゃんは意外と100gあります。
天然石ではなく木を削って作られたものに漆塗でしょうか。

サイズ的には親子のようでもあります。
親亀の上に子亀のせて





以前は亀に興味なかったのに、
今春総持寺の亀に乗った観音さん見てから・・・。


12年前の丑年に初めて総持寺行った時は気付かなかった。

天橋立の籠神社の倭宿禰命が亀に乗った像も目には留まったけど。

浦島太郎が亀の背中に載せられて龍宮城へは皆知ってるお伽話。

亀に乗るイソラも有名ですね。

安曇磯良丸は「大海亀」に乗り、神功皇后の前に現れ二つの珠を授けて助けたという。

なんで亀なんでしょう。


山彦が釣り針を探しに亀に乗って海の国へ行ったと、思い込んでました。
記事にするにあたり調べたら、
竹で編んだ籠(かご) の船」でした。
帰る時は一番早いサメに乗って1日で元の海岸にたどり着きました、とさ。
詳しくは⇒海幸彦・山幸彦


山幸彦を籠に乗せて海神宮に導いた「籠」
豊受大神が「籠に乗って光っていた」籠が、籠神社の「籠」。

 
出雲の亀甲紋については過去に記録残してます。


亀の甲羅は「亀甲紋」で「亀甲紋の連続はカゴメ紋」に。
亀と籠は同じものなの?

籠が水中運行できて、亀が空飛ぶ乗り物なら、それはUFO?

 

越木岩神社③阪神大震災

2021-05-29 | 古代史のミステリー


参道途中の右側鳥居から入ったので、正面の鳥居は帰る時にくぐりました。
越木岩神社最後の記事③は、時間軸最後から遡ります。


この鳥居右側の楠

南側半分に葉っぱなくて、数年前の台風とかで被害受けたのかな。

その反対側、参道左側 狛犬石座背面に

皇太子殿下御成婚記念
平成5年6月9日
ヒサヤ大黒堂
痔の薬で有名な会社からの寄贈ですね。



力石も、今はオブジェです。
泣き相撲の土俵を参道右側の社叢でみたけど画像なし。



(境内図の赤線はブログ管理者が引きました)

本殿左脇から甑岩へ。
岩社は、巌島神社の御分霊された市寸島比売命が祀られています。

甑岩の座する境内には多くの境内社が並んでいました。
左手に末社 六甲山社 菊理媛神(きくりひめのかみ)

この時はさらに奥に不動明王が祀られてるとは知らなかった。

甑不動明王
なぜ、神社に不動明王があるのかと思われる方もおありでしょうが、以前より境内にお祀りされていました。場所は現在の位置より少し南西にありました。
神仏習合の名残か、誰かがこの地に勧請したのか詳細は不明ですが、ずいぶん以前から鎮座していたようです。
しかし、
阪神淡路大震災の直前に上半身が切り取られ盗難に遭います。
そこで、平成9年に、ご参拝の方から「何とか、元のお姿に・・・」というお声もあり、現在のものに新調し、千葉の成田さんに赴き入魂をしていただきました。
今でも、御本体の背後に下半身のみのお姿が残っています。
毎年、8月には献灯をさせていただいております。

西宮観光ガイドの記事でこんなの見つけました。

その文末に
不動像が壊されたことと地震との間にもちろん確かな因果関係は認められませんが、甑岩の不思議な伝承や土社の御神徳などとも考え併せてみた時、偶然にせよ「畏れ」を感じざるを得ないエピソードのように思えてきます。
ここは何びとも侵してはならない極めて重要な聖地である・・・そのことを事あるごとに知らしめているのが越木岩神社に鎮まる神々であるように感じられます。
霊験あらたかな太古のサンクチュアリ、是非、畏怖の念と謙虚な気持ちを忘れずにお参りしていただければと思います。 


 過去の歴史遡ってみますと、
大阪城築城 1583年(天正11年)の際、甑岩を切り出したら
「今にも割れんとする岩の間より鶏鳴し、真白な煙が立ち昇り、その霊気に石工達は、岩諸共転げ落ち倒れ臥し、如何にしても運び出せなかったと伝わる」

その後
天正地震 1586年1月18日(天正13年11月29日)
慶長伏見地震  1596年9月5日(文禄5年閏7月13日)

「偶然にせよ「畏れ」を感じざるを得ない」



甑岩南座から北座へ向かう途中で、東側が少し開けたところがありました。



うわぁ〜あべのハルカス見える!って興奮してた。
この時はさほど気に留めなかったけれど、樹木伐採されて地面剥き出し。

地図で確認すると



稚日女尊宮がどこのことを意味するのかわかりません。

地図で赤茶けたところは、境内図では「夙川短期大学」、
下の地図では「マンション建設予定地」と記されています。


夙川学院は縫製女学校を起源に持つ私立学校で、100年以上前に学校として認可された。

1965年 西宮市こしき岩キャンパスに夙川学院短期大学を開設

2011年3月 高校同窓会の預金約1億6千万円を運転資金などに流用していた不祥事が報道された。
2011年11月 学院の所有するグラウンド一部を売却して支払った。
2013年4月 短期大学を西宮市から神戸ポートアイランドキャンパスへ移転 

資産運用に失敗した後に、須磨学園との提携から、中高分離・短大移転改称へ。

夙川学院の跡地は約3万㎡の広さがあり、
大和地所レジデンスが分譲マンション、戸建住宅、公園、認定こども園、公共施設を開発。

2019年4月16日





越木岩神社① 見たまま  で書きましたが、
末社「土社」(大国主西神社)の石の祠、正面扉の下10㎝ほどのコーキングが剥がれ落ちていました。

いつ剥がれ落ちたんだろうと画像検索したら、
ブログなどに投稿された画像が数々ヒットしました。

2018年6月までは隙間なく閉じられてるが、11月には剥がれ落ちてる。
ということは2018年6月18日の大阪北部地震で被災したか、9月の台風被害の可能性ありますね。
大地を司る神様 大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)が出てこられたんじゃないのという危惧。

越木岩神社の境内左側がマンション開発途中で大きく地肌むき出しになってます。
そのうち磐座も撤去されるのかもしれません。
もしそんなことになれば、・・・


不思議なパワーありそな東六甲山麓。
穢したら恐ろしいことあるやもしれません、と記録残します。
そう思うに至った経緯は以下記事でご覧いただけます。




越木岩神社② 甑岩

2021-05-27 | 古代史のミステリー

デカすぎて足場も悪いし全景写せませんでした。
右上岩の上辺にクサビ打ちこんだような形跡残ってます。

日曜日の参拝で印象に残ったのが、ヒメユズリハ。
あたりいったい群生地で、あの立派なのは甑岩の北東に自生してました。

そして気になった北の磐座のことは

辺りで一番高い小高い丘のようなとこに北座があり、
下って南の磐座が、境内図の岩社の上の甑岩です。
その中ほどの雨乞社が、貴船社




 ※境内図に赤い横線引いたのは ブログ管理人の私

越木岩神社の北に岩神社があります。

      甑岩大神



ご神体である一大霊岩は 周囲約40m×高さ10mの花崗岩

昔から神さまの岩として恐れ大切にされてきた甑岩は、
酒米を蒸す時に使う甑(こしき)という道具に似ていることかの命名。


摂津名所絵図や摂津史によれば
「甑岩神祠は甑岩村にあり祭神巨岩にして倚疊甑(きるいこしき)の如し、此地の産土神とす」







①古代の磐座信仰の地で、磐座・磐境祭祀のランドマーク・霊岩として「甑岩」があったのではないか

②推古天皇の時代に起こった大地震ののち、大国主西神社が祀られた

③さらに時代は進み戦国末期、1582年大阪城築城の際に豊臣秀吉が命じて城石垣に甑岩を切り出そうとした、その時の逸話は

④この霊場周辺に、元々の大国主命をお祀りするグループ以外の人間が住むようになり、西宮神社から蛭子大神が勧請され蛭子神社等と呼ばれる 


明治初期の地図



詳しくは、越木岩神社禰宜さんブログで