19日 あかる姫を追いかけて① の続きです。
私の不思議探究なんで、マニアックになります😅
淀川水運や、あかる姫に興味おありの方、
淀川水運や、あかる姫に興味おありの方、
ぜひご意見ご感想お聞かせいただければ幸いです。
だいたい神社って坂の上の小高いとこだったり、木々が茂って森みたいだったり。
いわゆる鎮守の森、知らない地でもすぐわかります。
ところが、姫島神社は海抜ー1mエリアの住宅地で全然目立たなかったんです。
淀川左岸の堤道から下って道もややこしい。
やっと辿り着くも、家出てから1時間半もたってた。
島と名のつく地名を黄色でマークしました。
先の記事で姫島神社は古代は海の中と記すも、ちょっと言い過ぎ。
西淀川区や此花区に古代の記録残ってますから、
島というか中洲いっぱいだったのでした。
確か「八十島かけて」の歌をブログったことあったので探しました。
わたの原 八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人のつり船
嵯峨天皇の逆鱗に触れ、839年隠岐に配流となった小野篁が、
難波(なにわ)より隠岐へ向かう船に乗り出で立ちた時、詠んだ一首です。
2010-10-13のブログ
マピオンの地図は選択したスポットの海抜出ます。
地図アプリによって表示される地名異なるのも面白い。
下の方にマークした「伝法」
ーーーあかる姫と関係ないけどーーー
ココは仏教教典が初めて上陸した地と習ったような。
地名由来で検索すると、AIの答えは、
大阪市の地名「伝法」は、645年(大化元年)に
法道仙人が仏法を伝える草庵を建てたことに由来しているといわれています。
西淀川区の伝記伝承のページには、
一部引用
神功皇后が住吉神社に奉献された島の中に幣帛島(へいはくじま)と呼ばれた島があります。
これは三韓から朝貢を運んできた船が、このあたりで難船の危機にあったことから、
この島に姫神を祀ったと住吉神社記にあります。
また一説には、神功皇后が朝鮮半島に向かわれての帰途、
これは三韓から朝貢を運んできた船が、このあたりで難船の危機にあったことから、
この島に姫神を祀ったと住吉神社記にあります。
また一説には、神功皇后が朝鮮半島に向かわれての帰途、
ここで御幣を調整し、国の安泰を祈ったとも伝えられています。
これが御幣島の語源です。
◎姫嶋神社所蔵「東町地車の刺繍飾幕(前幕)
神功皇后が朝鮮半島へ向かわれる折の様相を想像し、明治時代に作られた
◎姫嶋神社所蔵「東町地車の刺繍飾幕(前幕)
神功皇后が朝鮮半島へ向かわれる折の様相を想像し、明治時代に作られた
佃は往時、田蓑島(たみのしま)と呼ばれていました。
足利義詮の1364年(貞治3年)住吉詣記に「田蓑島の南に当り、野田の玉川という所あり」と記されています。
また宗祇法師の名所方角抄には「田蓑島は天王寺の西戌亥の方よりの海兵なり」とあって、
佃は佃千軒と呼ばれるほど、たくさんの漁民が集っていました。
この佃の漁民が徳川家康を助けたことから江戸に移住して…
一応史実も踏まえ私の妄想記してます。
一応史実も踏まえ私の妄想記してます。
2018-10-20
詰まるところ、大阪市の湾岸エリアの淀川下流域は、今の風景と違って島や中洲だらけ。
さほど高い小山はなかったのでしょう。
さらに土砂堆積し海が後退して地続き平野となっていく。
あかる姫を追いかけて①に記したのを再掲します。
摂津国風土記逸文に、比売島の松原は
昔、応神天皇の御代に、
新羅国の女神(比売許曽の神=赤留比売)が夫から逃れて来て、
しばらく筑紫の伊波比(イハヒ)の比売島に住んでいたが、
「この島は新羅国から遠くない。ここにいたら夫が尋ねてくるだろう」
新羅国の女神(比売許曽の神=赤留比売)が夫から逃れて来て、
しばらく筑紫の伊波比(イハヒ)の比売島に住んでいたが、
「この島は新羅国から遠くない。ここにいたら夫が尋ねてくるだろう」
といって、摂津国の比売島に移って来た。
だから、元いた土地の名をとって、この島を比売島という』
これによれば、大分の姫島の方が先住地で、のちに大阪の姫島へとなってます。
だから、元いた土地の名をとって、この島を比売島という』
これによれば、大分の姫島の方が先住地で、のちに大阪の姫島へとなってます。
追記:
アメノヒボコで調べると、
摂津国風土記と時代少しズレてますね。ココはちょっとスルーして(^^)
応神天皇の母、神功皇后が姫神を祀ってた、
そうした島へ、あかる姫が大分の姫島から逃げてきた。
難波(=浪速)の八十島、船が行き交う賑やかな所に居たら、
せっかく逃げてきたのに、夫がやってくるやんか。
あかる姫、さぁどうする〜
続く
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