秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

5/26はスーパームーンで皆既月食

2021-05-18 | 古代史のミステリー
はやくも梅雨入りしましたね。
今週は雨らしいです。
来週火曜日5/26の天気予報はまだわかりませんが、
もし晴れてたら、皆既月食を日本全国で観測できるようです。

月は18時45分から欠け始め、20時9~28分皆既食に。
その後は徐々に欠けてゆき21時53分に部分食が終了。



5月26日の満月は、2021年で地球に最も近いスーパームーン。
最も遠くで起こる満月に比べて、視直径が約14%大きく、約30%明るく見えます。

皆既中の20時14分に満月の瞬間(望)となり、
このときの地心距離約35万7000㎞、月の視直径33分25秒角

以上、国立天文台ニュースよりより引用。

5月の満月は鞍馬寺のウエサク祭があります。
そのウエサク祭の満月が皆既月食 にあたるんですね。


現代は天文情報が下々にまで知れ渡ってます。
しかし古今東西、月が欠けていく皆既月食とか、太陽の皆既日食とか不吉に思ったことでしょうね。
今でも日食も月食も見る人々の心を恐怖と畏敬でいっぱいにします。

ご参考までに、
日食・月食の恐怖について書かれたもので、


学生時代に古文で、天皇が御簾に隠れてお慎みとか書かれてたの読んだ記憶あります。
しかし、令和の天皇陛下が皇太子であられたころ、
デジカメで撮影されたというニュースを知り驚いたものでした。

検索したらありました。



2018年2月23日
 宮内庁は皇太子さまの誕生日にあたり、皇太子さまが撮影した皆既月食の写真を公表した。同庁によると、皇太子さまは1月31日夜、お住まいの東宮御所の庭で雅子さま、長女愛子さまと、天体望遠鏡や双眼鏡で皆既月食を観賞。その際、皇太子さまは愛用の小型のデジタルカメラを三脚の上に置き、月が欠けていく様子を計10枚撮影した。
皇太子さまは「冬空で晴れていたのでよく見えました」と話したという。愛子さまが皆既月食を観賞したのはこれが初めてだった。
同庁は誕生日に合わせ、ご一家が皆既月食のイラストが載った理科の教科書や、皇太子さまが撮影した写真を見ながらだんらんする写真や映像も公表した。(緒方雄大)


長谷寺の追儺会結願法要「だだおし」

2021-02-08 | 古代史のミステリー

2月8日から14日まで長谷寺では修二会(しゅうにえ)が執り行われます。
新年を迎える正月1日から7日まで修正会(しゅうしょうえ)
修正会・修二会ともに罪・穢れを懺悔する悔過作法(けかさほう)をします。

その結願(けちがん/最後の締め)が「だだおし
千年前から伝わる追儺会(ついなえ)法要だそうです。



例年、結願の日に牛玉宝印が授与されますが、
今年はCovit-19のためウェブサイトより申し込めます。







長谷寺では2月14日の「だだおし」で”鬼”を退散させるため、
節分では鬼に猶予を与えて 「フクはウチ」のみ おこなう。



上記のサイトより画像お借りし、内容もかいつまんで引用させていただきます。

「だだおし」という不思議な名前は、
行事の中で牛玉宝印(ごおうほういん・えんぶだごん宝印・だんだ印とも言う)だんだ印を、参拝者の額に押すことから「だだおし」と言われるようになったとも、またはダッタンを語源とする説もあります。

僧侶たちは走りながら回る「行道」をします。
四手(しで)に挟んだ牛玉札を持って大行道をして回ると鬼たちは堂外に追い出されていきます。
 

大松明は鬼の持ち物で、本来暗い時間帯に行ない夜道を照らすための松明だった。
次第に儀式化して大きく、そして時間帯も明るい時間帯になったそうです。


毎年2月14日 奈良 長谷寺だだおし
15:00 進列
15:30 法要開始
16:20 堂内で鬼出現、僧侶四手に挟んだ「牛玉札」で退散
16:30 参列者の額に「檀拏印(だんだいん)」押印
16:45 堂外で鬼出現、大松明を持ってのたうちまわる
17:00 法要終了


大迫力だそうで、いつか生で観たいものです。


3年前に東大寺のお水取り行った時の記録は
2018-03-11 

とうとうと流れる淀川、その2

2021-01-23 | 古代史のミステリー
旭区の大宮神社は、かつて南島という地名だったそう。
島というからには中州だったのでしょう。
このブログでは何度も、昔の淀川の地図載せたのを探してみた。

2018/3/8市役所で展示されてた古地図を撮影しました。
2018-5-3に記録残してます。

スーパー「ダイエー」の発祥第一号店が千林商店街にありました。
その千林あたりを拡大したのが下の図⤵


赤い四角で囲った村名の、左端から3番目に南嶋村
1185年壇之浦合戦に向かう源義経がこの地に宿泊し霊夢を見た。
平家を討伐したのち、後鳥羽上皇に 奏上して神社建立をお願いして許されたのが大宮八幡宮。

南嶋の左に江野村、おそらく江野天満社があって、明治の合祀で南嶋の大宮八幡に、江野の鳥居と灯篭が移設された。



この地図は、明治18年陸軍による測量図だった。

明治中頃から遡ること700年前が義経伝承。
さらにもっと昔の仁徳天皇のころ南嶋村は中州か島だった。

仁徳天皇は、淀川の氾濫を鎮めるため人柱を建てた話が記されています。

過去ログに記してます。
茨田堤(まむたのつつみ)は、仁徳天皇が淀川沿いに築かせたとされる堤防です。
5世紀頃、淀川の洪水を 防ぐため渡来人などの技術を用いて築かれました。 
・・・
築造の際、困難な箇所が2ヶ所あり、人柱を立てた地が2箇所あることを知りました。
「強頸の絶間」は大阪市旭区千林町、
「衫子の絶間」は寝屋川市太間町だといわれています。


強頸の絶間は大阪市旭区千林町、民家の屋敷内に遺跡あるらしい。
大宮神社に近い地下鉄の駅「千林大宮駅」と京阪「千林駅」
アーケードの商店街で繫がっていて、人混み除けて歩いて5~10分でしょうか。


この記事で載せた以下の地図、茨田の堀川の川の字あたりでしょうか。



大宮神社を調べていて参考にさせてもらった神奈備 サイトによれば

『摂津国風土記』に比売許曽の神が比売島に来たとある。西淀川区姫島に鎮座する姫島神社を比売許曽神社とする説があるが、ここは近世まで海中であった。 摂津国風土記にいう難波の日女島(比売島、姫島)は旭区森小路付近と考えるのが妥当ここに鎮座するのが当社である。当地は旧名を南島と云われ、島であり人々も住み耕作もされ、北側には淀川から流れこむ瀬で船泊りもできたようだ。


ここで記録したことは、

仁徳天皇の時代に淀川の整備で茨田の堤を築いたと記され、その伝承地は大阪市鶴見区や旭区、あるいは門真市など守口市近辺です。
あの時代までの大阪湾は現代の大阪平野まで入りこみ、上町台地の東側は河内の海でした。
西淀川区のあたりはまだ海の中だったと思います。


コメント欄でも
茨田の堤(日女島)のヒメ島はきっと現代の稗島(ひえじま)だと思います
二島、三島など湿地帯に堤を築いて島みたいに中州・輪州ができてたのでしょう。
 

長年、「あかるひめ」「ひめこそ」を追っかけしてきて、
この大宮神社で繫がったようでうれしい。

往古からの聖地であったかも知れない。
と、私もそう思います。

心に留め置いてると、つぎつぎ情報がもたらされるのを楽しみに。



行基さんの土塔★古墳時代の文明開化

2020-12-28 | 古代史のミステリー
土塔と書いて「どうと」と読むらしいです。
近隣の住人からは「どうと」と呼ばれ、南海バスの停留所でも「どうと」と車内アナウンスされてるそうだ。
でも漢字変化するには「どとう」とタイプしないと出ません。




土と瓦でできたピラミッド状。
昔はそんな有名ではなったように思います。
考古学に興味あれば、見に行ってたのかな。

平成21年(2009)に整備されたときに発見された瓦に
刻まれた日付「神亀四年(727年)2月3日」
『行基年譜』に記された着工の日時とぴたりと一致し裏付けされた。

高さ8.6m 一辺53.1m四方でかなり大きい。






土塔には仏像の姿はなく、宗教施設ではないのですね。
行基さんに率いられた知識集団のシンボルとして作られたそうです。

相似したものが中国河北省の邯鄲で発見されています。
行基さんの弟子の中に中国へ渡ったものがいて、土塔の着想を得たのかもしれないと書いてありました。
参考にさせてもらったサイト☞こちら




周囲をぐるっとまわって、元に戻ると

土塔周りをぐるっと周ったけどパーキングが見当たらなかった。
隣に墓地があり、その駐車場が出入り自由だったので利用させてもらった。


過去に何度も行基さんのことは記事にしてます。
行基さんが生まれ育った家原寺は、今では受験合格祈願で有名ですから。
昨年暮れの墓参りの後には、


国を耕したもの 行基(2)千年を越えて生きる伝説 
最後に「いつまでも大切に残しておくべき日本史上に二つとない史跡といえるのではないでしょうか。」と結ばれています。

行基の生涯の業績を辿ると、やはり史上類をみない人物だったといえるのではないでしょうか。
一派を開いた開祖など、行基を上回るようなカリスマ性をもった僧ならいたかもしれません。また行基に憧れ、治水事業に携わった重源のような僧もいました。しかし、その2つを兼ね備え、カリスマ性をもって多数の人を率いて土木と建築で国土を作り変え、1200年後の今の生活にもその残響を響かせているような僧は、行基ただ1人と言えるのではないでしょうか。行基の伝説が明治に多くのお寺が廃寺となるのを救い、多くのまちでは今もまちのアイデンティティになるなど、その伝説は1000年を越えて生きつづけたのです。まるで古代神話に出てくる、国造りの神様のような存在に思えてきます。



線路の反対側に暮らしてたというのに、
土塔も土師も陶器も地名として知ってただけ。
堺市の中区・南区、和泉市・大阪狭山市に広がる一帯、陶邑(すえむら)と呼ばれ日本で唯一最大の焼き物製造センターだった。
古墳時代の文明開化は、堺の陶邑から始まったと言っても過言ではないそうです。

少し北に百舌鳥古市古墳群があります。
昨秋、質屋組合のウォーキングに参加しました。

そちらとは別の古墳群陶器千塚があり、お墓の形も作り方も異なる。
お墓ごと焼く、何とも大胆な葬送方式だと。
埋葬施設自体を木で枠組みを作って、粘土をはって窯のようにして作る
その中に入れた遺体を、直接じゃなくて埋葬施設自体に火をかけて焼く。
これは火化(かか・ひか)といい、火葬とは違う概念です。
またなぜか焼かないままのときもあるらしい。

前方後円墳作った民族と違うのでしょうか。
興味は尽きません。
老後の楽しみにとっておこう、なんちゃって。
真っただ中に居るんだった^^
かなり記憶障害出てるから足腰衰えんうちに頑張ろう
♪ (#^ー°)v



長谷寺結縁の五色線と大江山伝説

2020-12-22 | 古代史のミステリー
車に落ちてたよと五色線腕輪が手元に戻ってきました。
長谷寺の大観音特別拝観で賜った五色の糸をより合わせた腕輪です。



先月末に笠山荒神と長谷寺行ったことは長々と記録しました。
あの時車出して運転してくれた友人が、昨日届けてくれました。
産直所でもたくさん買物したので、車から降りるときにうっかり座席下に落としてた。
家に帰ってからいくら探してないので探しといてねと連絡してありました。

白・赤・黄・青・黒の五色は、仏の知恵をあらわし、
身につけると観音さまとのご縁が結ばれたという印だそうです。
災いを除き安心を与える腕輪を大事にお持ちください、と聞けば無くなると心穏やかじゃない。
手元に戻り一安心。

一番最後に、不思議繋がりは尽きません・・・と 記しました。

香取本『大江山絵詞』の絵巻のなかで描かれている酒天童子(酒呑童子)(また、酒天童子が変化した楠)と、
長谷寺縁起絵巻』のなかで描かれている、祟りたたりをなす霊木(御衣木みそぎ)の楠には、たくさんの共通点があります。
『大江山絵詞』絵巻のなかで描かれている酒天童子(酒呑童子)の伝説(または、その原型となった物語)は、『長谷寺縁起絵巻』の伝説を「元ネタ」のひとつとしてつくられた可能性があるのではないかとおもいます。(または、その逆の流れだったのかもしれません)
 

12/7に記事書いた時には、大江山伝説については鬼退治というだけで詳しく知らなかった。
大江山の鬼、酒呑童子となぜ長谷寺の楠が繋がるのか不思議だった。
その二日後に、たまたまNHK歴史ヒストリアで、大江山絵詞を取り上げられていたのを視聴。
TV画面撮影したのち調べる時間なくてそのままになってた。


今朝、画像を保存してるGoogleフォトからメッセージ届く。
一年前の今日とか過去の思い出をたどるもので、その繋がりで溜まった画像をみました。






あのTV番組で視聴した内容は、すでに10日以上経過してほぼ忘れてる。
画像でみてわかるのは

大江山絵詞は、都から異界へ、静から動へと物語が展開していく。
大江山の鬼退治は、義光とライコウ(源頼光)

今日記事にしておかないと、もっと忘れると思うので。


あの番組で足利義満が登場してびっくり。
北山文化の金閣寺と日明貿易で認識してただけだったから。
なんと南北朝統一を果たし将軍独裁体制を確立 してたんですね。
学生時代に歴史の先生はそう言われてたのかもしれないけれど、覚えてないな~

足利尊氏の孫の義満(1358~1408)のよびかけにより、
1392(明徳3)年、南朝の後亀山天皇(在位1383~92)が応じて京都に帰り、
北朝の後小松天皇(在位1382~1412)に譲位するというかたちで南北朝合一が実現した。 
和平の条件として、将来は両統が交互に皇位につくと約束されたが、実現はしなかった。幕府は南朝の皇族をつぎつぎに出家させ、子孫を絶った。
南朝の人々は深くこれを恨み、南朝の子孫や遺臣の反乱は応仁の乱ころまで繰り返しおきていた。


大江山絵詞(逸翁美術館所蔵)あらすじ
一条天皇の時代、京の若者や姫君が次々と神隠しに遭った。安倍晴明に占わせたところ、大江山に住む鬼(酒呑童子)の仕業とわかった。そこで帝は長徳元年(995年)に源頼光と藤原保昌らを征伐に向わせた。頼光らは山伏を装い鬼の居城を訪ね、一夜の宿をとらせてほしいと頼む。酒呑童子らは京の都から源頼光らが自分を成敗しにくるとの情報を得ていたので警戒し様々な詰問をする。なんとか疑いを晴らし酒を酌み交わして話を聞いたところ、大の酒好きなために家来から「酒呑童子」と呼ばれていることや、平野山(比良山)に住んでいたが伝教大師(最澄)が延暦寺を建てて以来、そこには居られなくなり、嘉祥2年(849年)から大江山に住みついたことなど身の上話を語った。頼光らは鬼に八幡大菩薩から与えられた「神変奇特酒」(神便鬼毒酒)という毒酒を振る舞い、笈に背負っていた武具で身を固め酒呑童子の寝所を襲い、身体を押さえつけて首をはねた。生首はなお頼光の兜を噛みつきにかかったが、仲間の兜も重ねかぶって難を逃れた。一行は、首級を持ち帰り京に凱旋。首級は帝らが検分したのちに宇治の平等院の宝蔵に納められた。 



勇者として描かれている源頼光は、確かに源氏の先祖ではあるが、この時代の武士と言えば要人のガードマンのようなものであり、頼光の武勇伝のようなものは全く残っていないのだという。
つまりは源頼光による鬼退治の武勇伝は、後の世、足利義満 が創作させたものだと考えられるそうだ。




足利氏の命運をかけて山名氏と戦い勝利 した義満。
丹波から出撃した山名軍が通った場所が大枝山(おおえやま)で 、
討ち取った山名の武将のことを「鬼」と して記録している。

足利氏は源氏の一門ではあるが、鎌倉時代にはいわゆる家臣団の一員であり、本来は足利氏と同格の家臣は多数いた。
足利氏の権威を増すため、鎌倉時代をすっ飛ばしてさらに先の源頼光の権威を高め、その頼光と義満が自身を重ねたということらしい。 

もちろん飛鳥時代にも大江山の鬼退治の物語が残っているので、それをベースにした可能性も。

参考にさせてもらったサイトは☞こちら


大江山絵詞(逸翁美術館所蔵)南北朝後期から室町初期頃のものです。
  ※酒伝童子絵巻(サントリー美術館蔵) 室町時代成立 

南北朝合一が1392年。

長谷寺縁起絵巻は、弘治三年(1557)の制作。

ということは、先に大江山絵詞があって、150年ほど後に長谷寺縁起ができたということ、かな。




長谷寺縁起絵巻で知った、白蓮華谷の霊木

2020-12-07 | 古代史のミステリー



なんとも太っ腹な展示状況。
写真もOKで、禁止と表示されてたのは襖絵だけ。
レプリカ?

ふつうならサラ~っと見るだけなんだけれど、
若狭旅の記録を綴ってた先月、satokoさんのコメントに触発されて、
長谷寺の十一面観音を彫った霊木がどこから来たかが気になってました。
それでいつもよりはしっかり見て、写真も撮ったので記録残しておきます。



①長谷寺を訪れた菅原道真は霊夢をみました。
吉野金峯山寺の蔵王権現が金色の橋を渡って現れ、道真にお告げをする夢です。
目覚めた道真は、長谷寺縁起の執筆を始めました。


⑦徳道は、観音像を造るための御衣木を得るために、師の道明に相談しました。
道明は、近くの川岸に霊木があることを告げ、昨夜の夢に霊木を守護する三尾大明神が現れたことを話しました。


⑧徳道は、初瀬の郷の古老のところに行き、霊木について尋ねました。
古老は、この霊木はいずれ里に祟りをなすので、皆で遠くの地へ送るつもりだと答えました。


⑨古老は語り始めます。
近江の国三尾前山(今の滋賀県湖西地方)の白蓮華谷に大きな楠が横たわっていました。楠は常に光を放ち、良い香りがして、幹がラ白蓮華が生えていました。

「横たわる霊木、この場所はここ」QRコードを読み込むと




⑪霊木は、志賀郡大津の里(今の滋賀県大津市)に流れ着いて70年とどまりました。
里の人が霊木を切ろうとすると火事や疫病がおこったので、霊木に触れるものはいなくなりました。


⑫その後、霊木は高市郡八木の里(今の奈良県橿原市八木)に30年、葛下郡当麻郷(今の奈良県葛城市当麻)に50年曳置かれましたが、行く先々で祟りや不吉なことが続きました。

これ以上の撮影をやめました。

お坊さんにこの展示されてる大広間まで案内されて、自由に閲覧くださいと外でお待ちでした。
あまりゆっくり見てる余裕もなくて、他に閲覧者がいたら避けざるを得なかったりで。





あの日、大講堂から見た本堂と初瀬の山


たまたま、あの日の夜
鎌倉の長谷寺が報じられていました。



ネットで検索してみたら、こんなサイト発見。

『長谷寺縁起絵巻』の概要について 、以下コピペ
長谷寺縁起絵巻三巻は、この十一面観音の造立にまつわる諸々の奇譚、霊験譚を集成したものだが、その内容は、 寛平八年(九九六)に菅原道真が勅命によって作成したと偽托されている漢文の長谷寺縁起文を和文化したものである。
上巻は道真が長谷寺に入って縁起文を筆する段を巻頭において、この縁起絵が由緒正しいことを示し、次いで、古くからあった本長谷寺の縁起を第二段に描くが、第三段以下は、本尊造像に尽力した徳道上人の誕生から出家、修行、寺院建立の決意、仏像造立の祈願を第七段までに描き、第八段は徳道が師の道明に教えられた霊木について、古老にその由来をたずねるところ。第九段以下第十二段は古老の語る霊木出現の経緯や、この木が人々にたたりをする説話を四話載せ、第十三段で徳道が里人からこの霊木をもらいうけた事をのべる。


詳しく説明されているのを見てると、
先の撮影画像で漏れてた⑩は以下の通り
又云、継体天皇十一年、雷電風雨がおこり洪水となって此木が彼の谷から流出した。絵は、風神・雷神が大風、洪水をおこし、異行の者や持蓋童子、白衣の翁が霊木を護る光景。 

さらに読み進めると、

香取本『大江山絵詞』の絵巻のなかで描かれている酒天童子(酒呑童子)(また、酒天童子が変化した楠)と、
『長谷寺縁起絵巻』のなかで描かれている、祟りたたりをなす霊木(御衣木みそぎ)の楠には、たくさんの共通点があります。
『大江山絵詞』絵巻のなかで描かれている酒天童子(酒呑童子)の伝説(または、その原型となった物語)は、『長谷寺縁起絵巻』の伝説を「元ネタ」のひとつとしてつくられた可能性があるのではないかとおもいます。(または、その逆の流れだったのかもしれません。)


不思議繋がりは尽きません・・・

鷲峰山に 荒神出自し 鎮まり坐す

2020-12-03 | 古代史のミステリー
荒神さんの日に笠山坐荒神社へ(11/29) の続きです。

古代からの歴史追ってたら収拾つかなくなって、
とりあえず見たことを記録しておくことにします。

笠そばでお昼済ませすぐ前の鳥居くぐったのが12:44
神秘的な参道を5分ほど歩いて





お参り済ませて階段下の立札が目に留まる。
表参道200m 閼伽井不動とあった。

下る参道降りたらまた登らんとあかんけど、行ってみようということに。


戻る時に写しましたが、こちらが表参道でした。








表参道左手に閼伽井不動がありました。





空海は遣唐使帰朝後、高野山開く前にここ閼伽井の池で21日間の行を勤められたと書かれています。




聖武天皇が大仏建立の時、土木工事で役夫百数十人の死傷者があり伽藍建立が不可能な事態となった折、良弁僧正が天皇の正勅を受けて当山に登ったと伝えられます。
良弁僧正は、当地で七夜の祈誓を行い南都に帰りましたが、日本全土の女人より髪毛ひとにぎりの寄進を受け、それによって大綱をつくり大仏殿の上棟を無事成したと伝えられています。


聖徳太子を初め、奈良東大寺初代管長良弁僧正、中国の高僧善無畏三蔵、高野山を開いた弘法大師、興正菩薩、照海大徳、尊海大徳、高海大徳、尊信大和上、秀繁大徳、高繁本徳、尊弘大徳、宝真大徳、英岳大徳、尊雅上人、 尊球大徳等、あまた高僧、笠山寺(加佐寺)にあつまり来り、
又行者の祖師、役小角行者、此の山に来り鷲ヶの峯に登りて、宝詞を造り霊神を奉祀、城州笠置山伏一代ごと此の地に来たり、 護摩を修して霊神に供しつとめ侍る。
これら山伏、高僧は修験、祈願をかけて、奇瑞なる霊験をさずかり、
下山して社寺佛閣を建立する者又は此の地に骨をうずめる者あまた有りて・・・

笠山三宝荒神 一隅大和照千
最初に見かけた由緒説明板に書かれてました。

神躰山なる鷲峯(じゅぶ)山寺、笠山三宝荒神の名声は、
大和の国、笠山の一隅より、広く日本全土津々浦々にひびきわたり、
各地に於て三宝荒神の社を建立し、
火をしずめる神として諸人は各家の竈神に奉祀其の御神徳に浴せり。

由緒説明看板、3箇所全て微妙に異なってて、
どれ読んでも頭に浸透してくれないけど、すごいとこだというのはわかった。
いつかもっとわかる日が来るかもしれないので記録残しておきます。


【由緒】
当社は荒神出自の源とされ、鎮座する鷲峯山は笠の如く峻嶺で、往古より信仰の山として仰がれている。
その昔、笠山鷲峯山に須佐之男命の神孫で竈の神である「奥津彦神・奥津比賣神」と大地の神「土祖神」を奉斎したとされるが、更に古くは土着の信仰が強かったといわれる。

『笠荒神鷲峯山竹林寺來由記』(延宝六年)には役小角によって笠山に荒神が鄭重に奉祀されたことが記されている。
以来、当社を中心とする笠山の地は、高僧・修験者・陰陽師などの修行の場となり、神仏習合の霊地として信仰を集めた。
当社の荒神は善を助け悪を罰する神で「麁亂神」(そらんしん)とも呼ばれる。

明治初年には、神仏分離により笠山荒神社となるが、現在も修験者などからの信仰は続いている。


八倉比売神社の奥の院は卑弥呼の墓?

2020-11-24 | 古代史のミステリー
前回からのつづきです。

参拝後すでに1週間過ぎたので、忘れへんうちに。


木の鳥居から急な階段始まります。
10:02 呼吸整えスタート

半分上がって休憩して振り返ると


この先 上は ⤵


やっと着いた❣️


予習では行くの不便で大変そう、おまけに説明読んでたら不気味だった。
天気と体調次第で当日朝に決行するかどうか決めようと思ってた。
さらに鳥居下まで行けたとして、違和感や気味悪く感じたら引き返そうと。
それぐらい覚悟もってのお出かけだった。

そうしたこともあり、かなり具体的にかかった時間も含めてレポートさせてもらってます。
いつか彼の地目指す方のためにも。


ご挨拶お参りすませ階段に腰下ろし息整える。


10:08
記念に自撮りしとこうとスマホのアングル調整してたら、
なんと人が上がってきて手水舎前に居られるのに気づく。
私同様若くはない女性で、マニアックな人に出くわしたことに驚いた。

軽い好奇心でミーちゃんハーちゃん自撮りしてたら笑われるやろ。
すぐに立ち上がり撮影タイム中断。



本殿右手に説明板あったので撮影。

さらに奥の院へと上がる階段あるのは予習して知ってた。



本殿にお参りされる女性が居ると思うと心丈夫な思い。
それまではひとりぼっちで、不安はつきなかったから。
200基もの古墳があるお山ですよ~
神隠しに遭ったり、変なのに取り憑かれ連れて帰ったり…

人の姿見ただけでやっと尋常に戻れた。

この階段上には卑弥呼の墓だというウワサもある。
途中通過した宮山古墳では、三角縁神獣鏡が完全な形で発見された。
京都府八幡市から出土したものと同じ鋳型から作られているそうだ。 
また神社の南400mで突鈕六区画線袈裟襷文の矢野銅鐸出土。
こうしたことから「邪馬台国阿波説」 卑弥呼に繋がってるのかな。

分かれ道で見えた阿波史跡公園、古代の竪穴住居 や高床倉庫などが復元されているのが見晴るかせた。


もう怖くはないから、上に行けるよ。
20段ほど上がったら、


開けた場所に出て祭壇石組見えた。
10:12

阿波青石の木口積 だそうで五角形に築かれてた。


鶴石亀石を組み合わせた「つるぎ石」って、
どう見ても陰陽石だよね。
卑弥呼の墓に男根石?

帰りに山麓にある神社宮司さんの社務所でお札賜るときに、
あれって卑弥呼の墓ではないように思えましたけど、と言うと
僕もそう思ってます、とのお返事だった。

火伏せとかかれてるという神札賜った。
紙袋に入ってたから確かめもせず家に持ち帰る。
開けてみたら


メルちゃん、踏んだらあかんよ。
思ってたのとちょっと違ってた。
予習では「火付せ八倉比賣神宮」と明記 と書かれてたのに。
                  火伏せ
でも縁あって我が家にたどり着いたお札なので台所に貼りました。




本殿前で出会った女性は、奥の院から降りてきたらお掃除されてた。
宮司さんの奥様でした。
この時期は枯れ葉を掃いても掃いてもと話されてた。
山上まで登ってきてのお掃除管理さぞかし大変だろうと思います。
とても気持ちのいいところで、来れてよかったですとご挨拶しました。




麓の登山口で10:31、結局9:52から40分の滞在だった。
鳥坂下バス停11:19目指して帰路スタートした。



前記事には4世紀初め に杉尾山に鎮座と書きました。
天石門別八倉比賣神社略記 によるものです。
ところが、
当社ははじめ気延山の山頂に祀られていたが、推古元年(593)に現在地に遷座し、江戸時代に奥の院を拝するための拝殿と本殿を造営して現在に至るとある。文化12年(1815)に完成した地誌『阿波志』にも同様の記載があり、当社ははじめ、気延山の山頂近くにあったが、江戸時代になって当地に遷されたと記されている。 

これを記された、巨石巡礼のサイトには
ちなみに「邪馬台国阿波説」で比定されている卑弥呼の居城地は、徳島県神山町神領字高根。鮎喰川の上流、標高700mの山上にある悲願寺(ひがんじ)あたりとされている。 

さらにこう記されています。
大同2年(807)の『古語拾遺』によれば、神武天皇元年に神武天皇の命を受けた天富命(あめのとみのみこと)と阿波忌部(いんべ)氏一族が肥沃な土地を求めて阿波国へ上陸し、そこを開拓したとあることから、気延山麓一帯も阿波忌部氏の勢力下にあったとみられている。したがって、天石門別八倉比売の神名は、阿波忌部氏の祖霊にあたる天石門別神を奉斎し、気延山麓一帯の水田から収穫された収穫物を保管貯蔵する、多くの倉の守り神という意味であろうと推測される(『日本の神々 2』)

天石門別神は天照大神が隠れた天岩戸の神格化した神とされているが、櫛石窓神の別称で、太玉命の子に当たる。当社の神社名は天石門別神と八倉比売神社を祀ると理解していいのだろう。『安房斎部系図』に、「天背男命の后神が八倉比売神で、その子が天日鷲翔矢命」とある。天日鷲翔矢命は天日鷲命のことで阿波忌部の祖とされる神である。
また、天石門別神は天岩戸を開けた手力雄神に比定されることが多いが、この神は銅鐸のパワーを秘めているように思われる。阿波では名東郡佐那河内村に天岩戸別神社が鎮座しており、この佐那はサナギであり、銅鐸であると思われる。現に銅鐸が埋納されており、それを祠で祀っていたようだ。

弥生時代から古墳時代にかけて阿波国の中心地となっていた土地柄のようだ。
吉田東悟『地名辞書』によれば、「阿波志云う、八倉比売神社は一宮であり、矢野村杉尾社は大御和神社とすべきである。杉は三輪神に因むとある」



復習でヒットしたサイトを読んで納得できた。
予習ではどのように行くかで頭いっぱいだったから。
これから行かれる方の参考になれば幸いです。




十一面観音と奉納船と神馬@若狭

2020-11-02 | 古代史のミステリー
丹後若狭旅最終回です。
仏像マニアのお連れが行きたいといってた羽賀寺。
こちらの十一面観音さんはめっちゃ別嬪さんで有名です。
先の多田寺のモデルが孝謙天皇で、こちらは元正天皇だそうです。


小浜の東エリアなので、また次の機会を作って必ず行きたいものです。

それにしてもなんで若狭には十一面観音菩薩像がたくさんあるんだろう。

今にして気づいたことに、東大寺二月堂は十一面観音がご本尊だった。
絶対秘仏だとかで、お参りしてても一番大事なとこスルーしてた。
だからお水取りは正式に「十一面悔過法会」なんだ ┐(-。-;)┌

そして、そんな立派な十一面観音像をたくさん祀れる財力、富の蓄積がこの小浜にあったということ。




大陸からも近く、千島海流にのって、ちょうどええとこに若狭湾!
足利義満の治世に象がここに上陸したらしい。
それよりもっと昔に、インドから実忠和尚も渡来したかも。

しかしあの冬の荒々しい日本海の波を見たことありますが、
海上安全、漁業安全祈願を願うの当然ですよね。

若狭彦神社の弁才型模型(海幸丸)

若狭姫神社に飾られています。
認識はしてたのですが、今まで写真撮ったことないのでネットで拝借。



若狭地方では奉納船の分布が顕著で、とくに小浜市内にその密度が高く、6神社で7船の事例が確認できるそうだ。
* 弁才船模型(海幸丸)=若狭彦神社所蔵(遠敷)
若狭の奉納船の中ではもっとも古く、船全体の反りが少ない優美な船型。

若狭姫神社にはいろんな貼り紙見られます。
その中の一つに
朝廷より 神馬献上の社
絵馬の歴史を振り返るとき、古代において馬は、神の乗りものとして神聖視され、よって神霊を和らげまつり、祈願のために神馬の献上が行われていた。
「続日本記」によれば、宝亀元年(今より1200余年前)8月庚寅朔日、蝕ありし時、勅使を使わされて、伊勢大神宮(伊勢神宮)に赤毛馬を、若狭彦神(若狭一ノ宮)に鹿毛馬を奉るとある。
日蝕に対する呪術的儀礼として、太陽の衰弱を回復させるための献上であり、鹿毛の馬は赤毛(赤毛が火の色と関連する)に準じたものといわれ、世に名高い記事である。

宝亀元年(770)8月1日に日蝕があった時に勅使を遣わして、 
伊勢神宮に「赤毛馬」2匹を奉ると記された後に、 
宇佐八幡宮と若狭彦神社にそれぞれ「麻毛馬」を一匹と記されている。
皇室から尊ばれた日本を代表する2つの神社に該当したということですよね。

神馬で調べてみると、
馬は、古くから神の乗り物として神聖視されており、神は馬に乗って降臨されるものとされてきた。
また、古代の祭りや祈願・雨乞いの際には神に馬を奉納する習慣があった。
馬や馬形を奉納する歴史は古く、文献には多くの献馬の記述が確認できる。

『常陸国風土記』献馬の風習は崇神天皇の時代からである
『続日本紀』大宝二年(702)飛騨国が神馬を献上した
『延喜式』臨時祭に降雨祈願には黒毛馬、止雨祈願には白毛の馬が奉献されていた

神使いしもの 神鶏と神馬 より
神宮に神馬が進献された史実は、宝亀元年(770)日蝕に対する儀礼処置として、幣帛を副えて赤毛の馬二疋が供進され、
宝亀三年(772)には、暴風雨をしずめる呪術儀礼として毎年九月に馬を奉ったと『続日本紀』は伝える。
また、生馬献上と共に、一方では生馬に代わって土馬・木馬などの馬形を献上する風習も生まれた。
そこからさらに馬形をも造り得ないものが馬の絵を献上する事になり、絵馬誕生したといわれ、現在も絵馬に祈願成就を託し神社に奉納するに至っている。



小浜はいろいろ歴史つまった地でした。

2014年のおばマップで、今は京都縦貫道全通してます。


最後に、不思議だなと思ってたこと。

何故、九州に縁があると思われる彦火火出見尊が若狭彦神社の主祭神として祭られているのか 

福井県:歴史・観光・見所のサイトより一部引用させてもらいます。

古代の若狭国は天皇に食膳を貢納する「御食国」で、
10日毎に「雑魚」、節日毎に「雑鮮味物」、1年に一回は「生鮭、ワカメ、モズク、ワサビ」を御贄として納める事が定められ、塩で納税していた事が判っており
天皇に料理をして献上し「膳臣」の姓を賜った膳氏一族が若狭国造を務めるのは相応しい  …
九州の影響を受けた本州最古級の横穴式石室 
中国製や朝鮮半島製の副葬品が多数発見 
などから膳氏は九州北部、中国、朝鮮と関係が深い氏族だった事が窺える。
膳臣は北部九州に人脈や地勢を熟知している事から大陸と大和王権(朝廷)を結ぶ重要役割を持ち、若狭国が大陸への入口の一つとして整備された可能性。

 

大枝の地車は弥刀神社から

2020-09-10 | 古代史のミステリー
今年は新型コロナのせいで全国的に祭りがぶっ飛んだ。
大枝も例年なら秋祭りに備え笛や太鼓の練習があった。
今年はさびしいなと思ってて、やっと気づいたことがあります。



昨春、大枝神社の地車は補修から戻り美しくなりました。
その記念にもらった絵葉書よくよく見たら



「生い立ちは明治初期 東大阪の弥刀神社に宮入」
今頃になって目に留まった、やっと。


2004年の台風で鳥居にヒビ入り、氏子さんに寄付募られ再建。
お金が残ったので中古の地車購入し、
2007年12月に搬入された日見に行った。
過去ログ探したけど記録残してなかった。
初記事は2008年7月5日

10年過ぎてだいぶあちこち傷んでたので、2018年秋祭り終え修理に出されたのだった。

中古は知ってたけど、具体的にどこの神社か知らなかった。
東大阪の弥刀神社のものだったんだ。






2008年10月の秋祭りで新しい地車お披露目されてる記事発見。

弥刀神社に興味津々、調べてみました。




このサイトにはこう書かれてます。

旧大和川(現:長瀬川)が河内湖に注ぎ込む河口付近の港、いわゆる水戸(水門:みと)の守護を願って造営されたと考えられているが、定かではない。
ちなみに、このあたりは、一大港湾にのぞむ大きな水戸(河口)であったことから「大水戸」(おおみと)と呼ばれ、それが訛って「近江堂」(おうみどう)という地名になったと聞く。
 
江戸時代における弥刀神社は、当時の流行であった「牛頭天王」が祀られていた 。
明治の神仏分離政策を受けて、他の牛頭天王を祀っていた神社がそうしたように、弥刀神社もまた牛頭天王を廃し、須佐之男命に変更して摂社に。

摂社八坂神社は拝殿の右奥にあるようで、
鎮守の森に守られたその奥に、春日造りの萱葺の社が鎮座する ようだ。
八坂神社の向かい側に、大己貴命を祀る「常世神社」が鎮座。
そのうちに確かめに行きたいな。

弥刀神社においては、その歴史的観点から、
主祭神は秋津日子神・速秋津比売神とし現在に至る。

彌刀神社の創建は明らかではないが、
天平宝宇6年(762年)6月の旧大和川(長瀬川)の大氾濫で、由来となる建物や器物が流失したというから、奈良時代には存在していた。

河内国の古社の多くは、その祭祀氏族が明確であり、氏神として祀られた祭神もある程度明確にされてきた。
枚岡神社・恩智神社(中臣氏)、石切神社(穂積氏)、弓削神社(弓削氏)、矢作神社(矢作氏)、渋川神社(物部氏・中臣氏・忌部氏)、跡部神社(阿刀氏)、穴太神社(穴穂部)、八尾神社(栗栖氏)、御野県主神社(美努連氏)などなど。。。物部ワールドである。
しかし、この弥刀神社は、祭祀氏族がよくわからない。よって祭神もよくわからない謎の神社

明治5年(1872)村社として登録されている模様。
このころに地車が宮入りし、それがまわりまわって大枝神社へ。
ということは、主祭神秋津日子神・速秋津比売神の御神気を受け継いだということでいいのかな?


神社名の「弥刀」は、一般的には河口・港の「水戸」に由来するとされる。
実際、「みと」と入力すると、真っ先に出てくる漢字は水戸。
 
別の説は
神名帳の最古の写本によると、「弥刀」は「いやと」と読ませている。少なくとも平安時代には「みとの神社」ではなく「いやとの神社」と呼ばれていたということになる。
「弥」は「弥栄(いやさか)」の「いや」。「刀」は文字通り「カタナ」の意として考えると、そもそもは「(一族の)繁栄を願って神刀を奉斎した」神社であったのではなかろうか。


そこで弥刀で調べてて、こんなの見つけました。

<神武天皇を支えた七大臣>
中臣春武の命、中臣道之臣人の命(この二人がアメノコヤネの子孫)
斎部差別の命、太玉大富の命(この二人がフトダマの子孫)
科津靱之男の命(シナヅトベの子孫?)
弥都波若菱守の命(ミズハノメの子孫?)
手力佐韋花の命(タヂカラオの子孫?)



継続調査中・・・




枚岡神社創祀の地☆神津嶽

2020-06-09 | 古代史のミステリー

展望台の山側に、さらに上への階段見えてました。
でも足痛くてもう無理。
結局は階段に恐れをなして行かなかった。
写真すら撮らなかったので画像探してきました。



神津嶽の所在地は、東大阪市出雲井町、
ヘェ〜そうなんだと、調べたら
若宮社のところに出雲井があり、それが由来だとか。








神津嶽(かみつだけ)は、枚岡神社創祀の地ですって。
神武天皇が建国を願って、この地に天児屋根命を祀られた。

神津嶽の頂が平らな丘であったことから「平岡(枚岡)」の社名が生まれた。
奈良市春日野町の春日神社第三殿、第四殿の祭神である天児屋根命と比売神は、この枚岡神社から遷座したもの。


昨日はお呼びじゃなかったので、
あとどれぐらいで行けたんだろうと地図探す。



さすがパブリックなサイトは神社でもマニアックなとこはスルーでした。


下の地図はどこでいただいたか?
この地図の赤い印は私が付けました。
右下、枚岡神社上の白い部分はご神域なんでしょうか。

その左脇道上がり、分かれ道で右に、七曲りから枚岡山展望台へ。
休憩しても回復せず、さらに神津嶽目指さず引き返す。
展望台すぐ下の分かれ道で、椋ヶ根橋 のほうへ下った。
ずいぶん歩いたつもりでも7000歩にも満たなかった。

枚岡神社サイト「宮司よりひとこと」より
最後の方の満足という言葉が心に残りました。
またいつか近いうちに再訪して、神津嶽めざしたいと思います。

神津嶽の登拝【更新日】平成29年8月31日

カンヤマトイワレビコノミコト(後の神武天皇)が建国を願って、天の岩戸を開いた天児屋根命を、生駒山の神津嶽(320M)にお祀りされて、今年は2680年を迎えます。ミコトは生駒の暗がり峠を越えて大和に入ろうとしましたが、ナガスネヒコの抵抗に遭い、迂回して熊野から吉野、宇陀を経て橿原で建国して、今年は2677年。その3年前に枚岡の神様がお祀りされているのです。現在の地にご本殿が創建されたのが、白雉元年⁽650⁾9月16日と伝えられており、神津嶽の本宮神社は、この9月16日が例祭日です。この日神職、巫女が総代等と山頂に上るのですが、枚岡神社の大元を振り返る絶好の機会ともなっています。

9月以外は毎月16日に、宮司が登拝しています。朝5時過ぎに出発するのですが、九十九折れの山道は、ゆっくり歩いても約30分で山頂に到着します。枚岡の大元の地で祝詞を奏上した後、心行くまで瞑想し、神様に感謝し、神様と対話するのが、至福のひと時ともなっています。春は鶯の声を聞き、夏は山頂で涼を楽しみ、秋は紅葉を愛で、冬は厳しい寒さを耐えた後の充足感を味わう等々、四季折々に満足しています。これもまだ足が丈夫だから出来るのです。因みに先般105歳で逝去された日野原重明さんは長年、階段を2段ずつ上がる努力を重ねて健康を維持され、世の中のために貢献されました。2段ずつ上がると、腿の筋肉が鍛えられて健康になるようです。足が丈夫だと健康で満ち足りた生活が出来るので、「満足」という言葉が出来たのでしょう。日常境内の坂道や石段を上り、毎月山に登ることによって、自然と足が鍛えられていることを思うと、日々感謝しかありなせん。




昨日まで全く知らなかった神津嶽(かみつだけ)、ググってみました。

天之児屋根命の御尊骸を納めた可能性ある神津嶽本宮
このサイトで見た地図⤵


枚岡神社、生駒の聖天さん、石切さん、・・・
大阪ですぐ行けるとこなんだけれど、
知ってるし、行ったことはあっても、点と点が繋がらない不思議なエリアです。

石切さん 石切劍箭命神社 

枚岡神社

生駒の聖天さん




潮満珠は大海神社で、潮干珠は宿院頓宮飯匙堀に

2020-05-25 | 古代史のミステリー
住吉っさんが全門閉まってるなんて予想だにしなかった。
がっかりして、あたりウロウロして昼ご飯まで時間潰す。
レストランだけは前夜に開いてるか確認してました(^^)
4年前と同じ玉子コロッケ食す。



英気を養って気を取り直し、
またもやチンチン電車に乗って向かうは宿院。

2015/7/26の記事に載せた下の地図、
阪和線ではなくて、路面電車の阪堺線が正しい。


住吉祭の神輿渡御のルート図


阪堺線宿院で降りて、フェニックス通りの次の信号右手に

住吉神社飯匙堀、鳥居もあるのに入れない。

フェニックス通り側道沿いに大きな鳥居があり、そこから入った。


境内なのか公園なのかわからない広場の中央に
うさぎのオブジェ越しに頓宮本殿




頓宮の説明板には神輿渡御のこと書かれてました。



この飯匙堀に、潮干珠が埋まってるんですって。


飯匙堀のあの岩の下に埋まってるのかな〜掘ったら出てくるかな〜
イチビリのお連れは掘るパフォーマンスで記念撮影。

なぜか大事な地、奥宮が頓宮。
盛夏の住吉祭で、住吉大社から頓宮まで神輿渡御され、
飯匙堀(いひがひぼり)荒和大祓(あらにごおおはらえ)が執り行われます。



なぜ興味持ってたかというと、

赤留比売神社、現在は杭全(くまた)神社の境外社ですが、
これは大正3年からのことで、かつては住吉大社の境外末社だった。
8/1の住吉祭に、いまでも桔梗の造花をこの神社から捧げられるらしい。
神輿が堺の宿院頓宮まで渡御され、宿院の飯匙堀で荒和大祓が執り行われます。
そこでこの桔梗造花が供えられるのですね。
住吉祭 神輿渡御(みこしとぎょ)の歴史 に
享保 8年(1723)平野七名家の桔梗造花献上が再興
荒和祓桔梗献花口上覚 という記載がありました。 


先日、道頓堀は成安道頓が造ったという記事を書きました。
平野七名家の一つです。
なんか繋がってる〜

とりあえず、宿院頓宮の飯匙堀へ行ってみようと思い立ったのでした。

実際に足を運んでも、神輿渡御の日でもないし、
潮干珠みれるわけでもないし。
おまけに、住吉っさんの大海神社に参拝できなかったし。
あちらの玉の井には潮満珠が沈められてるという。

宮崎の鵜戸神宮にも伝承あるんですね。
山口県にもあったような。
それが大阪にも、不思議ですね。
あかるひめとも関わりあるのかな。


詳しくは以下サイトで
堺宿院頓宮と潮干珠伝説





多治速比売神社のたちばなひめは

2019-12-28 | 古代史のミステリー



多治速比売命 (タジハヤヒメ )神社の拝殿です。
いかにも女神さまの神社って感じで美しい。
堺市南区宮山台に鎮座し、創建はおそらく530年頃。

ずーーっと前から行ってみたかった。
でもどこに在るのかちゃんと調べたこと無かった。

鉢が峯の墓参り終えて、次の大野墓地へ。
日置荘にあるシチリア料理店近くの大野墓地には母の実家の墓があります。
なんと父と母の家は、ともに丸に三柏紋で一緒なんですよね。


たじはやをグーグルマップで見てたら、その途上にあるやん!
これは行きなさいと言うメッセージ。





ナビが示す駐車場停めたら、表参道の鳥居くぐらず脇門から入ることになる。






参拝者の姿なし。
社務所も、正午すぎてたので午後1時まで休みと貼り紙。
妹は娘のために安産御守賜ろうと思ってたのにね。



祭神は、多治速比売命・素盞鳴尊・菅原道真
本来の祭神は多治速比売命(タジハヤヒメ)一座 。

社伝によれば、タジハヤヒメとはヤマトタケルの妃・橘姫命が転化したものというが、ヤマトタケルにタチバナヒメなる妃名は見えない。

和泉国式神私考(発刊時期不明)に
「多治速名媛命 穂積押山宿禰之女 日本武尊之妃神也」
とあり、景行紀に穂積氏忍山宿禰の娘とある弟橘姫命(オトタチバナヒメ)を指すというが、
特選神名牒(1925)は「(タジハヤヒメは)橘姫に非ず」とあり、はっきりしない。

このタチバナヒメ説以外に、

“丹比乃波夜姫”とする説(神社覈録・1870)
“丹治比君の祖”とする説(神名帳考証・1813)などがあり、
タジハヤヒメの出自についての定説はない。

なお丹治比(タジヒ)君とは、
宣化天皇と皇后・橘仲皇女(タチバナノナカツヒメミコ・仁賢天皇の皇女)との間に生まれた上殖葉皇子(カミツウエハ)の後裔で(宣化紀)、
天武天皇のとき真人の姓を与えられている。、
上殖葉皇子の母を橘仲皇女ということから、社伝にいうタチバナヒメとは、この皇女を指すのかもしれない。

丹治比・丹比とは上殖葉皇子の子が臣籍降下して与えられた氏名。
9世紀中頃に多治と改名している。
丹治比氏の本拠地は河内国丹比郡-羽曳野市辺り
引用元☞こちら


わからないなりに、初参拝したときの印象では、丹治比氏ゆかり?
あたり荒山宮(コウゼンノミヤ)と呼ばれている 、これも気になりますね。


この古代図の下の方に平尾遺跡と記されています。
今でも平尾という地名は残されています。
平尾の隣村が多治井だった。
他にも丹比、丹南、とかいう地名ありましたもん。

近くの菅生神社の境内の石歌碑に、
「菅生の開帳に 平尾の山で ごまのぼたもち せんど食た」
 2008-10-08 それぞれの歴史



ところで、初参拝では見落としいっぱいありました。
やっぱり先達はあらまほしきかな、です。

国指定重要文化財である本殿も、鳥居の外に水天宮も。
本殿の左に式内・坂上社 の小さな祠もあるようです。

明治43年に合祀さされた坂上神社 
式内社調査報告では
「祭神は社名に由来する阿知使主(アチノオミ)であること、諸説一致している」

阿知使主とは、応神紀に
「20年秋9月 倭漢直(ヤマトノアヤノアタイ)の先祖、阿知使主がその子都加使主、並びに17県のともがらを率いてやってきた」
「当社が坂上氏の祖神である阿知使主を祭神とするならば、これは渡来人中の漢氏の氏神でもあり、その氏人の一部は陶器生産にも励んだことであろう」 


陶荒田神社 もわりと近くの堺市中区上之 にあります。
また折を見てフィールド調査行ってこようと思います。





狭山池は日本最古のダム式ため池

2019-12-25 | 古代史のミステリー


狭山池博物館一階の水庭
壁面から流れ落ちる水はほんの一部だけになってた。
水道電気代恐ろしくかかりますものね。

13年前も同じアングルで撮影してます。

あの時は全壁面から水流れ落ちてた。






円形中庭から見上げた空。
カメラアングルでは伝えられない建築物です。
機会があれば是非 現地で実物見ていただきたいものです。
建築費43億円だとガイドさんから聞きました。


平成13(2001)年の開館以降の累計入館者数が150万人
平成29(2017)年9月2日(土)に入館者150万人記念式典を開催


安藤忠雄建築ですから世界中から見に来られます。
見学者はだいたい年間10万人、
単純計算で月に8333人
25日で割ったら1日333人。

入館無料なんだけれど、
一般乗用車の駐車場はなくて観光バスか身障者用専用。
やっぱ、マニアックなのかな~

興味ある人には空いてて素晴らしい「土と水の歴史詰まった博物館」です。







平成の改修で堤防の一部を切り取ってそのまま保存展示。
高さ15.4m 幅62m
展示には10億はかかってるそうですよ。

江戸時代と飛鳥時代の樋も見比べることができます。


取水塔の仕組みもすごいですが、ここでは説明無理。
農業用水として池から水を放出前には、潜水して取水口を掃除する。
溜まったゴミとか石ころを取り除くのに、8mは潜ってたそうです。






1400年の歴史が重なる土木遺産。
水を取り出す樋、堤の滑りを防ぐ木製枠工、崩れにくい土堤など
びっくりの知恵と工夫が詰まってました。

ガイドさんの歴史と土木の知識に驚きます。
マニアックなおっちゃんとかが微に入り細に入り聞きそうだもの。





南都焼討に遭った東大寺を復興させた重源さん。
この狭山池も修復してました。
古墳時代の石棺を利用して石樋にしたんだって。
石棺はお正念抜いたから大丈夫、なんて言ってたんですかね。

飛鳥時代に国家プロジェクトとして誕生した狭山池。
敷葉工法などは国際的な土木技術だったそう。


アラカシの葉っぱを踏み固めて入れてた時代も。

アラカシといえば、お昼に行った多治速比売神社の境内で見たよ。






奈良時代、行基さんの修復により水で潤う河内平野
画像左端に、仁徳天皇陵

今日のニュースでたまたま目に留まったのが、
安倍晋三首相は25日、中国の李克強首相の案内で、
四川省成都市郊外の古代の水利かんがい施設「都江堰」を視察した。
都江堰は、成都に流れ込む川の氾濫を治めたり、下流域の大平原へ水を引き入れたりするため、紀元前3世紀の秦時代に築造されたとされる。2000年に世界文化遺産に登録された。 


中国では「万里の長城」「南北大運河」「都江堰」を古代の三大土木工事と称しているが、築造当時の役割を脈々と果たし続けているのは「都江堰」のみである。 
詳しくは→世界の土木遺産





果ての二十日 と一本だたら と 猪笹王

2019-12-20 | 古代史のミステリー


今朝は7:35の朝日です。
日の出時間は、大阪7:00


真東は電信柱あたり。
明後日の日曜が冬至ですから。


昨日たまたま十津川の果無峠調べてました。
熊野へ至る大峰奥駆道、奈良と和歌山の境あたりです。

果無 はてなし とは珍しい地名。
どんないわれがあるんだろうと。

そこで発見した「果ての二十日
まさに今日がその忌み日でした。

間違って書いたらあかんので
後でネット情報貼り付けます。


「はてなし」は、「果ての二十日に人は無し」から付いたという説 です。

まずは今日出現するという妖怪から、次々追記していく予定です


一本だたら




和歌山県の山中に現れるというこの一本だたらですが、実は超レアな妖怪です。

何故ならコイツが現れるのは一年に一度、12月20日のみなのです。

倒したらレアアイテムでもドロップしそうですね。

 

和歌山県と奈良県にまたがる果無(はてなし)山脈の辺りに住む人々は、この日を「果ての二十日」と呼び、決して果無山脈には近づかなかったそうです。

ちなみに出現日が12月20日である理由は不明です。

まあ、その理由を知ろうと山の中に入った人はそのまま行方知れずに・・・

なったかどうかは定かではありませんが。





猪笹王                  
いのささおう/いざさおう


大和国(奈良県)吉野郡・川上村の伯母峰峠に現れたといわれる妖怪。
元は熊笹がついた大猪だったが猟師に打ち殺されてしまう。

その後、付近の湯が峰温泉に現れて「鉄砲と犬をよこせ(どかせとも)」と言ったが
聞き入れられなかったことに怒り伯母峰を通る人たちを食い殺していたという。
そのせいで東熊野街道(現在の169号線)は人知れずの道となってしまった。

そこに丹誠上人(この人物の登場から時代は1590~1620の間になる)が訪れ、
地蔵による結界と封印を施して退治した。
ただ、どんな封印でも決まりがつきもので「12月20日は自由にしていい」という決まりで封印
その後は再び伊勢参りなどでの賑わいを取り戻したが20は「果ての20日」と言われ恐れられた。

一本だたら関係の伝承でもしっかりとしたもので昔話などでも扱われることがある。
一本だたらは大和(特に猪笹王の出る吉野郡)の隣の紀州に現れる妖怪で一説にこれを指すとも別個体ともいわれている。

また、果ての20日自体は近畿地方各地に伝わるもの
「山の神が出る(山に入れない)日」「罪人を処刑するのが大抵この日だから」
物忌みして家でじっとしていようという風習
がある。
引用元☞こちら


以上が、紀伊半島の山の神に深く関る忌み日の伝承でした。

 

ところで、猪笹王が柿の葉寿司のゐざさ に繋がってました。
 
あのとき幹事だったので、40名団体のお昼をどこでとるかで悩みました。
ゐざさ さんに決めたとき、なんとなくおざさと似てるから親近感もてた。
今回の記事しらべで、「ゐざさのふるさと奥吉野 上北山村」と知る。
「ゐざさ」の名の由来が、笹を背におった伝説の大猪「猪笹王」 だった。

イザサという音からすれば、
伊奢沙別命(イザサワケノミコト) 
応神天皇の本名ですよね?

応神天皇が敦賀を訪れ、笥飯大神と名前を交換した。
応神天皇は伊奢沙別命という名前から誉田別に、
笥飯大神は誉田別から伊奢沙別命になった。


一本たたらの製鉄と、山の神と、応神天皇、
繋がってるんでしょうか?



京の罪人処刑は12月20日
東海道から来た人が京の都に入る時、
その入り口となっていた粟田口(あわたぐち、左京区)は、江戸時代には刑場が設けられていた。
罪人は都の中を引き回された後、この粟田刑場で果ての二十日に首を斬られていたという。
その命を忌み慎むという意味から、この日の過ごし方が守られてきた。
罪人は首を斬られる前に一つだけ最後の願いが聞き入れられた。
町衆はそれを恐れ、家族が目を付けられないように、特に女の子の外出は控えられていたという話もある。
現在の粟田口周辺は、いくつかの地名としてその名残りをとどめている程度で、実際の面影はなにもない。 

引用元☞こちら
最後に以下のようにまとめられています。

京都と奈良山中の習俗との間に関連性はないようであるが、
一年の精算をする日でもある大晦日を間近にひかえ、
身を慎み、災いを避けるべき忌み日があることは、とても意味深く感じられはしないだろうか