15:30 法要開始
16:20 堂内で鬼出現、僧侶四手に挟んだ「牛玉札」で退散
16:30 参列者の額に「檀拏印(だんだいん)」押印
16:45 堂外で鬼出現、大松明を持ってのたうちまわる
17:00 法要終了
赤い四角で囲った村名の、左端から3番目に南嶋村
この地図は、明治18年陸軍による測量図だった。
5世紀頃、淀川の洪水を 防ぐため渡来人などの技術を用いて築かれました。
「強頸の絶間」は大阪市旭区千林町、
「衫子の絶間」は寝屋川市太間町だといわれています。
あの時代までの大阪湾は現代の大阪平野まで入りこみ、上町台地の東側は河内の海でした。
西淀川区のあたりはまだ海の中だったと思います。
二島、三島など湿地帯に堤を築いて島みたいに中州・輪州ができてたのでしょう。
土と瓦でできたピラミッド状。
行基さんの弟子の中に中国へ渡ったものがいて、土塔の着想を得たのかもしれないと書いてありました。
土塔周りをぐるっと周ったけどパーキングが見当たらなかった。
一派を開いた開祖など、行基を上回るようなカリスマ性をもった僧ならいたかもしれません。また行基に憧れ、治水事業に携わった重源のような僧もいました。しかし、その2つを兼ね備え、カリスマ性をもって多数の人を率いて土木と建築で国土を作り変え、1200年後の今の生活にもその残響を響かせているような僧は、行基ただ1人と言えるのではないでしょうか。行基の伝説が明治に多くのお寺が廃寺となるのを救い、多くのまちでは今もまちのアイデンティティになるなど、その伝説は1000年を越えて生きつづけたのです。まるで古代神話に出てくる、国造りの神様のような存在に思えてきます。
その中に入れた遺体を、直接じゃなくて埋葬施設自体に火をかけて焼く。
これは火化(かか・ひか)といい、火葬とは違う概念です。
『長谷寺縁起絵巻』のなかで描かれている、祟りたたりをなす霊木(御衣木みそぎ)の楠には、たくさんの共通点があります。
『大江山絵詞』絵巻のなかで描かれている酒天童子(酒呑童子)の伝説(または、その原型となった物語)は、『長谷寺縁起絵巻』の伝説を「元ネタ」のひとつとしてつくられた可能性があるのではないかとおもいます。(または、その逆の流れだったのかもしれません)
⑧徳道は、初瀬の郷の古老のところに行き、霊木について尋ねました。
⑪霊木は、志賀郡大津の里(今の滋賀県大津市)に流れ着いて70年とどまりました。
⑫その後、霊木は高市郡八木の里(今の奈良県橿原市八木)に30年、葛下郡当麻郷(今の奈良県葛城市当麻)に50年曳置かれましたが、行く先々で祟りや不吉なことが続きました。
上巻は道真が長谷寺に入って縁起文を筆する段を巻頭において、この縁起絵が由緒正しいことを示し、次いで、古くからあった本長谷寺の縁起を第二段に描くが、第三段以下は、本尊造像に尽力した徳道上人の誕生から出家、修行、寺院建立の決意、仏像造立の祈願を第七段までに描き、第八段は徳道が師の道明に教えられた霊木について、古老にその由来をたずねるところ。第九段以下第十二段は古老の語る霊木出現の経緯や、この木が人々にたたりをする説話を四話載せ、第十三段で徳道が里人からこの霊木をもらいうけた事をのべる。
『長谷寺縁起絵巻』のなかで描かれている、祟りたたりをなす霊木(御衣木みそぎ)の楠には、たくさんの共通点があります。
『大江山絵詞』絵巻のなかで描かれている酒天童子(酒呑童子)の伝説(または、その原型となった物語)は、『長谷寺縁起絵巻』の伝説を「元ネタ」のひとつとしてつくられた可能性があるのではないかとおもいます。(または、その逆の流れだったのかもしれません。)
良弁僧正は、当地で七夜の祈誓を行い南都に帰りましたが、日本全土の女人より髪毛ひとにぎりの寄進を受け、それによって大綱をつくり大仏殿の上棟を無事成したと伝えられています。
これら山伏、高僧は修験、祈願をかけて、奇瑞なる霊験をさずかり、
下山して社寺佛閣を建立する者又は此の地に骨をうずめる者あまた有りて・・・
各地に於て三宝荒神の社を建立し、
火をしずめる神として諸人は各家の竈神に奉祀其の御神徳に浴せり。
【由緒】
当社は荒神出自の源とされ、鎮座する鷲峯山は笠の如く峻嶺で、往古より信仰の山として仰がれている。
その昔、笠山鷲峯山に須佐之男命の神孫で竈の神である「奥津彦神・奥津比賣神」と大地の神「土祖神」を奉斎したとされるが、更に古くは土着の信仰が強かったといわれる。
『笠荒神鷲峯山竹林寺來由記』(延宝六年)には役小角によって笠山に荒神が鄭重に奉祀されたことが記されている。
以来、当社を中心とする笠山の地は、高僧・修験者・陰陽師などの修行の場となり、神仏習合の霊地として信仰を集めた。
木の鳥居から急な階段始まります。
この先 上は ⤵
本殿右手に説明板あったので撮影。
阿波青石の木口積 だそうで五角形に築かれてた。
鶴石亀石を組み合わせた「つるぎ石」って、
麓の登山口で10:31、結局9:52から40分の滞在だった。
また、天石門別神は天岩戸を開けた手力雄神に比定されることが多いが、この神は銅鐸のパワーを秘めているように思われる。阿波では名東郡佐那河内村に天岩戸別神社が鎮座しており、この佐那はサナギであり、銅鐸であると思われる。現に銅鐸が埋納されており、それを祠で祀っていたようだ。
小浜の東エリアなので、また次の機会を作って必ず行きたいものです。
若狭姫神社に飾られています。
若狭の奉納船の中ではもっとも古く、船全体の反りが少ない優美な船型。
絵馬の歴史を振り返るとき、古代において馬は、神の乗りものとして神聖視され、よって神霊を和らげまつり、祈願のために神馬の献上が行われていた。
「続日本記」によれば、宝亀元年(今より1200余年前)8月庚寅朔日、蝕ありし時、勅使を使わされて、伊勢大神宮(伊勢神宮)に赤毛馬を、若狭彦神(若狭一ノ宮)に鹿毛馬を奉るとある。
日蝕に対する呪術的儀礼として、太陽の衰弱を回復させるための献上であり、鹿毛の馬は赤毛(赤毛が火の色と関連する)に準じたものといわれ、世に名高い記事である。
伊勢神宮に「赤毛馬」2匹を奉ると記された後に、
宇佐八幡宮と若狭彦神社にそれぞれ「麻毛馬」を一匹と記されている。
皇室から尊ばれた日本を代表する2つの神社に該当したということですよね。
神馬で調べてみると、
また、古代の祭りや祈願・雨乞いの際には神に馬を奉納する習慣があった。
馬や馬形を奉納する歴史は古く、文献には多くの献馬の記述が確認できる。
『常陸国風土記』献馬の風習は崇神天皇の時代からである
『続日本紀』大宝二年(702)飛騨国が神馬を献上した
『延喜式』臨時祭に降雨祈願には黒毛馬、止雨祈願には白毛の馬が奉献されていた
神使いしもの 神鶏と神馬 より
宝亀三年(772)には、暴風雨をしずめる呪術儀礼として毎年九月に馬を奉ったと『続日本紀』は伝える。
また、生馬献上と共に、一方では生馬に代わって土馬・木馬などの馬形を献上する風習も生まれた。
そこからさらに馬形をも造り得ないものが馬の絵を献上する事になり、絵馬誕生したといわれ、現在も絵馬に祈願成就を託し神社に奉納するに至っている。
小浜はいろいろ歴史つまった地でした。
昨春、大枝神社の地車は補修から戻り美しくなりました。
神津嶽の登拝【更新日】平成29年8月31日
カンヤマトイワレビコノミコト(後の神武天皇)が建国を願って、天の岩戸を開いた天児屋根命を、生駒山の神津嶽(320M)にお祀りされて、今年は2680年を迎えます。ミコトは生駒の暗がり峠を越えて大和に入ろうとしましたが、ナガスネヒコの抵抗に遭い、迂回して熊野から吉野、宇陀を経て橿原で建国して、今年は2677年。その3年前に枚岡の神様がお祀りされているのです。現在の地にご本殿が創建されたのが、白雉元年⁽650⁾9月16日と伝えられており、神津嶽の本宮神社は、この9月16日が例祭日です。この日神職、巫女が総代等と山頂に上るのですが、枚岡神社の大元を振り返る絶好の機会ともなっています。
9月以外は毎月16日に、宮司が登拝しています。朝5時過ぎに出発するのですが、九十九折れの山道は、ゆっくり歩いても約30分で山頂に到着します。枚岡の大元の地で祝詞を奏上した後、心行くまで瞑想し、神様に感謝し、神様と対話するのが、至福のひと時ともなっています。春は鶯の声を聞き、夏は山頂で涼を楽しみ、秋は紅葉を愛で、冬は厳しい寒さを耐えた後の充足感を味わう等々、四季折々に満足しています。これもまだ足が丈夫だから出来るのです。因みに先般105歳で逝去された日野原重明さんは長年、階段を2段ずつ上がる努力を重ねて健康を維持され、世の中のために貢献されました。2段ずつ上がると、腿の筋肉が鍛えられて健康になるようです。足が丈夫だと健康で満ち足りた生活が出来るので、「満足」という言葉が出来たのでしょう。日常境内の坂道や石段を上り、毎月山に登ることによって、自然と足が鍛えられていることを思うと、日々感謝しかありなせん。
昨日まで全く知らなかった神津嶽(かみつだけ)、ググってみました。
天之児屋根命の御尊骸を納めた可能性ある神津嶽本宮住吉神社飯匙堀、鳥居もあるのに入れない。
飯匙堀のあの岩の下に埋まってるのかな〜掘ったら出てくるかな〜
これは大正3年からのことで、かつては住吉大社の境外末社だった。
8/1の住吉祭に、いまでも桔梗の造花をこの神社から捧げられるらしい。
神輿が堺の宿院頓宮まで渡御され、宿院の飯匙堀で荒和大祓が執り行われます。
そこでこの桔梗造花が供えられるのですね。
住吉祭 神輿渡御(みこしとぎょ)の歴史 に
享保 8年(1723)平野七名家の桔梗造花献上が再興
荒和祓桔梗献花口上覚 という記載がありました。
参拝者の姿なし。
祭神は、多治速比売命・素盞鳴尊・菅原道真
和泉国式神私考(発刊時期不明)に
「多治速名媛命 穂積押山宿禰之女 日本武尊之妃神也」
とあり、景行紀に穂積氏忍山宿禰の娘とある弟橘姫命(オトタチバナヒメ)を指すというが、
なお丹治比(タジヒ)君とは、
上殖葉皇子の母を橘仲皇女ということから、社伝にいうタチバナヒメとは、この皇女を指すのかもしれない。
「祭神は社名に由来する阿知使主(アチノオミ)であること、諸説一致している」
「20年秋9月 倭漢直(ヤマトノアヤノアタイ)の先祖、阿知使主がその子都加使主、並びに17県のともがらを率いてやってきた」
「当社が坂上氏の祖神である阿知使主を祭神とするならば、これは渡来人中の漢氏の氏神でもあり、その氏人の一部は陶器生産にも励んだことであろう」
狭山池博物館一階の水庭
円形中庭から見上げた空。
南都焼討に遭った東大寺を復興させた重源さん。
アラカシの葉っぱを踏み固めて入れてた時代も。
奈良時代、行基さんの修復により水で潤う河内平野
今朝は7:35の朝日です。
真東は電信柱あたり。
和歌山県の山中に現れるというこの一本だたらですが、実は超レアな妖怪です。
何故ならコイツが現れるのは一年に一度、12月20日のみなのです。
倒したらレアアイテムでもドロップしそうですね。
和歌山県と奈良県にまたがる果無(はてなし)山脈の辺りに住む人々は、この日を「果ての二十日」と呼び、決して果無山脈には近づかなかったそうです。
ちなみに出現日が12月20日である理由は不明です。
まあ、その理由を知ろうと山の中に入った人はそのまま行方知れずに・・・
なったかどうかは定かではありませんが。
大和国(奈良県)吉野郡・川上村の伯母峰峠に現れたといわれる妖怪。
元は熊笹がついた大猪だったが猟師に打ち殺されてしまう。
その後、付近の湯が峰温泉に現れて「鉄砲と犬をよこせ(どかせとも)」と言ったが
聞き入れられなかったことに怒り伯母峰を通る人たちを食い殺していたという。
そのせいで東熊野街道(現在の169号線)は人知れずの道となってしまった。
そこに丹誠上人(この人物の登場から時代は1590~1620の間になる)が訪れ、
地蔵による結界と封印を施して退治した。
ただ、どんな封印でも決まりがつきもので「12月20日は自由にしていい」という決まりで封印。
その後は再び伊勢参りなどでの賑わいを取り戻したが20は「果ての20日」と言われ恐れられた。
一本だたら関係の伝承でもしっかりとしたもので昔話などでも扱われることがある。
一本だたらは大和(特に猪笹王の出る吉野郡)の隣の紀州に現れる妖怪で一説にこれを指すとも別個体ともいわれている。
また、果ての20日自体は近畿地方各地に伝わるもので
「山の神が出る(山に入れない)日」「罪人を処刑するのが大抵この日だから」
物忌みして家でじっとしていようという風習がある。
引用元☞こちら